ぼくは脚本を提供する

 ぼくは脚本を提供する。ぼくは去年の12月まで大学の放送研究会に所属していた。ここで「所属していた」という過去形を使ったのは、去年の12月の番組発表会をもってぼくらの代は現役を引退したからで、「部費を払っている」「部員名簿に名前が載っている」という意味ではぼくはいまだに「所属している」んですけどね。

 4月の平日の昼のこと。ぼくが大学に向かうためJR京浜東北線に乗っていると(ぼくのような偉大な学生には4年生になっても出席すべき授業がきちんとあるのです)、放送研究会の一個下の村井(3年女子)からLINEに連絡が入った。「お疲れさまです! 就活でお忙しい中申し訳ないんですけど、5月の番発でオープニング・エンディング企画として寸劇を上演しようと思っています。その台本を書いてくれませんか?」という内容だった。

 うちの放送研究会では毎年5月に番組発表会が開かれる。今回のプロデューサーは村井が務める。村井の話によると、番発のオープニングとエンディングにコント的なやつ(寸劇)を上演しようということになったのだが、脚本を書けそうなひとがいない、だからにぼくに脚本を書いてほしいということらしい。

 「脚本を書けそうなひとがいない」というのは明らかに村井の嘘だ。少なくとも音声ドラマについては、副会長になった関口(2年男子)はユニークな脚本が書ける。阿久澤(2年男子)も筋道が立った脚本が書ける。なんだったら、村井も書ける。過去のウェブラジオで栗山(3年女子)と一緒に自作のミニコントをやっていたのを聴いたことがある。っていうか、脚本なんて誰だって書ける。もしどうしても誰も書けないということなら、そもそも番発で寸劇をやらなければいい。

 もちろん、ぼくだって意地悪な人間じゃないので分かっている。村井は「ぼくの脚本」がほしいのだ。ただの「脚本」じゃなくて、「きちんと面白い脚本」がほしいのだ。……あー、自分で恥ずかしいことを書いているのは分かってます。でも、こう言っちゃなんだが、ぼくは現役時代は放送研究会の看板ディレクターとして扱われていて、番組発表会では毎回大トリの枠を任されていた。村井はぼくの作品に2回出演したことがあるし、どちらもお客さんに好評だったから、村井の脳内で「頼りになる脚本家といえば(ぼくの下の名前)さん」という図式が出来上がっちゃっているのは仕方ない。だからこそぼくにオファーしてきたのだろう。

 ぼくとしても村井からオファーがあったのはうれしかったが、ただ、気になる点がないわけではなかった。というのも、ぼくはすでに現役を引退している身であり、本来なら番組発表会に関わるべきではないからだ。実際、ぼくが現役時代に番発にがっつり関わっていた4年生はいなかった(映像バラエティにちょこっと出るぐらいの4年生ならいたけど)。

 まあでも、演出までやるわけじゃなくて、脚本を提供するだけってことなら問題ないかな。ぼくが「ガンちゃん(現会長の岩下)がとやかく言ってきたりしない?」と村井に聞くと、村井からは「大丈夫だと思います!」と返信が来た。岩下はぼくの音声ドラマでずっと主演を務めてきた3年男子で、ぼくとは「黒澤明と三船敏郎」みたいな関係である。監督と主演俳優としては相性がいいのだが、プライベートでは相性がよろしくない。いや、ぼくのほうは岩下と仲良くいたいんだけど、岩下がぼくに厳しいというか……。会ったらふつうに話すし、飲みにも行くけど、なぜかぼくへの当たりがキツいんだよな。……まあ、心当たりはあります。ないわけじゃないです。

 京浜東北線→中央線に乗り換え。村井から5月番組発表会の概要ドキュメントが送られてきたので、それを眺めながら、どんな物語を書くか考える。オープニングとエンディングで上演する用って言ってたから、前後編の続き物がいいだろう。とりあえず、奇人変人の刑事たちがチームを組んで事件を解決する話(『警視庁ワケあり課』)と、部活動のマネージャーのみが所属する部活動の話(『○×高校マネージャー部』)を思いつく。まあ、この二択なら『警視庁ワケあり課』かな。前編でキャラクター紹介と事件の提示、後編で謎解きって感じでいいか。5分×2=10分の尺。番発のオープニングとエンディングまで時間が3時間ほど離れているから、分かりやすくて覚えやすくてちょうどいいインパクトの事件にしないと。……前編と後編だけで平気かな? 後半の部の冒頭にも「中編」として1本入れさせてもらおうか。2~3分程度でいいから。キャスティングは……いかんいかん、ぼくは脚本を提供するだけだ。脚本を提供する・だ・け・!

 数日以内に脚本を書き上げ、村井に送る。村井からは「むちゃくちゃ面白いです! びっくりしました! 中編を入れる件も了解です。本当にありがとうございます!」と激賞のお言葉をいただく。結局、ぼくがいちばん得意なのって短い寸劇の台本を書くことなんだよな。いつも長文のnoteを書いておいてなんだが。

 それから少しあとのこと。藤沢(3年男子)と一緒に松屋で晩ご飯を食べていると、藤沢から「また岩下が部室で荒れてましたよ。『今度の番発で(ぼくの下の名前)さんの劇をやるのはおかしい』って」と教えられた。ほらな、言わんこっちゃない。ただ、今回の番発のプロデューサーは村井で、ぼくに脚本を書くよう頼んだのも村井で、村井は放研のアイドル的存在だから、岩下としては表立って抗議できずにいるらしい。それだけに余計にイラついているらしい。なんだかなあ。事が荒立ってほしくないので、ぼくは村井に「番発の寸劇の件だけど、ぼくの名前はプログラムとかにクレジットしないでもらえる? 一応引退した身なので……」と連絡しておいた。

 それからほどなくして、ぼくはたまたま大学図書館で岩下・多田野カップルに遭遇した。見た感じ、別にいつもの岩下である。ぼくが「ガンちゃん、5月番発の寸劇の件だけど……」と切り出すと、岩下は「(ぼくの下の名前)さんが台本書いたんですよね。愛ちゃんから聞いてますよ」とふつうの口調で返してきた。……別に怒ってなさそうだぞ? ぼくが「ガンちゃん怒ってない?」と聞いたら「いやあ、『引退してもしゃしゃり出てくるのか』とは思ってますけど」と言い返してはきたけど笑顔だったし。

 番組発表会当日。宮田(放送研究会の同期)と駅前で待ち合わせて、一緒に会場の教室へ向かう。考えてみれば、引退後に自分のところの番組発表会へ行くのは今回が初めてだ。OBが行ったらウザがられないかなあ。老害扱いされたくねえなあ。ぼくはこの放送研究会とは別に、インカレの放送サークルで責任者をやっているので(インカレとは名ばかりでメンバーのほぼ全員が放送研究会との兼部者だが)、あくまでもそっちの渉外としてここへ来たってことにするか。だったらきちんと「お客さん」扱いしてもらえるかな? ……もらえるわけないか……

 渉外の佐々木(3年女子)と阿久澤(2年男子)が受付にいた。2人ともインカレの放送サークルにも所属していてぼくとは日常的に会っているので、ぼくの姿を見ても特別なリアクションはない。「はい来ましたね」ぐらいなもんである。ましてや、村井に頼まれて今回ぼくが寸劇の脚本を提供したことも、ぼくがそれを観に来ることも知っているわけだし。ただ、ぼくの隣にいた宮田に対しては「おお、お久しぶりです!」と反応していた。宮田はインカレの放送サークルのほうには所属していないので、佐々木と阿久澤にとってはもはやレアキャラなのだ。

 会場に入ったら河村(同期)や浅野(同期)も来ていたので合流する。河村が「(ぼくの下の名前)の番組もやるんだろ?」と聞いてきたので、ぼくは「ぼくは脚本を提供しただけだよ。キャスティングとか演出はぜんぶ愛ちゃんがやったからぼくの番組じゃない」と説明する。ちなみに、愛ちゃんというのは村井の下の名前です。

 開演時刻。オープニング企画が始まる。ぼくが脚本を書いた『警視庁ワケあり課』(仮称)の前編だ。ぼくが演出だったら使わないようなBGMが流れて、ぼくが演出だったらキャスティングしなさそうな部員(例えば2年の宇居とか小澤とか)が出演者として出てくる。台詞はぼくが書いたものから一言一句変えられていない(と思う)が、ぼくとしては赤の他人の作品を観ているような不思議な感覚になった。これを「ぼくの作品」と呼ぶのは違う気がするが、この作品はこの作品で悪くない。

 その寸劇で客席はそこそこ盛り上がっていたし、ギャグもウケてはいた。ただ、寸劇を観ながら、ぼくは「もしこれをぼくが演出していたら……」と想像せずにはいられなかった。やっぱり台詞回しとか、間とか、BGMとかSEとか、人物の配置とかで気になるところがある。うーん。以前にもこのnoteに書いたような気がするが、ぼくは演出で自分の個性を出すのが好きなタイプの制作者なんだろう。「脚本だけ提供する」と「演出だけ担当する」だったら後者のほうが向いているかもしれない。いや、自分が書いた脚本を自分で演出できたら、それがいちばんありがたいんですけどね。

 第一部と第二部の間の休憩時間、岩下がぼくらの席へ挨拶に来た。別にいつもの岩下である。ぼくが「受付のところに飾ってあったガンちゃんの写真──ガンちゃんは相変わらず写真写り悪いねえ」とイジると、岩下は「あれは撮ったアク(阿久澤)が悪い! ふつうは『はいチーズ、カシャ』じゃないですか。でもアクは『はいチーズ』って言ったあとに間を置くから『えっ、おいっ』ってなって2回か3回か撮り直して……」などと釈明してきた。なんかどうでもいい話だな。それを聞きながらぼくの隣の宮田は「へえ」と苦笑いし、河村は退屈そうに耳を傾けていた。

 休憩終了。第二部開演。ぼくの書いた寸劇『警視庁ワケあり課』(仮称)の中編はしらっとした空気のまま終わったが、後編はだいぶ盛り上がった。大きな拍手のうちに終幕する。この時のぼくがどういう気持ちだったかというと、脚本家として安心したとか満足したとかいうより、むしろジェラシーに近いものを感じていた。ぼくの脚本はぼくが演出しなくてもウケるのか。ぼくが演出する必要はないのか。というか村井が演出したからこそ面白い作品になったのか。村井はぼくより優れた演出家かもな。

 事前にお願いしていた通り、番組発表会のプログラムにぼくの名前は掲載されていなかったし、寸劇の終わりでもぼくの名前は読み上げられなかった(というか寸劇パートのキャスト・スタッフ紹介自体がなかった)。ただ、最後のプロデューサー挨拶で、村井は「……なお、寸劇の脚本は4年生の(ぼくのフルネーム)さんに書いていただきました!」と口走った。ぼくが寸劇の脚本を書いたことを知っている宮田や河村はそれを聞いても無反応だったが、ぼくの関与を知らない他大学のお客さんの一部からは「おおっ」という声が上がった。は、恥ずかしい。

 終演後のお見送り。村井がぼくに「ありがとうございました!」と声をかけてきた。「ご来場ありがとうございました」という意味なのか「脚本を提供してくれてありがとうございました」という意味なのか、あるいはその両方の意味なのかは分からないが、やっぱりなんか恥ずかしい。っていうか、村井はいつも目が潤んでいるので、村井に見つめられるとぼくはいつも恥ずかしい。ぼくは本当は村井に「演出家が違ったからぼくの台本なのにぼくの作品じゃない感じがした」とかいうツッコんだ感想を言いたかったが、退場するお客さんの列が後ろに控えていたので、「……あ、面白かったよ!」とだけ告げてその場を去った。村井はこの「面白かったよ!」というのが「寸劇が面白かった」という意味なのか「番発全体が面白かった」という意味なのか、あるいはその両方の意味なのか分からなかったに違いない。

 ぼくは脚本を提供する。ぼくはこれまでずっと、自分で脚本を書いて→キャスティングして→演出をつけるという作業をしてきた劇作家なので、「脚本だけ提供する」という今回の一件はとても新鮮で貴重な経験になった。決して嫌な思いはしなかったが、ただ、なんとなくしっくりこなかったのも事実だ。それは村井の演出が「悪かった」からではなく、むしろ「よかった」からではないかと思う。ぼくの世界が他人の感性によって調理された。そしてそれが「悪くなかった」。いや、それはそれで「よかった」。そこにぼくは一種の面白さを感じつつ、居心地の悪さを感じる。

 変な結論になっちゃうが、今回の寸劇が面白い作品に仕上がって、観客からも好評を得たのは、「村井の手柄」なんじゃないかと思う。いえ、村井には「今回の寸劇が面白かったのは(ぼくの下の名前)さんのホンが良いからです」と思っていてほしいですけどね。脚本あっての演出だってことは忘れないでほしいですけどね。ただね、そういうこと踏まえると、ぼくはやっぱり、自分の脚本は自分の手で演出したい。それでもって「ぼくの作品」として上演したい。ぼくはそういうタイプの劇作家なんだよな。……もっとも、もしまた村井から「脚本を書いてくれませんか」とオファーされたら、ぼくは二つ返事で承諾するんだろうけど。ぼくは他人から頼りにされるのが案外嫌いじゃないのです。

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