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引きこもりからの奇跡と軌跡

公立の進学校を卒業し、
一年浪人して19歳で京都大学工学部電気電子工学科に入学。
2回生の時に精神のバランスを崩す。
主な主訴は髪を洗ったときに抜け毛が気になり、
自分の後頭部のあたりが毎日気になり、
街行く人が皆自分の後頭部をジロジロ見ているのではないかと
思いはじめそればかりが気になり、
病名を付けるのなら醜形恐怖とでもいいましょうか、
とにかく自分の容姿が気になり、
とても心が不快な大学生活を送っていました。
髪を洗った後に排水溝に残った髪の毛の数を毎日数えるくらい
抜け毛に敏感になっていました。
容姿にもコンプレックスがあり、抜け毛のことも気になるので
このままだと彼女も出来ないんだろうなと思っていたところ、
メル友として仲良くなった松たか子似の薬学部の彼女ができて、
おお喜びした自分を覚えています。
これで自分の醜形恐怖も物色できたかと思いきや、
やはりメンタルの不調は続いていました。
大学院に進学希望だったのですが、
心を崩したまま望んだ大学院試験に落ち、
薬剤師の卵であった大好きな彼女とも別れる。
メンタルの不調を感じながらも
大学は留年もすることもなく23歳で大学を卒業するが
就職が怖くて実家に戻りそのままひきこもる。
これだと社会不安障害なのかなと今振り返ると
思ってしまいます。
醜形恐怖や社会不安障害に似たものもあったのでしょう。
引きこもっている時初めて死にたいと思いはじめる。
このままでは本当に自殺してしまうと思い、
メンタルクリニックに通院したがあまり通わなくなりました。
この時何の薬が処方されたのかは覚えていません。
恐らく抗不安薬が処方されたのかと思いますが、
あまり効きませんでした。
その後24歳の時はずっとひきこもり状態でした。
昼夜逆転した生活を送っていました。
この頃は親にも迷惑をかけていることも痛感していたので
とてもつらかったです。
このままではいけないと思い、
25歳のときに精神保健福祉士の資格を取得することを決め、
専門学校に一年間入学しました。
精神保健福祉士の国家試験に合格するも、
就職の際にまたしても引きこもってしまいました。
ある精神科に面接に行ったところ、
京大卒の学歴を面接官が見て、
あなたにはもっと他の職場があると思うと言われました。
ここまでが学生時代ということになるのでしょうか、
この頃はとにかく社会に出るのがとても怖かったんです。
今では私の世代は就職氷河期の世代と言われますが、
当時の就活状況は本当に酷くて、
京大卒でさえも派遣社員という状況でした。
私は何が怖かったかと言うと、その当時リストラも横行していて、
自分自身も将来絶対にリストラされると思いこんでしまい、
社会に出て働くのが怖かったのです。
自分は机上の勉強しかできない、
実社会で働くことはできないんだと
完全に思い込んでいました。
こうやって25歳まで学生と引きこもりの繰り返しの人生でした。
とてもとても精神的に辛かった人生です。
次回社会人編を書こうと思います。

今回は25歳で精神保健福祉士の養成学校を
卒業したあとのことから書こうと思います。
精神保健福祉士の資格を取得してもまたも引きこもってしまい、
まだ社会に出るのが怖かったのもありました。
それ以上に面接で言われたように京大卒のあなたには
精神保健福祉士の仕事よりももっと別の分野が向いていると
面接官に言われたことも頭に残りました。
自分自身京大を出て一流企業に入社して一生安泰と
安易に考えていたこともあり、
実際に友人たちは皆一流企業や理系官僚になっていったこともあり、
私自身精神保健福祉士の仕事に就職するのに余計な
高いプライドが邪魔をしてしまいました。
人生こんなはずじゃなかったと心の奥底で
思っていたのだと思います。
せっかく京大卒というカードを持ったのに
それを活かせず完全に自己責任ですよね。
自業自得だと思います。
26歳の時もずっと家に引きこもっていました。
無意味な一年間を過ごしたと思っています。

確か27歳の時でした。転機が訪れました。
姉の小学校の担任の先生がフリースクールを立ち上げたのを
新聞で知り、ちょっと行ってみようと思ったのです。
勉強なら少しは教えることができるかなと思っていました。
早速行ってみたところ、その場ですぐに
このフリースクールのスタッフにならない?と
言われました。
予想外でしたが、私も特にやることもなかったので
勉強くらいなら教えることができるかもしれないですねと
フリースクールの代表に行っていきなりスタッフになりました。
不登校の子供たちが通うフリースクールでしたので
もちろん様々な理由で学校に行けない子供達の対応でしたが、
勉強を教えるのも一部分なのですが、
生徒さんたちとテニスをしたり、農作業に出かけたり、
農作業で収穫したものを販売に行ったりと不登校の
子供達に勉強以外の道も示しながら活動していました。
このフリースクールの詳しいことはまたどこかで
触れたいと思います。皆さんお楽しみに笑
このフリースクールには27歳の時から32歳の時まで
スタッフとして在籍していたのですが、
このフリースクールの経験を活かして
学校の先生になろうと思い、
元々工学部出身なので理科と数学の免許は取得できる可能性が
あったので調べてみると数学の科目の単位はある程度取っていたので
後は教職の専門科目を取得しないといけなかったので
通信制の大学で教職の専門科目を取り、
詳細は省きますが、情報と数学の免許を取得しました。
免許を取得した後に公立の教員採用試験を受けたのですが、
他の人は必死に公務員対策をして受験するにも関わらず、
私はフリースクールに在籍しながらだったので、
何の対策もせず教員採用試験を受けてあえなく撃沈。
何も対策もしていなかったので不合格もさほどショックではなく、
まあこんなものかなと思っていました。
その後もフリースクールで働いていたところ、
私立高校の数学の教員募集が新聞に載っていたので、
とりあえず受けてみるかと思って受験してみたところ、
なんと採用させて頂きました。
この年で33歳だったので、33歳でやっと正社員の職に
就くことができたのでその時にはもう本当に嬉しかったです。
もう親に心配と迷惑をかけることもこれでなくなるんだ…と
自分でも浮かれていました。
さて社会人編のフリースクール編はこの辺でさておき、
次回は社会人編の数学教諭編について書こうと思います。

33歳にして初めて正社員となりました。
同期と約10年も遅く社会に出ました。
相当出遅れているかと思います。
ただこの時はとにかく引きこもりから脱出できたと
いう感じがとても強く、もう悩まなくて済むんだと
嬉しく思っていました。
両親と姉もとても喜んでいたことでしょう。
私が引きこもっていたときに思ったのはやはり
引きこもりからの脱出は正社員になることでした。
フリーターでは駄目なんです。
引きこもっていた状態からフリーターになったとしても
自分自身では引きこもりから立ち直ったとは言えませんでした。
それと引きこもりからの脱出の証として結婚です。
私は33歳のときに初めて正社員になりましたが、
京大時代の同期はとっくに結婚していて子供ももういるのが
普通でした。世間的に見ても結婚の平均が確か28歳くらいだったので、
完全に出遅れていましたね。
しかしとりあえずは正社員として就職できたことが
何より嬉しかったので結婚のことは少し忘れていたような気がします。

浮かれるような気持ちで33歳の年に教員生活が始まったのですが、
ここからがまた苦難の始まりでした。
というのもやはり私自身メンタルが弱いのが影響しているのか
どうかわかりませんが、とにかく仕事ができない駄目教員でした。
授業も下手で生徒指導もできなくてとても能力不足を感じました。
優秀な先生たちは2年目から担任を任されるのですが、
私は初めて担任を受け持ったのが教員生活4年目でした。
このことからやはり上層部から仕事ができないという烙印を
押されていたのだろうと思います。
次の年の5年目には担任から降格させられたので、
やはり仕事ができないというレッテルを貼られていたようです。
もちろんそのことは苦しかったのですが、
引きこもっていたときに感じていた希死念慮は無く、
それはとても不思議でした。
言うのが遅くなりましたが、27歳からフリースクールの
スタッフとなった時も希死念慮は感じませんでした。
この希死念慮がなかったのにはとても救われました。
前にも述べたかもしれませんが、引きこもっていた時には
死にたいなと常々思っていたので希死念慮がとても強かったです。
この気持ちは無くなることがあるのあろうかと不安でしたが、
フリースクールスタッフ時代も教員時代も
希死念慮は全くありませんでした。
ただこの後の人生で希死念慮がまた出てくる時がやってきますが、
それはまた後で書こうと思います。

教員生活は駄目教員のレッテルを上層部から貼られていたのですが、
生徒と触れ合うのはとても楽しく、仕事ができないながらも
楽しいこともありましたので、この時は単なる仕事のできない
サラリーマンという感じでしたね。
ここで私の心の中で引きこもりからの脱出の証として
正社員になることと結婚が重要な要素でした。
正社員になったことで一つの課題はクリアしましたが、
もう一つの課題はクリアできていませんでした。
私は33歳で教員になったので私より年下の先生たちはたくさんいて
順調に結婚していかれる方々ばかりでした。
他の先生の結婚を尻目に、私自身結婚どころか彼女すら
おらず、とてもコンプレックスを感じていました。

学校の先生という仕事はとても忙しいので、
結婚される方々は大学時代から恋人がいた
先生たちが多く、それか職場で知り合って結婚するくらいしか
選択肢がありませんでしたね。
私は就職が遅かったので給料も低く、普段がとてつもなく
忙しいので出会いもゼロなので恋人も出来ませんでした。
職場恋愛をしようにも私にも好みがあったので
なかなか良いご縁には恵まれないまま時間だけが
過ぎ去っていきました。

このままでは一生結婚できないと思い、
婚活パーティーにも出かけるようになりました。
ただここでもマッチングはするのですが、
なかなか交際まで発展せず、焦りは募るばかりでした。
そこで週末に婚活パーティーに参加するのではなく、
費用はかかりますが、
大手の結婚相談所に入会することを決めたのです。
この結婚相談所でももちろん苦戦はしていたのですが、
実は私は大学時代に薬学部の彼女がいたので、
薬剤師さんと結婚したいなと強く思っていました。
理由は私がメンタルが弱いので働いていても
またどこかのタイミングで精神の不調をきたすと
大変なことになるので、私ひとりが一家の大黒柱に
なるのではなく、お嫁さんの方も安定して働いてくれる
女性を希望していたのです。
情けないといえば情けないですし、
計算高いといえば計算赤いですし、
とにかくひとりで生き抜いていく自信はなかったので
奥さんにするなら絶対に薬剤師さんと結婚したいと
思っていました。
相談所でも薬剤師さんで探しましたし、
真剣交際を申し込んでも断られることももちろんありました。

そんな中で現在の妻と知り合ってお互いに条件も合致したので
とうとう教員生活4年目で結婚しました。
正確には教員生活4年目のときに妻と交際を始めていました。
入籍は教員生活4年目のときにして、結婚式は5年目にしました。

これで私の心の中での引きこもりからの脱出条件の
正社員と結婚の2つをクリアしたのでした。

次回は薬学部時代編です。

教員時代4年目の36歳で入籍し、5年目に突入した時の事でした。
私立の学校だとこれから少子化に向かい、
先細りしていく分野だとは分かっていたので、
これから先どうしようと悩んでいました。
結婚もしたことだし、もっと安定した
仕事をと思っていても当時もうすでに37歳。
転職するにも厳しい年齢であり、公立の教員採用試験を
受けようにも準備不足なので当然受かる見込みも無かったので、
それこそどうしようかと迷っていました。

とまあ表面だけ言うとこんな感じなのですが、
正直に言うと、当時妻が子供を欲しがっていて、
私自身は33歳でやっと正社員で就職したこともあって、
社会人経験も5年ほどしかない状態でしたし、
何より子供を持つことにとても不安を覚えていました。
社会に出ることですら怖がっていた自分に
子供など育てることなど到底できるはずもないと
自分では思っていました。
この時もやはり先に不安感だけが先走り、
行動ができなかったんです。
私の大学卒業時のnoteにも書きましたが、
就職の時も将来の不安ばかり心配して
行動が出来なかったのです。

妻も不満を持ち始めたので、いよいよ
悩みが本格化してきていました。
そこで義父が開業の獣医師をしていたので、
義父に相談すると、国立の医学部や薬学部は
これからまた勉強するのが大変だろうから
私立の薬学部ならどうだろう?というお話が。

確かに薬剤師になれれば仕事自体とても安定していますし、
何より当時妻が薬剤師をしていて、
仕事も残業なく帰ってきてその上給料も高く、
大学時代に交際していた彼女の薬学部でしたし、
何より私自身が絶対に薬剤師さんと結婚したいと
思っていたので、薬剤師になるという
義父の考えは私はすぐに食いつきました。

妻は最初当たり前なのですが、当然困惑していましたが、
義父が薬学部の授業料を援助すると言ってくださったので、
妻も実の父親の強力な援護もあって
私の薬学部編入学を了承してくれました。
こうして教員生活を5年で終了し、
薬学部への編入学が決まったのです。

次は薬学部時代中編です。
ご期待ください。

薬学部時代中編です。
薬学部へは2年時の編入学となりました。
当然一年でも短いほうが学費の抑制になるので助かります。
薬学部の一年間の授業料は約200万円なので一年間短縮できるのは
やはりかなりのメリットでした。
義父が援助してくれなければとてもじゃないですが、
私立の薬学部へは入学出来なかったことでしょう。
義父は70歳を超えた今でも年収4000万円もある
とんでもない人です。
私が今まで人生の中で出会った人で会ってすぐにこの人はすごいなと
思ったうちのひとりです。
義父は本業以外に太陽光発電も成功させ、
今の本業を辞めても年間に1000万の収入がある方で、
この間も株で2000万円ほど儲けていつも私の考える金額よりも
零の数が一つか場合によっては2つほど多い方なんです笑
私の年収からみたら雲の上の殿上人ですね。
もちろん上には上がいますが。

さてこんな偉大な義父の援助の元、
薬学部の2年生から新しい生活が始まりました。
2年生から始まったので、
有機化学といった1年生から積み重ねていないと
理解が困難な科目はありましたが、
勉強自体はそんなに大変と思いませんでした。

転機だったのはあれは確か6年生の12月くらいだったと思います。
国家試験まで残り2ヶ月くらいになってきており、
プレッシャーのせいか、
夜眠れなくなってきたんです。
恐らくこのあたりからまた精神的な不調の兆しがあったと思われます。
心療内科に通いはじめ、睡眠薬とある別の薬を処方される
ようになりました。実は国家試験のことだけでなく、
もう一つ別の悩みもあったので、むしろ国家試験ではなく、
そちらの別の問題のほうが問題だったのかもしれません笑

私が通っていた大学は月に一回国家試験を見据えた
模擬試験が行われていて、
私の成績も国家試験合格に十分届いており、
この時点での成績だと誰も私が不合格になるとは
つゆにも思っていなかったと思います。

実際に模試の一番最後の集大成である卒業試験も
悪い成績ではなく、この時もうすでに国家試験まで
あと一週間というところまでやってきていました。
12月から通っていた心療内科への通院も継続しており、
相変わらず睡眠薬は飲んでいました。
心を落ち着ける系統の薬は確か飲んでいなかったような気がします。
精神的な不調がマックスになったのは、
卒業試験が終わり、国家試験で残り2週間と
なったときくらいから酷くなりました。
かつて京大を卒業した後引きこもっていたときくらい
心の調子が悪く、以前のときと同じで
不安のほうが先に来るのです。

具体的には国家試験を不合格になるのではないかと
疑心暗鬼になってしまい、勉強の手につかず、
睡眠薬の量も増え、なかなか眠れない日々を
送り、国家試験当日を迎えることになります。
相当心の調子が悪かったですが、
この時はまだ希死念慮はありませんでした。

国家試験前日大学が企画したバスツアーに
参加し、バスで移動する時も自分は
試験に受からないのではないかとビクビク
怯えながら時間ばかりが過ぎていきました。
この時の主な主訴は国家試験に受からないのでは
ないかという大きな不安でした。

成績的にも十分で落ちる要素などは一つもなかったのですが、
このメンタルが不安定になることこそが不安要素だったのです。
もうこの時は精神錯乱状態で、パニック状態でした。
なんとか国家試験を受けたのですが、
当然手応えもなく、途中で棄権してそのまま
受験を放棄するのではないかと思いましたが、
なんとか受験だけは終わらせることが出来ました。

ただ結果は自分の不安通り不合格。
メンタルが普通ではなかったので
不合格は確信していましたが、
不合格はやはりとてもショックでした。
この時すでに2児の父親でしたのでこの先
どうすればよいのだろうと途方に暮れていました。
この不合格を知ったときくらいからもうすでに
希死念慮が出てきました。
この時すでに42歳で2児の父親で無職。
完全に人生詰んだなと思っていました。
死にたいという気持ちがいつもあり、
ほとんど寝ることが出来ず、
睡眠薬を使っても効果が無かったです。
これほど心の状態が悪くなるのは人生2回目です。

次はかなり精神的にキツかった国家試験浪人時代です。
お楽しみに。

国家試験が不合格と分かり、
絶望した気持ちでいっぱいでした。
この時はひたすらに死にたいと
思っていた時期でもありました。
もちろんやるべきことはもう一度
国家試験にチャレンジすることなのですが、
頭ではわかっていても、
次に受験してまた同じような精神状態に
なったらまた不合格になるかしれないと
いう恐怖感が走り、
なかなか勉強しようという気持ちになりませんでした。
成績的には十分だったので、
やはりメンタルの安定が最重要課題でした。
一番のネックは再現性がないので、
また落ちるかもしれないということです。
まだ家庭も無く独身ならば気楽だったのでしょうが、
結婚もしていてさらに子供も小さい子が二人
いる状態なので気軽に国家試験浪人ができる
家庭状況ではありませんでした。

そこで子供がいたのでまずは妻の実家に帰ることは
決まっていました。
そこでフルタイムの正社員で妻が働き、
子供は保育園にあずけるという方向性になって行ったのですが、
ここでまた問題が発生しました。
私に勉強時間をどうするんだという問題です。
国家試験の予備校に行こうにも私も妻も九州出身ですが、
予備校は福岡しか無くて、私が予備校の寮に行って
勉強するのも難しい状況でした。
なにせお金もないので予備校に行くのも無理ですし、
何より福岡に物理的に行くのは厳しい状況でした。

なにか良いアイデアがないと考えていたところ、
義父が自営業なので、義父のところで
働くことができれば就労証明書ももらえるので
それを保育園に提出すれば夫婦共働きになるので、
子供を預けることが出来ます。
しかも義父が時間を融通してくれれば
私の勉強時間も確保できます。

これならなんとかやっていけそうだということが
決まり、それに向けて準備をはじめていきました。
一応私の実の両親が万が一私が国家試験に落ちたことを
考えてお金を用意してくれていたので、
オンラインの予備校を申し込むことが出来ました。

こうやって良い方向性に向かって行っていたのですが、
希死念慮は相変わらず続き、死にたいなと
いつも思っていました。
国家試験の合格発表が3月でしたが、
その頃から希死念慮が続き、
4月になってからも希死念慮は続いていました。
睡眠薬を飲んでもほとんど眠れず、
とてもキツかったです。

3月くらいまでは、
そのころ妻の実家にいたのですが、
マンションを借りて出ていくことになったので、
今まで以上に家事育児の手間が増え、
勉強時間の確保も難しくなってくるのが
不安でまた眠れなくなっていました。

私が精神的に不安定だったので、
一度私はゆっくりするために
妻と子供は妻の実家に身を寄せて
私だけ自分の実家に戻り暫くの間
静養することになりました。

確か4月の初旬に自分の実家に
戻っていたと思います。
実家に戻ってきて、実家の近くの
心療内科で抗不安薬と睡眠薬を
処方してもらっていました。
自分の実家はゆっくり出来ていたのですが、
やはり夜に寝ることが出来ず、
まだ死にたいなと思っていました。

大学を卒業して引きこもっていた時は
独身だったので背負うものが少なく、
それでも希死念慮はありましたが、
今回は家庭があり、しかも子持ちです。
プレッシャーは相当感じており、
来る日も来る日も国家試験のことばかり
考えていました。
学力は十分なのに、次の試験も
またこころの調子を崩すのではないかと
いう不安がどうしても頭をよぎります。

そうこうしているうちに、4月の中旬からくらいでしょうか、
今となっては時期ははっきりしませんが、
寝ることができるようになったのです。
薬が効いてきたのかというと恐らくそうではないと思います。
薬学部の時から抗不安薬や抗精神病薬を服用してきましたが、
心が軽くなった試しはありません。
薬剤師なので多少その辺の薬の知識もありましたが、
睡眠薬もあまり効かないんです。
かなり強力な抗不安薬も飲んでいましたが、
不安がとれることは無かったですね。

実家に帰ってきて安心したのかどうか
不思議ですが、とにかく夜に寝ることが
できるようになり、実家にいましたが、
朝起きてまだ春だったので、
朝の気持ちの良い日に散歩までできるようになってきました。

実家で静養して眠ることができるようになったので、
また妻の地元に帰り、5月のGWからマンションで
私と妻と子供二人で過ごすこととなりました。
この時は少しではありますが、
心が安定してきたように思います。

そうこうしているうちに
6月からオンラインの予備校が
始まり、家事育児をこなしながら
オンラインの教材で勉強し、
夕方は子供を迎えに行って、
夕食、子供のお風呂入れをして
寝かしつけをして夜の9時位には寝るという
パターンが定着していき、
この時にはそこそこ精神が安定していて
助かりました。

この頃にはありがたいことに希死念慮が消えていて、
時間はどんどん進んでいき、あっという間に
国家試験直前までやってきました。
この頃眠れていて安定していたのですが、
精神科には通っていました。
抗不安薬と睡眠薬と抗うつ剤を飲んでいました。
希死念慮はありませんでしたが、
国家試験のことを考えると不安になることが
ありましたが、
あっという間に国家試験まで
時間が過ぎ去っていきました。

一番心配だったのは国家試験直前にまた
心のバランスを崩すのではないかという
不安感があったのですが、不思議と落ち着いており、
国家試験も普通の人が普通に緊張するのと
同じようにして受験をしてきました。
もちろん落ちたらどうしようと思って
不安になることもありましたが、
なんとか受験をして、
試験後すぐの自己採点でも
ボーダーラインを上回っていたので、
マークミスが無ければ合格のラインには
いたので不思議と落ち着いていました。

結果は見事合格で
妻も私の両親や姉、義両親もとても喜んでくれ、
これでやっと普通の生活が送れるんだと
安堵した気持ちで、
京大に合格した時も嬉しかったですが、
国家試験合格もとても嬉しかったです。
この時はとにかく薬剤師国家試験に
受かったことが嬉しくて、
この後また眠れなくなって精神の不調をきたすとは
思ってもいませんでした。

次は社会人編・薬剤師編です。
お楽しみに。


薬剤師国家試験にようやく合格し、
これでやっと普通の人生が歩めると思っていました。
ところがここに大きな落とし穴が潜んでいたのです。

私は国家試験に合格した後に、
公立の病院に就職しました。
この病院では私が薬剤師ひとりで
後は調剤補助さんが二人いる職場でした。
あとは薬剤師が長らくいなかった病院で、
総看護師長さんが薬剤部の手伝いをしていました。

さてひとり薬剤師ということもあって、
小さな公立病院でしたが、
立場上は薬剤部長なんです笑
新卒にもかかわらず。
薬剤部長なので色々な会議にも出なければならず、
調剤もしないといけないし、鑑査もしないといけない。
医師からの薬の問わせに看護師さんからの質問、
麻薬の管理や発注、薬の在庫管理や発注、
新規の薬の採用の可否、入院時の持参薬の管理等
本当にすべての仕事をやらなければならず、
定時は17時15分なのですが、とてもじゃないですが、
仕事は終わりませんでした。
公務員なので17時くらいから変える準備をして
定時上がりで帰ることができるんだろうなと
勝手に思っていましたが、甘い認識でした。

仕事量が多いのは私が新人で指導してくれる薬剤師も
おらず、仕事を抱え込んでしまったのはしょうがないような
感じもしますが、仕事がなかなか覚えられず、
覚えられないので何度も補助さんに質問してしまい、
しまいには補助さんによく怒られるようになりました。
「こんな仕事で高い給料もらえて良いですね」
「休憩が長い」
「仕事が遅い」
「目を離すと何をするかわからない」
「先生は薬剤師じゃないもんね」
等々二人の補助さんからかなりきつい言葉を
浴びるようになり、
また眠れない日々がやってきました。

元々睡眠薬が効きにくいのはわかっていましたが、
メカニズムの違う薬を数種類飲んでも
全く眠れず、疲れがとれないまま
次の日に仕事に行ってまた補助さんから
怒られて疲れて帰ってきて夜は眠れない…
堂々巡りでまた心が病んできました。
ただ希死念慮はあまりありませんでした。

あまりにも仕事が出来ないので、等々病院側から
一度精神科に行くことを推奨され、自分の務めている
病院から紹介状を書く形で国家試験浪人時代に
通っていた精神科の受診を勧められました。

私も京大在学中からなにか他の人とは違うなと
感じており、だからこそ引きこもったりしていたのですが、
教員時代編にも書きましたが、
教員時代も仕事ができなくて戦力外を感じていました。

さて精神科に行って担当医と話をして
京大卒で間違いなく能力はあるのに
仕事になると全然駄目だということとかを
話して結局軽度の発達障害という診断をくだされました。

あまり自分でも驚かず、
まあこんなものかなと言う感じでした。
ただ私も医療職ですし、教員もやってきたので、
発達障害というのは結局どこで線引をするかの
問題で健常といえば健常ですし、
障害と言われれば障害でしょう。
このあたりはまた議論すると長くなるので、
発達障害に使われる薬を処方してもらい、
勤務している病院に軽度の発達障害だということを
報告しました。

薬は案の定効かず、
また補助さんに怒られる日々が続き、
睡眠も一向に改善しませんでした。

あまりにも補助さんからの罵詈雑言が酷いので、
ボイスレコーダーを持つようにし、
いざとなったらパワハラで訴えるつもりで
録音を開始しました。

この録音内容を妻に聞かせると、
これはひどいと言って、理解を示してくれ、
職場を変えた方が良いという結論に至りました。
ちょうど妻が働いている病院で薬局長さんが
退職されるのでその補充人員が必要だという
絶好のチャンスが到来しており、
地方の病院なので後釜を見つけるのが
とても大変なので私が公立病院を
退職して妻の病院にもスムーズに
転職が決まりました。

わずか4ヶ月くらいしか公立病院に
勤務しなかったですが、
現在の病院は残業もなく、定時で帰ることができ、
自宅からも歩いていける距離にあり、
通勤時間もかからず、
薬剤師は一時間半休憩時間が与えられるなど、
とても薬剤師に対しての条件もよく、
給料もそこそこでこの記事を書いている
時点で丸2年が経過し、9月から三年目に突入します。

今では睡眠薬を使うこともありますし、
抗不安薬も場合によっては使いますが、
希死念慮はあまりなく、
比較的安定した生活を送ることができるようになりました。

今まで駆け足で自己紹介をしてきましたが、
精神的な面をまだまだ細かいところまで書いていません。
本当は妻との関係や、希死念慮が出てきた時期もあります。
というよりこの先も出てくることでしょう。

私は引きこもりから立ち直ったように見えますが、
実は完全には立ち直ったとは言えません。
まあ寛解したということにでもなるのでしょうか。

私はひきこもりから立ち直っているのではなく、
立ち直ったように見えて奇跡なのですが、
このnoteで書きたいのは
立ち直ったかのように見える奇跡ではなく
これからの軌跡なんです。

恐らくこの不安定なメンタルは一生続くのだと思います。
なので奇跡ではなく軌跡です。
ひきこもりの人がどうやって立ち直ったのではなく、
その後どうなったのかを書いていきたいのです。

これから少しずつnoteを書いていき、
完全に立ち直れないかもしれないけれど、
奇跡を信じて軌跡を残しながら
書いていきたいと思います。





















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