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【太宰治】太宰治「思ひ出」の蔵

 2020年1月3日。
 実家・青森県五所川原市へ帰省した際、2020年最初の開館日に「太宰治『思ひ出』の蔵」を訪問してきました。

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 この蔵は、2011年(平成23年)、五所川原市大町2丁目地区土地区画整理事業により解体された「太宰ゆかりの蔵」の解体部材を元に、2014年(平成26年)8月に再築し、公開しています。

叔母キヱと太宰治

 1916年(大正5年)1月18日、太宰の従姉・リエの夫・季四郎が津島歯科医院を開業するため、叔母・キヱの一家が北津軽郡五所川原町字蝉ノ羽五十番地に分家します。太宰は、叔母・キヱの一家(キヱ、季四郎、リヱ、テイ、幸子)とともに五所川原に引越し、小学校入学までの約2か月を一緒に過ごしました。
 そして、娘夫婦と住むことになったキヱが住まいとしていたのが、この蔵という訳です。

 津島キヱは、太宰の母・夕子(たね)の妹で、太宰の叔母にあたります。
 キヱは、17歳の時に義兄・源右衛門(太宰の父)の実弟・友三郎を婿養子として迎えましたが、友三郎の酒乱と女性交遊が原因で、二児をもうけた後に離婚。その後、青森市の豊田家から実直な常吉を婿に迎えましたが、二児をもうけた後に病没してしまい、28歳で未亡人となり、当時新築されたばかりの津島邸(現在の斜陽館)に戻って来ていました。
 太宰は、生まれて間もなく乳母に預けられましたが、その乳母が再婚することになったため、キヱの下に移され、4人の娘と一緒に「十畳ひと間の部屋」で育てられました。

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 上の写真は、太宰が1才数か月の頃の写真です。前列の右から叔母・キヱ、太宰、母・夕子(たね)。後ろは三上ヤエ先生です。
 キヱは、姉の夕子(たね)とは異なり、健康的で多少勝気な性格でしたが、世話好きで、特に太宰を可愛がりました。4人の娘たちも、従弟の太宰を実の弟のように世話を焼いたため、『思い出』に「乳母の乳で育って叔母の懐で大きくなった私は、小学校の二三年のときまで母を知らなかった」と書いており、自分がキヱの長男だと思っていたそうです。
 不眠症だった太宰に、キヱは添い寝しながら、津軽に伝わる昔話を語って寝かしつけたそうですが、この時の体験が、後の太宰文学の礎となったのかもしれません。
 キヱは、太宰が青森中学校に入学した際、亡夫・常吉の実家である豊田家に、太宰の世話について熱心に頼み込んだり、太宰が長兄・文治と義絶中に里帰りした際、実家に泊まる事ができない太宰を五所川原の家に迎えるなど、面倒を見ています。

二度の五所川原大火

 五所川原は、二度の大火に見舞われています。

 一度目は、太平洋戦争末期の1944年(昭和19年)11月29日午前0時30分頃。上平井町の木工有限会社第一工場から出火すると、町は瞬く間に炎に包まれ、中心部はほぼ焼き尽くされました。五所川原町役場や郵便局、五所川原駅をはじめ、当時県下一の富豪とされ、町の象徴だった布嘉(ぬのか)御殿を含む700戸以上が全半焼する事態となりました(津島歯科医院は、布嘉御殿のすぐ近くでした)。

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 二度目は、そのわずか2年後。敗戦後間もない1946年(昭和21年)11月23日午後7時40分頃、錦町の民家から出火。強風に煽られ、幾島町、柏原町、寺町、大町、敷島町、川端町、東町などにも広がり、1度目の大火と二重被害になった人たちにも被害が及びました。
 近隣の青森や鰺ヶ沢、藤崎、弘前方面からも応援が駆けつけ消火活動にあたりましたが、炎は町を燃やし尽くし、約7時間後にようやく鎮火したといいます。敗戦からまだ1年という、食糧・物資不足に苦しむ中での被災だったそうです。

 歴史に残る二度の大火を経験した五所川原ですが、1916年(大正5年)に建てられたこの蔵は、2011年(平成23年)に解体されるまで現存していました。その理由が、こちら。

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 これは、「大火から蔵を救った水瓶」です。
 火事の際、この水瓶いっぱいに水を張り、蔵の扉に味噌を塗り込め、火が入らないようにしたそうです。鎮火後、蔵を開けた時には、瓶の中の水は空っぽになっていたそうです。

太宰が好んだ「津軽正宗」

 戦時中、太宰が金木の生家に疎開していた際も、太宰はキヱの住むこの蔵を度々訪れています。太宰は、この蔵で酒を飲み、キヱやその家族、文学好きの若い人と朝まで語らっていたといいます。
 しかし、当時は戦時中。酒はなかなか手に入り辛い時期でしたが、キヱは酒好きの太宰のために、酒蔵の従業員に裏口からこっそり分けてもらっていたそうです。

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 これは、展示されている「津軽正宗」という日本酒の徳利です。当時は、酒屋で量り売りをしており、この徳利に詰めてもらっていたようです。ちなみに、現存する唯一の「津軽正宗」の徳利だそうです。
 この「津軽正宗」は五所川原の地酒で、太宰も疎開中に好んで飲んでいたそうです。「立佞武多の館」のすぐ横あたりに赤レンガの酒蔵があり、そこで造られていたそうですが、残念ながら現在、五所川原に酒蔵は残っていません。
 太宰治生誕100周年だった2009年。「津軽正宗」を復活させようという動きがあり、商標を取ってデザインまでしていたそうですが、酒蔵の協力が得られなかった事や、資金不足が原因で頓挫してしまったそうです。
 「津軽正宗」については、2019年6月19日にnoteに投降した【太宰治】生誕110周年によせても一緒にどうぞ。

太宰治と中畑家

 中畑慶吉は、五所川原の呉服商として金木の津島家に出入りしていました。店を構えずに呉服の注文を取る背負呉服を商いとし、仕入れのために青森と東京を行き来していました。東京の地理に通じ、津島家の事情を知り尽くしていた慶吉。津島家の家長である太宰の長兄・文治に信頼され、上京後の太宰の面倒を見ました。
 太宰は、津軽の中で中畑の事を、

 鰺ヶ沢の町を引上げて、また五能線に乗って五所川原町に帰り着いたのは、その日の午後二時。私は駅から、まっすぐに、中畑さんのお宅へ伺った。中畑さんの事は、私も最近、「帰去来」「故郷」など一連の作品によく書いて置いた筈であるから、ここにはくどく繰り返さないが、私の二十代に於けるかずかずの不仕鱈の後始末を、少しもいやな顔をせず引受けてくれた恩人である。

と書いています。

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 上の写真、前列が中畑慶吉・ちゑ夫妻、中央が娘・けいです。
 中畑けいは、1922年(大正11年)8月23日生まれ。太宰が『津軽』取材中に中畑家を訪ねたのは、1944年(昭和19年)5月26日
だったため、けいが21歳の時です。

「これからハイカラ町へ行きたいと思ってるんだけど」
「あ、それはいい。行ってらしゃい。それ、けい子、ご案内」と中畑さんは、めっきり痩せても、気早やな性格は、やはり往年のままである。
 (中略)
 中畑さんのひとり娘けいちゃんと一緒に中畑さんの家を出て、
「僕は岩木川を見たいんだけどな。ここから遠いか」
 すぐそこだという。
「それじゃ、連れて行って」
 けいちゃんの案内で町を五分も歩いたかと思うと、もう大川である。子供の頃、叔母に連れられて、この河原に何度も来た記憶があるが、もっと町から遠かったように覚えている。子供の足には、これくらいの道のりでも、ひどく遠く感ぜられたのであろう。

 この時、太宰と散歩したスポットを含む「太宰治 思ひ出散歩道」のディスプレイもあります。

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 ちなみに、慶吉が幼少の頃から、中畑家には太宰ファンが訪ねてきたそうで、特に女子学生には愛想よく太宰について語り、お土産まで持たせていたようです。

太宰からのはがき

 太宰が書いた2枚のはがきが展示されていました。ちなみに、どちらも筑摩書房刊の全集未収録です。

 1枚目は、太宰が1945年(昭和20年)7月31日から1946年(昭和21年)11月12日までの疎開期間中、お世話になった叔母・キヱ一家へのお礼のはがきです。

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  青森県五所川原町大町 津島季四郎 様
  十一月十七日
  東京都三鷹町下連雀一一三 津島修治

 謹啓、永い事ほんとうに御世話様になりました。おかげ様で親子四人食糧不足の折も仕合わせにすごさせていただきました。東京の生活もなかなか楽でないようでございますが、切り抜けて行くつもりでございます。そちらは日ましに寒くなりますから、皆様お身お大事に、いつまでも御元気でいらして下さい。不取敢、御礼の一滴まで。敬具。一昨夜慶三さんいらっしゃいました。敬具

 2枚目は、太宰が疎開から東京へ戻った直後の1946年(昭和21年)11月23日、五所川原で二度目の大火が発生。お世話になった叔母一家を心配してのはがきです。

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  青森県五所川原町大町 津島季四郎 様 皆々 様
  十二月七日
  東京都下連雀一一三
  太宰治

 拝啓、五所川原大火を新聞で知り、実に心痛して居りましたが、慶三さんからの注進に依りこのたびは御無事の由、まことに寿命ののびる思いを致しました。しかし、何かと大へんでございましたでしょう。向寒の折でもございますし、ずいぶんお大事におねがい申します。敬具

太宰ゆかりの蓄音機

 太宰ゆかりの蓄音機も展示されています。

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 蓄音機のメーカーはビクターで、昭和初期に国内で製造されたとみられる手回しゼンマイ式。高さは約1mあります。
 太宰は、『思い出』で「音に就いて思い出す」とし、東京の大学から帰省した長兄・文治の部屋から流れてきたレコードの音に触れ、「前夜、私を眠らせぬほど興奮させたそのレコオドは、蘭蝶だった」と書きました。蘭蝶は浄瑠璃の一流派である新内節の曲名です。
 前回の訪問時には、実際にレコードの音を聴かせて頂いたのですが、最近、蓄音機の調子が悪いとの事で、今回は聴く事ができませんでした。残念。

太宰治「思ひ出」の蔵

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場  所:青森県五所川原市大町501番地2
開館時間:10:00~17:00
休  館:8月13日~8月14日
     12月30日~1月2日
料  金:大人200円、中・高生100円、
     小学生以下は無料
※団体での利用の際は、要予約。
 まちなか五所川原 Tel:0173‐33‐6338

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【参考文献】
・『太宰ゆかりの蓄音機か』(陸奥新報、2015.5.18)
・『大火=1』(陸奥新報、2017.7.23
・猪瀬直樹『ピカレスク 太宰治伝』(文春文庫、2000年)
・太宰治『津軽』(新潮文庫、2005年8月20日、105刷)
・志村有弘・渡部芳紀 編『太宰治大事典』(勉誠出版、2005年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
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