エッセイ『田川大吉郎の教育勅語批判―「爾祖先ノ遺風」をめぐって―』

※この記事はあくまで「在野研究(のようなもの)のnoteを用いた発表練習」として書いたものです。特に捏造や剽窃があるというわけではないのですが、一般的な論文レベルの強度を意識していないので、見苦しい点や論理的に甘い箇所が多々あります。何卒ご容赦ください。

はじめに


戦前期に新聞記者、衆議院議員として活躍した田川大吉郎(1869-1947)の政治的思想について、遠藤興一(2013)は、例えば日中関係について、「狭義の意味における政治分野に限定することなく,広く文化全体を視野におさめて展開すべきであるという視点を青年期から一貫して持っていた※1」と述べている。


では、日中関係以外の場面、例えば植民地統治の分野においても、田川は同様の「視点」を持っていたのだろうか。田川は青年期に『台湾新報』の記者として植民地である台湾に駐在し、衆議員時代にはいわゆる「教会ネットワーク」を通じて多くの台湾人留学生と交流があったことが知られており、少なくとも「植民地・台湾」との間には、深い関わりがあったといえよう。そのため本稿では、台湾における田川の言論活動に着目して論を進める。


本稿では、田川が大正14(1925)年に台北における講演会で行った「教育勅語批判」を紹介するとともに、彼の「広く文化全体を視野に収めて展開すべきであるという視点」が日中関係にとどまらず植民地・台湾においても適用されたのか、考えてみたい。

1.植民地における教育勅語


戦前期の日本において、学校教育の根本的方針かつ道徳的規範とされたのが「教育勅語」(以下、勅語)であることはいうまでもないが、それは明治28(1895)年から昭和20(1945)年にかけて日本の統治下にあった台湾においても例外ではない。勅語は領有直後から、主に内地人と呼ばれた日本人子弟が通った小学校や本島人と呼ばれた漢人子弟を対象とした公学校で、「修身」教科書、あるいは学校行事の際に校長により勅語を音読する「奉読」といった、条文をそのまま使用する形で実践がなされていた。

ところが、植民地で教育勅語を使用するときに立ち現れるのが「爾祖先ノ遺風」に関する矛盾である。教育勅語には、「爾祖先ノ遺風ヲ顕彰スルニ足ラン」という一節が存在する。現代語に訳すと「あなたたちの祖先の残した良い風習を褒め称えることでもあります」という意味になるが、「祖先」の異なる植民地の住民の「遺風」は、教育勅語の前提となる天皇イデオロギーとは当然異なるものであった。

2.井上哲次郎による批判


田川大吉郎に先行して「爾祖先ノ遺風」の矛盾を指摘したのは、東京帝国大学教授の井上哲次郎である。

井上は明治24(1890)年に公布された教育勅語の「公式」の解説本である『勅語衍義』の著者であり、翌年発生した不敬事件の際には国家主義の立場から内村鑑三を激しく糾弾したことで知られる人物であるが、大正8(1919)年に雑誌『教育時論』一一二七五號において、「植民地ニ新勅語ヲ賜フベシ」と題する論文を発表している。 

その中で井上は「臺灣ニ於テ教育事業ニ關係シタル人々」の経験を聞くと、教育勅語に「諒解出来ナイ點」があるために「臺灣ノ支那人ニ」説明することが困難であり、「甚ダ困ツタ」と異口同音に話していると述べた上で、日本人にとって当然のことである教育勅語の理念は「元来歴史ヲ異ニシテ来た」植民地住民には受け入れがたいのも「當然ノ事」であると指摘している。そのため、「現在ノ教育勅語ニ對シテ多少字句ヲ代ヘタ」新勅語を別に作成することが「一番適切」であると主張する。特に「爾祖先ノ遺風ヲ顕彰スルニ足ラン」の部分は「朝鮮人ヤ臺灣人ニハドウシテモ違ツタ考ヘヲ起コサシメ」る為に「是非適切ナ文句ニ改タメナケレバナラヌ」と強調している。

3.田川大吉郎による批判ー『臺灣日々新報』からー


井上論文から6年後の大正14(1925)年1月11日、台北市内で実施された講演会で田川大吉郎による教育勅語批判が行われる。

講演から翌々日、1月13日付『臺灣日々新報』に掲載された記事「田川氏の講演次第ニ問題化サル」を参照すると、田川が「教育勅語ガ領臺以前ノ明治二十三年ニ賜ハッタモノデアッテ其ノ中ニ『爾祖先ノ遺風ヲ顕彰スルニ足ラン』ノ文句ガアルタメ之ヲ公学校ニ奉讀サセルノハ不可デ宜シク新附ノ民ニハ新シク勅語ヲ賜ハル可キ」と主張したことが「各方面ニ知附悉サルヽニ從ツテ漸次問題化サレツツアル」ことを取り上げ、「多数本島人ノ聴衆」が聴いている「公開ノ席上」でのこうした発言は「刑事問題ニ触レテ来ル来ナイハ別トシテ少クモ紳士アルマジキ非国民的態度」であると批判的に論評している。


さらに翌14日の社説では「本島民祖先ノ詮議立ニ就テ」という題で田川に対する批判を展開している。批判社説の内容を要約すると、批判の論拠として挙げられているのは日清講和第五条で示した日本国籍拒否権である。つまり、日本国籍を拒否せず中国本土に渡らなかった以上、台湾人の「祖先」もまた「當然日本臣民ト同一ノ祖先デナケレバナラナイ」という論理であった。

4.田川による批判の思想的背景


ここまで見てきたように、田川の教育勅語批判は激しく非難を浴びたわけであるが、当時の社会常識で考えると、天皇の「おことば」である勅語を批判することはまさしく「非国民的態度」であり、糾弾されるはある意味必然的であったといえよう。では、どうして田川はここまで大胆な批判を繰り広げたのか。本節では、仮説として2つの要素を提示したい。

ⅰ.勅語とキリスト教式教育の断絶

第一には、教育勅語とキリスト教式教育の断絶である。

田川大吉郎の思想背景にあるのは、言うまでもなくキリスト教である。教育勅語はその濫発勅語から、キリスト教は激しく対立してきた歴史がある。「内村鑑三不敬事件」で井上哲次郎が教育勅語に「礼を欠いた」として内村を糾弾したのは先述の通りだが、井上はさらに1893(明治25)年に『教育と宗教の衝突』を発表し、キリスト教は日本の「国体」および教育に合わないと主張した。

この『教育と宗教の衝突」を機にキリスト教と教育をめぐる激しい論争が繰り広げられるのであるが、キリスト教にとってさらなる逆境となったのが、7年後の1900(明治32)年に発布された文部省訓令一二号「一般ノ教育ヲシテ宗教外ニ特立セシムルノ件」であった。

その内容は「一般ノ教育ヲシテ宗教ノ外ニ特立セシムルハ学政上最必要トス依テ官立公立学校及学科課程ニ関シ法令ノ規定アル学校ニ於テハ課程外タリトモ宗教上ノ教育ヲ施シ又ハ宗教上ノ儀式ヲ行フコトヲ許ササルヘシ」というものであり、正規のカリキュラムの枠外の活動も含めて学校内でのあらゆる宗教教育・宗教儀式を禁止したのである。しかし、斉藤泰雄(2015)によれば、「国家神道、それと密接に関係する教育勅語をベースにした修身教育や勅語奉読儀式は、宗教教育禁止の対象とされなかったことはいうまでもない※2」のであった。

田川は1923(大正12)年に設立された日本基督教連盟常議員に、また講演が実施された1925(大正14)年には明治学院学院長に就任している。当時のキリスト式教育の中心的存在であった田川にとって、教育勅語批判に踏み切る動機は十分あったと言えるだろう。

ii.蔡培火との関係

第二に指摘できるのは、蔡培火との関係である。


先に挙げた1月13日付『台湾日日新報』に掲載された「警務局長談」における一文を、以下に引用する。

先程モ蔡培火君ガ来テ田川サンノ事デ何カ注意サルル事アレバ参考ノ為メ承リタイト言ツタカラホテルデ教育勅語ノ批判ヲシタ如キハ甚ダ困ツタ事デ之ニ就テハ篤ト実ハ考慮中デアルト言ツテ帰シタ所ダガ甚ダ困ツテヰル。

 記事の前部分には、この「警務局長」への取材は12日に実施されたと書かれているため、講演の翌日に蔡培火が「警務局長」を訪れ、田川講演について「注意サルル事」があるか尋ねていたことが判明する。台湾議会設置運動の中心人物であった蔡が教会ネットワークや植村正久を通じて田川と結びついていたことは多くの先行研究で指摘されており、蔡の代表的な著作である『東亜の子かく思ふ』の序文を田川が執筆していることからも、その関係の深さがうかがえよう。

では、蔡は総督府による教育政策をどのように捉えていたか。一つの手がかりとして指摘できるのは、「台湾語羅馬字化運動」である。

1922(大正11)年、雑誌『台湾』第三年第六号に、蔡は「新台湾の建設と羅馬字」という論文を発表している。蔡は「台湾羅馬字とは羅馬字に台湾語固有の発音を付し、特別の綴方に依つて我が台湾語を書表するもの」と定義し、日清戦争以前に英国の宣教師によって考案されたものであると説明している。陳培豊(2001)によると、蔡がこのような運動を提唱した動機や趣旨は白話文普及運動(中国大陸で魯迅・胡適を中心に提唱された、中国語の言文一致運動)と類同するものであり、総督府による教育に対しての強い不平・不満を持ち、台湾総督府による教育の担い手の独占を打破する狙いがあったと指摘し 、「“民族への同化”に偏重する国語教育への教授内容に対する強い危機感が、蔡の言語改革への原動力になった 」と評価している※6。


「爾祖先ノ遺風」を融解しようとする教育勅語は、まさに「民族への同化」を進めるものであり、蔡の容認しうる性質のものではないと言える。蔡のこうした危機感がどの程度田川に共有されていたかは定かではないものの、その影響を否定することは難しいだろう。また、公演翌日に警務局長を訪ねていることからも、蔡がある程度事前に講演の内容を把握し、総督府の反応を確認する役割を担っていたと考えられる。

おわりに


植民地における教育勅語の適用には、「爾祖先ノ遺風」の矛盾が立ち現れていた。井上哲次郎や田川大吉郎はこの矛盾を指摘し、独自の教育勅語を設定することを主張したが、「台湾日日新報」上で激しく批判されることとなった。田川による批判の思想的背景には、当時のキリスト教系教育の後退や盟友である蔡培火の影響があったといえる。


『台湾日日新報』における田川講演についての記事は14日の批判社説を最後に言及されることはなく、植民地における教育勅語の是非を等議論を喚起するに至らず、1945(昭和20)年の敗戦まで本土と同様の教育勅語が幅広く使用される状況を変革させることはできなかった。とはいえ、批判を覚悟しながらも、「爾祖先ノ遺風」の矛盾を明らかにすることで、総督府による教育政策の弱点を鋭く指摘した点は、田川の「広く文化全体を視野に収めて展開すべきであるという視点」が日中関係にとどまらず植民地・台湾においても色濃く反映されたエピソードとして評価できるだろう。



※1 遠藤興一「中国政策に関する発言と行動の軌跡 : 戦時体制下における田川大吉郎の闘い」(『明治学院大学社会学・社会福祉学研究』139号,2013年)1頁。
※2 斉藤泰雄『学校教育における宗教教育の取り扱い-日本の経験』(広島大学教育開発国際協力研究センター『国際教育協力論集』第18巻第1号,2015年)126頁。
※3 陳培豊『「同化」の同床異夢 日本統治下の国語教育史再考』(三元社,2001年)221―222頁。

参考文献(脚注に付したものは省略)


・臺北師範学校編『教育勅語ニ関スル調査概要』(1925年(阿部洋編,『日本植民地教育政策史料集成(台湾編)第20巻』龍溪書舎,2009年に収録の復刻版))
・井上哲次郎「植民地ニ新勅語ヲ賜フベシ」(『教育時論』一一二七五號,1919年)
・「田川氏の講演次第ニ問題化サル」(『台湾日日新報』1925年1月13日)
・「本島民祖先ノ詮議立ニ就テ」(『台湾日日新報』1925年1月14日)