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努力教信者に告ぐ

女が又に力を入れると書いて努と読む。努力とは目標実現のために励むことを意味するが、そのニュアンスとしては辛抱強さや禁欲的な態度も含まれる。

私は、この努力というものが苦手だ。辛いことを進んで受け入れることができないし、やろうと思っても続かない。努力できる人間は、努力しない人間を非難するが、努力も才能の一つだということをわかっていない。日本の社会では、道徳教育においても、努力が尊ばれる。目標を持つこと、その目標の実現に向けて頑張ること。当たり前のように、それが人として正しい生き方であると教えられる。特にオリンピックなんかで一流アスリートの歩んだ道のりなんかを聞かされると、努力って素晴らしいと思えるし、そんな生き方こそが正しい人間の姿だと思えてくる。
確かに、人が努力する姿は美しいし憧れる。しかし、一方で、努力しない人がダメなのかと言えば私はそうは思わないし、思うべきではないと考える。

まず努力とは、目標を持つことが前提とされるが、その目標を持つことができる環境にない人も多いということを忘れてはいけない。例えば、極貧にあえぐ人が日々を生き抜くことで精一杯なのに、数年後の目標のために今という時間を費やすことができるだろうか?世の中には努力することが許されない人も多いことを忘れてはいけない。努力は、最低限の環境、努力が許される自由を有する者の特権である。
努力とは、目標に向かう長い茨の道のりを歩き続けることを言う。そのためにいろいろなものを犠牲にする。その道の脇に咲く美しい花を見つけ立ち止まり、脇道に入ってその花を愛でることも許されない場合もある。私にとっては、努力のために、そうした犠牲を払うことが我慢ならない。

まあ、私の場合は、単純に、目の前の誘惑に負けて数年先の目標を見失ってしまってばかりいるということなのだけど、「目の前の誘惑」が決してネガティブなものばかりではないとだけ、自分自身わかっていたいし、大切にして生きていきたい。努力なんて必要のない社会が、実は幸せな社会だと私は思う。

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