ぼくと彼女は大坪美穂黒いミルク展へ行く

 ぼくと彼女は『大坪美穂 黒いミルク』展へ行く。正確には『大坪美穂 黒いミルク―北極光・この世界の不屈の詩―』展である。もはや遠い過去の話のようにも思えるが、今年のゴールデンウィークのあと(5月上旬)、ぼくと由梨は、コピス吉祥寺7階の武蔵野市立吉祥寺美術館でやっていたこれに行ってきた。

 ぼくと由梨は武蔵野市立吉祥寺美術館にはよく行っている。由梨の大学のキャンパスが吉祥寺にまあまあ近いところにある関係で、ぼくらは吉祥寺で会うことが多い。由梨が放送研究会でアニメを作っていた関係で、ぼくらはデートの時は美術展へ行くことが多い。そんなわけで、武蔵野市立吉祥寺美術館には企画展が開かれる度に行っているのだ。

 ……と書くと、まるでぼくが由梨に振り回されているように聞こえるかもしれないが、実際そうかもしれません……。由梨はたしかにぼくを巧みにコントロールしている節がする。あまりに巧みなので、ぼくはコントロールされていることを自覚していないだけのような気がする……

 ただ、さっき、由梨が美術展へよく行きたがるのは「由梨は放送研究会でアニメを作っている関係で」と書いたのは正確じゃなくて、由梨は自身の創作活動に無関係でも、もともと美術や芸術の類が好きなんだと思う。そして、そんな由梨の提案に付き合っているということは、ぼくも実は美術や芸術の類が意外と好きなんじゃないかと思う。

 さて、自己分析を済ませたところで本題に入ります。ある平日、ぼくと由梨はお互いの学校帰りにJR吉祥寺駅の中央改札前で待ち合わせて、まっすぐコピス吉祥寺へ向かった。6階のキャラパーク(キャラクターグッズのショッピングモール)や6・7階のジュンク堂書店吉祥寺店(書店)にはあとで行こうということになって、エレベーターに乗ってさっそく武蔵野市立吉祥寺美術館へ行った。

 エレベーターを出て、武蔵野市立吉祥寺美術館のフロアに入場。ぼくら以外に来館客の気配がほとんどない。どうやら本日の武蔵野市立吉祥寺美術館は空いているようだ。100円払わなきゃいけないけどあとで100円返ってくるロッカーに荷物を預け、スマホだけ持って受付へ向かう。武蔵野市立吉祥寺美術館に大学生割引はないので一人300円ずつお支払い。受付の職員さんからチケットとB4サイズの展示作品見取図(案内図入りの目録+作品解説みたいなやつ)を受け取って前へ進む。

 武蔵野市立吉祥寺美術館をご存じでない方のために説明すると、この美術館の企画展示は、だいたいいつもロビー(入場無料)から始まっている。展示室の手前のロビー(入場無料)にすでに展示物が並べられてあるのだ。たぶん展示室がそれほど広くないからなんだろうな。ぼくはこういう「こじんまりした感じ」は嫌いじゃない。

『大坪美穂 黒いミルク』展の看板

 ロビーの展示物の中でぼくらの目にまず入ってきたのは、「風の標」(2022年)という作品だ。ぼくも由梨も大坪美穂というアーティストのことは事前にまったく存じ上げなかったので、当然、この「風の標」がぼくらが初めて見た大坪美穂作品ということになった。さっきもらったB4サイズの展示作品見取図によると、「ミスクトメディア」というやつらしい。これまた初めて聞く言葉だが、複数の異なる素材を組み合わせた作品のことをそう呼ぶらしい。

 遠くから見ると何の変哲もない十字架のオブジェって感じだが、近寄って見ると、数字が刻印された小さな鉛の板が十字架に貼り付けられている。中には吊るされている板もある。由梨が展示作品見取図の解説を読みながら「この数字はウクライナの戦争で亡くなったひとを表しているんだよ」と言ってきて、ぼくはなぜかこの作品が20年ぐらい前の制作物だと思い込んでいたので「まさか」と返してしまったが、実際には由梨が言っていたことが正しかったみたいなので、ぼくはあとで由梨に謝る羽目になった。他人の言葉に適当な返しをするもんじゃないですね……

「風の標」(2022年)
「風の標」(2022年)

 続いて目に入ってきたのは「一粒の種のように」(2022年)という大きなアクリル画だ。大坪美穂は絵も描けるんだな。ひまわりの絵だが、ひまわりの絵はひまわりの絵でも、ゴッホのひまわりの絵とは違ってだいぶ寂しげなひまわりの絵だ。色が付いていないモノトーンな感じだし。

 ぼくはこの絵になんとなく惹かれ、しばらくその場で眺めてしまった。そうしていたら、由梨が展示作品見取図に書かれてある解説文を小声で音読し始めた。「向日葵は枯れて首を垂れるが、無数の種を抱えている。やがて種は地に落ち、芽を出し、またあらたな向日葵が大輪の花を咲かせるだろう。私たちは、明日への希望を失ってはならない」。

 ぼくは最後の「私たちは、明日への希望を失ってはならない」というところにグッときた。「明日への希望を失ってはならない」なんてのはありふれた綺麗事みたいな言葉だが、しかし、この枯れたひまわりの絵を見ながらその言葉を聞くと胸に迫るものがあったのだ。ぼくがその言葉を聞いて感動したのは、作品見取図に書かれていた文章自体がよかったからなのか、由梨の静かな朗読がよかったからなのか、それはいまになっても分からない。

「一粒の種のように」(2022年)

 ロビーに展示されていた最後の作品は「Deep Breath」(2024年)というやつだ。子ども用の小さな靴と、小包のようなもの。それが鉛(たぶん)で形作られている。子ども用の小さな靴には鉛の薔薇が添えられてあって、小包のようなもののには鉛の薔薇の花びらが突き刺さっている。どちらも戦争をモチーフとしたものだそうだ。

 2024年の作品らしいから、ウクライナだけでなくガザの戦争のことも意識して制作されたのだろう。しかし、この「Deep Breath」は直接的に戦争の様子を表現している作品ではない。それは、この作品が戦闘そのものを描いているわけではないからだと思う。ぼくはむしろ、この作品に「戦闘の後」を感じる。履く者を失った靴、持ち主の手を離れた小包。人間がいなくなって物だけが残された状況。鉛の色は炎を浴びて焦げた状態を思わせる。

 「そこに人間がいない」ということが怖い。不謹慎を承知で言えば、「苦しんでいるひとがいる」ということは、少なくとも「そこに生きているひとがいる」ということである。しかし戦争は多くの人間の命を奪う。靴から履く者を奪い、小包から持ち主を奪い、薔薇から「薔薇を贈る者」と「薔薇を受け取る者」を奪う。人間の不在である。運よく戦禍を生き延びたとして、娘を失った親は、娘の靴を見る度に「自分の娘はもうこの世にいないのだ」と痛感させられる。人間がいなくなって物だけがその場に残された状況。──ぼくはこの「Deep Breath」から「戦闘の後」を感じ、だからこそ余計に戦争の悲劇を感じた。

「Deep Breath」(2024年)
「Deep Breath」(2024年)

 そんなわけで、ぼくらはいよいよ展示室へ入ります。そうです、ここまではまだロビー(入場無料)だったのです。でも、「今日もとんでもない長文記事になりそうだな」と思った方はご心配なく。『大坪美穂 黒いミルク』展の展示室内に展示されている作品は2つだけですから。ロビー(入場無料)の展示作品より展示室内の展示作品のほうが少ないってどういうことだよ? そもそも展示物が全部で5点だけってこの展覧会やる気あるのかよ?って感じだが(失礼)、まあ、ぼくはこういう「こじんまりした感じ」は嫌いじゃない。ちなみに展示室内は撮影禁止なので写真はありません。

 まず、展示室の出入口のところに置いてあった……というか、床に転がっていたのは「Silent Voice」(2024年)という作品だ。新聞紙に黒っぽい布をかけて丸めただけの「布玉」である。大坪美穂はお母さんが亡くなった時からこれを作り始めたらしい。変な話だが、ぼくも心が辛くなった時はこういう単純なものづくりをやってみようと思う。手を動かすっていうのは良い気晴らしになりそうだ。

 続いて、本格的に展示室に入り、展覧会のタイトルにも掲げられている「黒いミルク/北極光・この世界の不屈の詩」(2024年)を見る。これにはぼくも由梨も圧倒されてしまい、目にした瞬間に二人揃って「わあ」と声を漏らした。というのも、普段だったら存在するはずの武蔵野市立吉祥寺美術館の展示室の仕切りの壁がすべて取っ払われ、展示室内が大きな一つのフロアと化し、見上げれば枝が張り巡らされた海、奥を見ればたくさんの椅子が並ぶ壁という光景が広がっていたからだ。

 ……その光景がどんなものだったか、ぼくの文章力が未熟なせいでこれをお読みの方に伝わっていないであろうことがもどかしい。武蔵野市のホームページだとか、武蔵野市立吉祥寺美術館のホームページだとかにそれっぽい写真が載っているので参考にしてみてください。

 上下4列に並んでいるたくさんの椅子には、やはり人間の姿はなかった。代わりに、そこには「洋服」と「数字のプレート」が置かれている。その様子はまるで墓地のようである。ぼくはやっぱりこの作品も「戦闘の後」「戦争の後」を表現した作品だと思った。もぬけの殻となった洋服だけが椅子にもたれかかっていて、「そこに人間がいない」。

 引き寄せられるかのように、ぼくはこの上下4列の椅子の壁に近付いていった。もちろん作品に触ることはできないが、だいぶ間近に近寄って鑑賞することができるようになっていたのだ。展示室内は照明が落とされて暗くなっていたので、自分の靴が作品にぶつかったりしないかちょっとヒヤヒヤしましたけどね。

 近寄って作品を間近で見ると、「洋服が椅子にもたれかかっている」というより「椅子に座っていた人間の肉体だけが蒸発した」って感じだったな。古典落語の『そば清』的な(この喩えは誰にも通じないだろうが)。

 ぼくはこの4列の椅子の大群を見て、ユダヤ人強制収容所を思い、広島・長崎の被爆地を思い、ウクライナやガザの民間施設を思った。黒い服がもたれかかっていて、そこに数字のプレートが置かれているのはどの椅子も同じだが、一つひとつの椅子への服のもたれかかり方は微妙に異なるし、プレートの数字も異なる。一言でまとめてしまえば同じく「犠牲者」であっても、一人ひとりにそれぞれの人生があり、あえて書くならばそれぞれの「未練」や「怒り」や「苦しさ」があったはずだ。この4列の椅子の壁を見ながら、ぼくはその現実の「重み」に打ちのめされそうになった。

 さっきも書いたように展示室で展示されている作品は2点だけだ。まあ、どちらもそれなりに時間をかけて鑑賞しちゃったことだし、いつまでも作品を見ているわけにはいかないので、ぼくらは展示室を出ます。正直、ぼくはもう少しこの部屋に残っていたかったけどね。でも、由梨はさすがに退屈しているんじゃないかと感じたし。いや、「ごめん、もう少しだけ見てもいい?」って言ったら従ってくれたとは思いますけど。

 ミュージアムショップへ行く。ぼくはすっかり「黒いミルク/北極光・この世界の不屈の詩」に感動してしまったので図録を買おうと思ったが、図録はまだ完成していないのでほしいひとは予約してくれということだった。1,000円+送料118円という、展覧会の図録にしてはまあまあリーズナブルなお値段である。購入を断念すべき値段ではない。ぼくは「図録を予約したいんだけど……」と言って、由梨の許しを請う(話すと長くなるが、ぼくは外出先で無駄遣いしないよう由梨から監視されているのだ)。無事にお許しが出る。「由梨も買う?」と聞いたら、由梨は「わたしはいいかな」と言うので、ぼくだけカウンターで注文用紙に住所・氏名を書いて届け出た(もちろん代金も支払った)。そして、7月上旬になって自宅に届いたのがこれだ!

『大坪美穂 黒いミルク』展の図録

 いやあ、受付の職員さんから「6月下旬には届くと思います」と言われていたのに6月が終わっても届かないから、ぼくは「注文用紙に住所を間違えて書いちゃったかな?」とか心配していたのです。たかが1,000円、されど1,000円。いや、1,118円は「たかが」で済む金額じゃありません。でも、きちんと送られてきたからよかった。袋の中には「お待たせしてしまいましたことをお詫び申し上げます」という紙と、大坪美穂作品のポストカード(今回の『黒いミルク』展とは無関係のやつ)がおまけで入っていて、しかも図録はA4クリアファイルでしっかり梱包されていたので、ぼくとしてはむしろ武蔵野市立吉祥寺美術館の対応に好感を持った。

 ぼくが今回、5月上旬に見に行った展覧会の話を7月中旬にしているのには「図録が届いたという話も書きかったからそれを待った」という事情があるわけだが、しかし、ぼくが『大坪美穂 黒いミルク』展の記事をnoteに投稿するのが遅くなったのにはもう一つ理由がある。それは、「自分の中で上手く感想がまとまらなかったから」だ。

 『大坪美穂 黒いミルク』展へ行く前、ぼくは大坪美穂というひとについては名前さえ知らなかったし、いまなおどんなひとなのか詳しく知らないが、しかし実際に鑑賞してみて大坪美穂の作品に感動した。特に、天井を覆う布と4列の椅子で構成された「黒いミルク/北極光・この世界の不屈の詩」に打ちのめされた。

 ただ、ぼくは「打ちのめされた」理由をどう言語化すればいいのか分からなかった。あの日、由梨と一緒に武蔵野市立吉祥寺美術館を出て、キャラパークへ向かう時にも(というかそのあとインド料理のお店で晩ご飯を食べている時にも)、ぼくは由梨に「感動した」とか「すごかった」とか熱っぽく主張したが、どう感動したのかは言葉にできなかった。そのことが自分の中でもしばらく引っかかって、実はいまもぼくは「黒いミルク/北極光・この世界の不屈の詩」を見た時の感動を言葉にできないでいる。……いや、さっき感想みたいなの書いてただろとツッコまれそうだけど、うーん、ぼくとしては何も言語化できていないに等しいんだよなあ……

 でも、別に言語化できなくたっていいのかもしれない。というのも、この前届いた『大坪美穂 黒いミルク』展の図録を読んでいたら、大坪美穂自身の文章(たぶん書き下ろしたやつ)が掲載されてあって、そこにはこう書いてあったからだ。

 私は、記憶の中に刻まれた原風景を引きずりながら今の時代を生きている私たちの不安、悲しみ、希望を形にしていきたいと思っている。

『大坪美穂 黒いミルク―北極光・この世界の不屈の詩―』図録 p.12 大坪美穂「オーロラに寄せて」

 放送サークルでずっと音声ドラマを作り、noteで毎回長文を書き連ねているぼくがこんなことを言うのはおかしいかもしれないが、人間、言葉がすべてではない。大坪美穂の場合、布や鉛板を使ってアート作品を制作することが「不安、悲しみ、希望を形にしていく」ということだった。大坪美穂は海外の詩や文学に詳しく、今回の展覧会のタイトルである「黒いミルク」や「北極光」「この世界の不屈の詩」もヨーロッパの詩から引用したものだというが、しかし、言葉に収まらない何かを表現する必要があると思ったからこそ、大坪美穂は布や鉛板を使って「黒いミルク/北極光・この世界の不屈の詩」を作ったのだろう。たしかに言葉は人間にとって重要に違いない。それでもこの世には言葉では表現できない想いや感情だってあるのだ。

 ぼくと彼女は『大坪美穂 黒いミルク』展へ行く。正確には『大坪美穂 黒いミルク―北極光・この世界の不屈の詩―』展である。ぼくにとってこの展覧会は大感動の展覧会となり、2024年上半期・展覧会ランキング第1位の展覧会になった(『大哺乳類展』や『芥川龍之介展』も捨てがたいけど)。

 正直、感想がまとまらない状態でnoteに記事を公開することには忸怩たる思いがありますが、でも、これはこれでいいのだと思う。感動を無理に言語化する必要はないし、これから時間をかけて言葉を手に入れていくのでもいいしね。変な話だけど、『大坪美穂 黒いミルク』展へ行き、感想を言語化できないという壁にぶち当たったことで、ぼくはそう理解するに至った。……という話を6,000文字も使って言語化しているのはどういうことなんだというのは自分でも思いますが、それはまた別の話です。

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