見出し画像

茶道への挑戦とその記録#3

土曜日のお稽古のお話。
その場で気づいたこと、先輩方とのお話の中で学んだことを綴る。
(写真は前回の初釜の写真)

お稽古の内容

まずは割稽古から。

わり‐げいこ【割稽古】
〘名〙 茶道で、平点前(ひらてまえ)の手順を覚える前に、その部分部分について行なう稽古。袱紗(ふくさ)さばき、棗(なつめ)、茶杓のふき方、茶巾のたたみ方、茶筅(ちゃせん)通し、茶碗のふき方など。
※夢の浮橋(1970)〈倉橋由美子〉松の内「ここで母に割稽古をみてもらったりしてよく使いましたけれど」

https://kotobank.jp/word/割稽古-665758

茶道の中では基礎中の基礎。サッカーで言えばキックのフォーム練習、野球で言えば素振り。研究でいえば、論文をどう読むかの型覚え、といったたころか。
まず自分は正座との戦いなのだが、それはさておき、何が難しいかというと、先生が指導して下さる見本をそのまま真似するのが難しい。先生はとても綺麗に袱紗をさばいているのに、自分は袱紗がボサボサになってしまう。後の話に繋がるが、どうも自分の見えている世界と、先生の見えている世界が違うらしい。
なぜ真似しようとしているのに、できないのだろう。そんなことを、練習後に先輩方に相談した。
その中で気づいたヒントは、
「道具との対話」である。茶杓、茶筅、茶器、棗(なつめ)…。茶室に用意されている道具にどのように向き合い、道具を感じ、対話するか。先輩方のお話はまた後で。

その後、それでは物は試しで平手前しようか、ということで、茶室に入るところから薄茶を点て、お客様にお出しし、道具を片付け部屋を出るまで全ての所作を行った。
先生の指示の元、言われたことを理解しながら所作を行う。全く流れるようには出来ないが、平手前では初めてお客様にお茶を出す経験であった。
正直、美味しく点てることができたか?という反省よりも、そもそもの所作が綺麗にできない、正座がきついという、なんとも初学者らしい反省となった。正座は徐々に慣れるというものの、どうにか早く慣れたいものである。

先輩方のアドバイス

稽古後、先輩方と談笑する時間があった。
先輩の1人は昔サッカーをやっていらっしゃったらしく、とても上手かったらしい。(日本代表とサッカーする機会が多いくらいとのことです。びっくり。)
日本代表の方達の何が凄いか、自分と何が決定的に違うか、それは身体が猫かどうか。そのように先輩は仰っていた。
「猫は必要最低限の力で、ヌルッと動く。日本代表の人たちも、捕まえようとしても捕まえられない。脱力してサッカーをしている。そんな感じだった。先生も同じことを仰っる。それぞれの所作は必要最低限の力でやりなさいと。」

自分もサッカーをしていたため、とても分かりやすく、そして実践したかったことだった。
サッカーをある程度やったことがある人なら分かる(上手い人ならなおさら)と思われるが、ボールをトラップする時に身体に力を入れる必要は全くない。むしろ逆。脱力して脚がクッションになる方が実はトラップしやすい。(中々上手くできないが。)

人間の「身体」に基づく様々な所作において、自分の身体を知って動くことはとても難しい。力を入れずに歩くことが、走ることがどれだけ難しいかは陸上部に聞けば分かる。
ここで身体を知ることと、力を入れることを同列にしたが、身体を知るには自分の身体のどこにどれだけ力を入れる必要があるか考えなければならない。

これはどのようなスポーツにも適用できると思われるが、スポーツはいかんせん、対人、対自分であるため、中々自分のことを知ることはできない。

対物

茶道に限らないが、茶道はそのようなスポーツと圧倒的に異なる。それは、「対物」だからである。茶器、茶杓、茶筅、茶室、種々の物と向き合うことによって、自分の身体そのものを知る手がかりとなる。
例えば、「袱紗は必要最低限の力で持つこと。」
この教えが指すところは、袱紗という対物フィルタを通して自分を知れということなのである。

この教えから

身体に根ざした話で日常にどう結びつけるか分からない、そんな読者もいらっしゃるかと思われるが、この教えから学べることは、まさに「対物」である。
対象物と自分の距離を測って、自分を知る。
例えば、プログラミングであれば、プログラムを作ることを通して、プログラムの特徴から自分の色や性格を知ることができる。

もし、読者の方々が何か自分のことを知りたくなったら、そのような対物に没頭するのがいいのではなかろうか。

まだまだ、茶道フィルタ、茶筅通しを通して自分のことを知りたい。

お後がよろしいようで。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?