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旅路に読んだ「終わらざる夏」、終戦の日にまだ終わらない戦争があった。

私が初めてサハリンを訪れたのは2013年8月の末であった。サハリンの日本食店の視察に行く4泊5日の出張であった。成田や千歳から飛行機という手段もあったが、稚内の取引先と面談、夜の会食の予定を組み、前泊し翌日フェリーで4時間半かけて行くこととした。このフェリーは冬の荒波の期間は運航しておらず、稚内とサハリンの港町コルサコフを結ぶ6~9月の期間限定の運航であった。

往復で9時間も船に乗るのでは手持無沙汰であろうと、船内で読もうと買い込んだのが、浅田次郎の「終わらざる夏」の文庫本3冊である(上中下とある長編)。往復の時間を考え、本当にたまたまこの小説を選んだのだが、これがその後今回の旅の忘れえぬ大きな思い出につながることとなったのである。

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前夜、ロシアへ行く予行演習とばかりに稚内のロシア料理のレストランでウォッカでロシア料理に舌鼓を打ったが、少々アルコールの方が進みすぎたようで、頭痛が残る中、適度な揺れに身を任せながら、買ったばかりの文庫本のページを開いていった。前日までに上巻は読み終えており、フェリーでは中巻の途中からページをめくった。

内容は、太平洋戦争も終わりに近づき、日本の敗戦が濃厚となってきた頃、当時日本の領土であった千島列島の最北端、ロシア(戦争当時はソ連)のカムチャッカ半島の突端とは、わずか12キロしか離れていない占守(シムシェ)島での戦いを題材にした物語である。それも昭和20年8月15日に日本が無条件降伏した3日後に、ソ連が占守島を攻めて来るという、戦争終結後に争いを仕掛けられた領土奪取目的と言われた違法とも言える戦いである。

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結局は、この方面の戦力を充実させ、連合国との争いに備えていた日本軍であったが、終戦を迎えるまで戦端を交えることなく、充実かつ士気の高い戦力を有していたためソ連軍を圧っする結果となった。しかし、局地戦に勝ったからと言って、すでに無条件降伏しているわけであるから、軍命により21日に停戦となった。武装解除されたあと、捕虜となった日本兵の多くはその場から戦争を犯した罪人としてシベリアへ送られ、強制労働に就かされたのだ。その多くがシベリアで命を落とし、生き残った者が日本へ帰国したのは、それから数年後という悲惨な結果となった。

浅田次郎が「終わらざる夏」に描いたのは、自分の意志とは無関係に戦場に駆り出された兵とその家族という市井の人々である。アメリカの文化に憧れ翻訳家を目指していた兵役年限ギリギリの45歳の男性編集者、帝大医学部在学中の将来を嘱望されていた秀才医師、少年兵の募集で中学校に現れた戦車に魅せられ兵役に応募した少年、歴戦の鬼軍曹と言われた心優しき東北の暴れ者、函館高女から挺身隊員として派遣され占守島の缶詰工場で働く400名の女学生たち、地方に疎開し親の生死も分からず日々の空腹に耐えるいたいけな子供たち、ごく普通の市民が戦争に巻き込まれていった様を多視点で語り描き出している。その彼らの叫びは読者の胸を打ち、何のための戦争かと憤りを持つ。

中でも私の印象に残ったのは、色丹島で医院の手伝いをしている千島アイヌの子孫であるヤーコフであった。彼が民族が滅びてしまった様子を語る部分がある。それは戦争を超えて、民族の暮らしと尊厳を踏みにじる文明の罪に思えた。占守島の先住民である彼らは、海獣などの漁を生きる糧とし、農作を行わない民族であった。しかし明治8年の千島樺太交換条約によって千島列島が日本領となり、千島アイヌたちは彼らの先住地であった占守島から強制的に離され、そこに連なる島々の海洋での漁からも断絶され、色丹島周辺での漁と農作業による生活を強いられたのである。元々200名程度というわずかな数しか居なかった彼らは、次々と色丹で亡くなり、茫漠の彼方へ去るが如しとなったのである。

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私はサハリン到着後、小説のことは忘れ、本来の目的であった視察を3日間こなし、道銀のユジノサハリンスク支店や稚内市出張所へも訪問させていただき、現地情報を収集した。その間、移動の車から見たのは王子製紙の工場の廃墟(これは当時のままにされており、不気味な気配を漂わしていた)、電話交換手がソ連の真岡市(現ホルムスク市)侵攻の様子をギリギリまで電話で伝え続け、最後に9人が自刃した真岡郵便電信局跡地など日本の領土だった頃の様子を残す遺跡を目にした。そして4日目の昼間にサハリン州立郷土博物館を訪問したのである。

日本の領土であった頃に樺太と呼ばれていたこの地の歴史と人々の歩みの写真や造形物が数多く展示されていた。その中で私の目が釘付けとなったのが、千島アイヌの人たちの日常を撮った写真と、ソ連軍がまさに占守島へ上陸する写真である。

小説の中でヤーコフが語ったいた千島アイヌの生活の一部を切り取ったような写真が数多く展示されており、戦争とか侵略とか略奪とかといったことは彼らの生活や、思考には全く無縁であることを、その映像は如実に物語っていた。写真にはヤーコフの仲間たちが笑顔で写っていた。成人でも子供程度の身長しかなく、鮭の皮などで作った上着を羽織り、千島の海こそが彼らの糧そのものであったことがありありと分かる。「カムイ・ウン・クレ(神、われらを造りたもう」)小説の中で何度も出てくる彼らの先祖から言い伝えられて来た言葉、自然に感謝と敬意を持ちながら、共に栄えようとする平和精神が表されている。

そして、天皇陛下の玉音放送の3日後の明け方に、占守島の国端岬へソ連兵が雪崩を撃って上陸する写真がそこにあった。驚いた。まさに小説の中で描かれていた降伏した国、その兵隊たちに攻め入ろうとする信じられない光景の写真がちゃんとそこにあるではないか。

断崖絶壁の島が多い千島列島の中で、この占守島だけは平坦な島への入り口を持ち、なだらかな丘陵の多い島であった。占守島にいた日本兵たちは一様に驚きを隠せない。何故に降伏している国に攻め込むのか?そしてソ連兵の目からも、何ゆえに自分たちに降伏した国を攻めろとスターリンは命令するのか? 日本の兵たちは最早中央からは戦うなという指令しか来ない。しかし日本の国土を守ろうとする日本人としての当然の行動に出ざるを得なかった。一方、ソ連兵は国の命令が違法ではないかと思いながらも逆らうすべなど彼らにはない。停戦後にもかかわらず、そこには終わらざる戦いが勃発したのである。

私は、サハリンへの旅路の往路で読んだ占守島での戦いや、その島の先住民の暮らしを、まるで小説の再現フィルムのように、よもやサハリンの視察中にその場面に遭遇するとは夢にも思っていなかった。元は日本領の樺太であったこの地も、終戦直前にソ連軍の侵攻を受け、真岡郵便電信局事件のような悲劇を生んだ。ソ連の真岡侵攻も8/20と玉音放送から5日経過した後であった。占守島も樺太も戦争は終わっていなかったのである。

稚内へ戻るフェリーの中で、本来の目的であった視察レポートを多少でも仕上げておこうかと事前計画はしていたが、全く手につかなかった。頭の中に浮かぶのは、あの博物館で見た光景と小説の中で心に残った言葉だ。千島アイヌの人たちの声が聞こえてきそうだった。「カムイ・ウン・クレ(神、われらを造りたもう)」!  全て神が作ったものであり平等であるととらえ、争いのない平和の原点につながる言葉だ。

この小説を読むまでは終わっていない戦争があったという史実はよく知らなかった。歴史でさらっと習っただけであった。そこに死ななくともよかった命が数多くあったことを知った。また自然に生きていただけなのに、歴史の影で滅び去っていった民族もいたことを知って、私の心の中は複雑に紋々ととぐろを巻いたような状態になった。 もう8年も前に読んだ「終わらざる夏」、そこにサハリン行きが重なり、博物館で見た写真が更に折り重なり、茫漠とした思いにかられながら、帰りのフェリーの船窓から荒いオホーツクの波をぼんやりと眺め過ごした4時間半が昨日のごとく思い出される。

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