ぼくは大江健三郎を聴く

 ぼくは大江健三郎を聴く。ぼくは大学の放送サークルで音声ドラマを作っている。音声ドラマ(ラジオドラマ、オーディオドラマ)というと、一般には朗読と同じようなものだと思われることが多い。たしかにどちらも耳で聴いて楽しんでもらうものではあるが、ぼくに言わせれば、両者はまったくもって性質が違う。両者を混同するのは、同じ四つ足だからといって「ネコ」と「こたつ」を一緒くたにするがごとき愚行だ(この秀逸な喩えはこの前聴いた落語から借用したものです)。

 放送サークルの発表会では朗読番組が上演されることがあるが、ぶっちゃけ、ぼくはそれらを観て(聴いて)面白いと思ったことがない。きれいな発音、正しいアクセント、清らかで滑らかな言葉の上滑り。エンターテインメント性を無視したアナウンス実習としか思えないのだ。逆に言うと、だからこそぼくは「音声ドラマ」あるいは「リーディング」という手法にこだわっているのであり、誇りを持っているのである。ぼくが作っているのは朗読番組なんかじゃない。ぼくは生々しい演劇を作っているのだ。

 NHKラジオ第1で先日放送された『朗読』は、「朗読」をめぐるそんなぼくの凝り固まった考えを打ち砕くものだった。『高畑淳子が読む 大江健三郎「無垢の歌、経験の歌」』とのサブタイトルが冠せられたその番組は、タイトル通り、俳優の高畑淳子さんが、大江健三郎の短編連作集『新しい人よ眼ざめよ』より「無垢の歌、経験の歌」を朗読するという内容の番組である。一日15分ずつで全5回、合計時間は75分。

 NHKのラジオ配信サービス「らじる★らじる」を通じて聴くそれは、演劇そのものだった。しかも、ただの演劇ではない。良質な演劇である。高畑淳子さんの朗読は聴く者を引きつけて離さない。「発声が聴きやすい」と「演技が凄まじい」が両立している。ぼくなんかが言うのはおこがましいが、高畑淳子さんはとんでもない役者だ。でもって、たぶん高畑淳子さんクラスともなれば、この程度の朗読をやってのけるのは朝飯前なのだろう。今後ぼくは、好きな俳優は誰かと聞かれたら「高畑淳子」と答えることに決めた。そんなこと質問される機会は滅多にないだろうけどさ。

 さて、ぼくが大江健三郎の作品に触れるのはこれが初めてだった。生を受けて20年ちょっと、ぼくは大江健三郎にノータッチで生きてきたのだ。読まされる機会も読もうと思う機会もなかったし、それでここまで人生に支障はなかった。ただ、今回初めて大江健三郎の作品に接して、ぼくなりに思ったことが二つある。言うまでもないが、これは大江健三郎作品全般についての感想ではなく(ぼくは高畑淳子さんの朗読による一編でしか大江健三郎を知らない!)、「無垢の歌、経験の歌」に限っての感想である。

 「無垢の歌、経験の歌」についてのぼくの感想一つ目は、「内容としては大したもんじゃねえな」である。海外での仕事から帰宅した主人公(「僕」)は、高校生の長男の反抗的な態度に動揺するが、長男の一言を聞いて安心する。言ってしまえば、ただそれだけの内容である。この長男が知的障がいであるという設定がお話のアクセントにはなっているものの、肝心のストーリー展開にこれといった起伏はない。まったくない。

 じゃあなんでこの小説が成り立っているのかというと、主人公が過去と現在の状況を分析し、自分と他者の心情を推理しているからである。なぜ長男が反抗的な態度をとっていたのかを主人公が解き明かしてみせるくだりは、さながらミステリ小説の謎解きパートのようである。ぼくはラジオドラマの脚本家なので、どうでもいい話を意味ありげに仕上げることがどれだけ難しいかを知っている。本当は「意味ありげ」に仕上げるだけじゃダメで、お客を「面白がらせる」必要があるのであって、ぼくが「無垢の歌、経験の歌」を面白いとまで感じたのは大江健三郎というよりは高畑淳子の功績のような気もするのだが、まあそこは深掘りしないことにしよう。

 次、行きます。「無垢の歌、経験の歌」についてのぼくの感想二つ目は、「やっぱり自分を消費していこう」である。「無垢の歌、経験の歌」は短編小説ということになっているし、ぼくもここまでそう説明してきたが、正確には私小説、あるいは単純にエッセイと分類されるべき作品だ。主人公は明らかに大江健三郎そのひとであり、知的障がいを持つ長男は明らかに大江健三郎の実の長男である。「無垢の歌、経験の歌」ではこの二人のほか、主人公(=大江健三郎)の妻や次男、長女、文壇の先輩らの言動も描かれる。さらには「砧ファミリーパーク」といった固有名詞も登場する。

 「無垢の歌、経験の歌」という作品の中で、大江健三郎は自分自身とその関係者のプライベートを赤裸々に公開している。もちろんこの作品は一応「小説」として発表されているので、書かれてある内容のすべてがすべてリアルガチレポートというわけではないかもしれないが、しかし実在の人物を登場人物として持ち出している時点で話は同じである(というか、実在の人物を登場させておいて言動はフィクションだとしたらそっちのほうが問題視されるだろう)。

 実はぼくも近頃、これとまったく同じことをやっている。言うまでもなくこのnoteの記事のことだ。ぼくはこのnoteで、ぼくとぼくの関係者の私生活を堂々と晒している。おかげでぼくは創作コストゼロ、ただの事実を打ち込むだけで記事を完成させられるので大変助かっているわけだが、一方でぼくはこの行為に不安を抱いていたりもする。もしこのnoteをぼくの知り合いが見つけたら「おれの/わたしの私生活を無断でネタにしやがって!」と憤るんじゃないかしら。そうしたらぼくは第二の『石に泳ぐ魚』事件の当事者として高校公民の教科書に名前が載ったりするかしら。いや、もしそうなったら、柳美里さんを尊敬するぼくとしては光栄なのだけど。

 ただ、これは言い訳にならないかもしれないし、実際にはその試みは失敗しているのかもしれないけど、大江健三郎にしてもぼくにしても、文中で他人そのものを題材にはしていない。あくまでも自分自身を題材にしている。「こんなひとに会った」「こんなやり取りを交わした」という実話を述べてはいても、結局は「自分はこんなことを感じた」という自分自身の話をしているのだ。

 大江健三郎の「無垢の歌、経験の歌」では、後半に「先輩・Hさんとソ連に行った時にどうの」という余談がぶち込まれる。その余談は精神障がいの長男をめぐる話と1mmも関係がないというわけではないが、一つの作品の中に同居すべき話題かといったら説得力を欠くし、構成的にも不格好である。でも、大江健三郎は「無垢の歌、経験の歌」にその余談をぶち込んだ。それはなぜか。ぼくの見立てでは、大江健三郎はこの作品を通じて「自分」を語りたかったのだ。何かと何かを関連付けるという行為は、「関連付けようとする者」の思索を抜きにして成り立たない。ネコとこたつに関連性を見出すには、「どちらも四つ足である」と気付くに至るための人為的な思索が必要となる。大江健三郎は「精神障がいの長男の話」と「先輩・Hさんの話」という別個の話題を関連付けることで、本当は自分の思考回路を読者にさらけ出したかったのではないか。そのために「先輩・Hさんの話」を作品の後半にぶち込んだのではないか。そんな気がする。

 だとすれば大江健三郎は、自分の周りの人物や出来事を話のネタにしながらも、結局は自分自身を売り物にしていることになる。その作業を通じて、人間・大江健三郎を確かめていることになる。これは、シュティルナー風に言うなら「自分の消費」だ。まさにぼくの人生の方針だ。自分は探すものでもなければ築くものでもなく、すでにここにあるものであり、一生をかけて使っていくものである。「無垢の歌、経験の歌」の朗読を聴いて、ぼくは、自分がnoteでやっている小さな営みはもとより、自分の人生全体を肯定されたようで温かな心持ちになった。

 もちろん、大江健三郎的には読者(聴者)にそんなことを思わせたくて「無垢の歌、経験の歌」を書いたわけじゃないだろうが、だとしたら大江健三郎には「読者の感性は著者の思惑を超える」という文学の真理を学んでもらわなければなるまい。言うまでもないが、ぼくにとってはノーベル文学賞受賞者もnoteの記事のネタにすぎないのである。ぼくはぼくの人生を気持ちよくするためだったら何だって利用する。友人も、知人も、彼女も、大江健三郎も、シュティルナーも、そして自分自身も。

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