ぼくはヤン・シュヴァンクマイエルを借りる

 ぼくはヤン・シュヴァンクマイエルを借りる。ヤン・シュヴァンクマイエルってなんだよ、と思ったそこのあなた。あなたはおかしくない。もしぼくが女子に告白したりしないまっとうなゲイで、ぼくの彼女が放送サークルでシュールなアニメを作ったりしない大学生だったら、ぼくだっていまだにヤン・シュヴァンクマイエルのことを見たことも聞いたこともない人生を送っていただろう。知らなくても困らないし、むしろ知ったら困るかもしれないもの。それがヤン・シュヴァンクマイエルだ。

 それはまだぼくらが正式に交際を始めて間もない頃のことだった。吉祥寺の洋食屋さんで一緒に晩ご飯を食べながら、ぼくと由梨は、これまでの人生でどんなアニメに影響を受けてきたかという話をしていた。由梨が吹っ掛けてきた話題だ。ぼくと由梨は大学は違うが、どちらもそれぞれの大学で放送サークルに所属している。そして、ぼくは音声ドラマを作っていて、由梨はアニメを作っている。ぼくはこれまでアニメを見てこなかったわけではないし、好きだったアニメ映画やテレビアニメがないわけでもないが、「影響を受けた」と言えるほどの作品は持ち合わせていない。

 それでもぼくは、「小さい頃はDVDで『トイ・ストーリー』を繰り返し見てたな。おもちゃたちが集合したり、人間が来たら動きを止めたりするシーンが好きだった。自分では気付いてないだけで、もしかしたらあれがぼくの作風に影響を与えてたりするのかも。……あ、そういえば、中学生の時に『サザエさん』の後日談みたいな脚本を書いたこともあったよ」などと必死に記憶の糸をたぐり寄せて紹介した。

 由梨のほうはというと、「ジブリアニメがきっかけで『雪の女王』や『チェブラーシカ』が好きになって、海外のアニメ、ヨーロッパのアニメに興味を持ったんだよね。チェコのアニメは幻想的なんだけど温かいところがあって」うんぬんという話をスムーズに説明した。放送サークル界隈の中でもアニメを作るひとはかなり珍しい。由梨はこれまで「小手さんはなぜアニメを作るようになったの? 小さい頃からアニメが好きだったの?」と他人から聞かれすぎていて回答がテンプレート化しているから、そうやってスラスラと説明できるんだろう。逆に言うと、そういう話を自分から説明しだすっていうことは、由梨はよっぽどぼくに自分のことを知ってもらいたかったに違いない。「こいつ彼氏のくせになんで『よくある質問』してこないんだよ。こっちはテンプレ用意して待ってんのに」とか思っていたに違いない(由梨はそんな乱暴な言葉遣いをするひとではありません)。

 ぼくは海外のアニメなんてディズニーとドリームワークスの一部の作品しか知らないから、由梨がその席で「ヤン・シュヴァンクマイエル」という名詞を口にした時も、それをまともに聞き取ることすらできず、「……暗視バンク……?」と聞き返すのが精いっぱいだった。「やん・しゅ・ゔぁん・くまい・える」。由梨がぼくの目を見ながら、幼稚園児に聞かせるようにゆっくりと発音する。ただ、聞き取れたところで意味は分からない。「チェコのアニメ作家のひと。人形アニメのひとなんだけどね。アニメと実写を合わせた作品を作ってるの」という補足説明を受けて、ぼくはそれが人名だということをようやく理解したのだった。あと、そのひとの作品に由梨は影響を受けたんだっていうことも。

 それからぼくは、ヤン・シュヴァンクマイエルが監督した『アリス』という作品(『不思議の国のアリス』の人形アニメ化作品)の話を聞かされて、「少し前にわたしBlu-rayを買ったんだけど、興味があるようだったら持ってこようか?」という半強制的な提案を断ることができず、次に会った時には『アリス』のBlu-rayを無事貸し出されたのだった。

 借りたということは観なければいけないということである。借りた日の翌日、ぼくは自宅で晩ご飯を食べながら『アリス』のBlu-rayを再生した。ピンク色のかわいらしいパッケージを見て「子ども向けの作品だな」と思い込んだのがいけなかったのかもしれない。観てから一年以上経っているのですべてのシーンを憶えているわけではないが、とりあえず、食事しながら観るのに適していない作品だったことは憶えている。不気味というか、グロいというか、この作品を好きだと宣言するひととぼくは価値観が合いそうにない。「ヤバい女子と付き合っちゃったな」とぼくは今さらながら後悔した。

 でも、観ていくうちに、だんだんとぼくはこの映画を楽しめるようになっていった。いや、グロいことはグロいんだけど、その「グロい」は「不気味」ではあるが「不愉快」ではない。ウサギが吹っ飛ばされるルーティンとか、トカゲが救命処置(人工呼吸? 輸血?)を受けるシーンとかはちょっと笑っちゃったし。シュールな空気の中でベタなギャグが表現されているっていうのかな。ゴキブリが出てくるところとか、芋虫型の靴下が地面から出てくるところとかは引いちゃったけど。だけど、ぼくはこの映画、総合的には嫌いじゃない。不気味なんだけど妙に安心感を覚える。

 次に会ってBlu-rayを返す時、「どうだった?」と感想を求められたので、ぼくはいま上に書いたような感想を由梨に伝えた。相手の好きな映画なので「グロい」とかいう言い方はしなかったし、なんなら、面白かったと感じた部分だけしか感想を伝えなかった気もする。ぼくの感想を聞いて、由梨は待ってましたとばかりに自分の好きなシーンを熱弁してきた。細かい内容は忘れたが、「芋虫型の靴下が地面から出てくるところ」が好きだと言ってきたことだけは憶えている。よりによってぼくの苦手なシーンがお気に入りだったなんて! やっぱりぼくは由梨とは価値観が合わない!

 そんな由梨の所属するサークルの夏の発表会が先日開催された。発表会ではもちろん、由梨のアニメ番組も上映された。ぼくはサークルでは渉外もやっているので(やらされているので)その発表会には客として参加したのだが、由梨のアニメを観て客席が盛り上がっていたので、由梨の努力を知るぼくとしては誇らしい気持ちになった。夏休みに入る前から、ぼくは由梨と会う度にアニメ制作の作業の進捗状況を聞かされてきた。由梨は本当に偉いと思うよ。ぼくだったらあんな地道な作業を続けられない。

 先日、発表会で由梨のアニメを観て改めて思ったのは、由梨の作品は「由梨の作品っぽい」ということだ。由梨の作品はたしかにヤン・シュヴァンクマイエルから影響を受けているが(とかいってぼくは一年以上前に観た『アリス』でしかヤン・シュヴァンクマイエルを知らないのだが)、明らかに「小手由梨の作品」としか言いようのないオリジナリティに包まれている。由梨は完全に自分の作風を確立している。柔らかいけどエッジが効いている画風の面でもそうだし、シュールだけど分かりやすいシナリオの面でもそうである。一年以上前の時点でそのことを自分でも分かっていたからこそ、由梨は、影響を受けたアニメとしてヤン・シュヴァンクマイエルの作品を挙げることができたのではないか。オリジナル新作を発表する創作者にとって「いままさに影響を受けている作品」の名前を挙げることは心理的に難しい/恥ずかしいが、「もうすでに自分の中で消化した作品」の名前なら得意気に挙げられるからだ。

 少なくともぼくはそうだ。ぼくがそうだからって由梨もそうだと決めつけるのはよくないが、でも、由梨との二度目のデートの時にタブレットで見せてもらった由梨のアニメ作品が、その時点ですでに「小手由梨の作品」としか言いようがないオリジナリティに包まれていたのは事実だ。ぼくと出会った時から由梨は自分の作風を確立していた。「ヤン・シュヴァンクマイエルの作品から影響を受けた」なんてわざわざ告白したのが不自然だったぐらいだ。それでもぼくは、由梨から創作者としてのルーツを教えられたこと、『アリス』のBlu-rayを貸し出されたこと、本編のどこが好きかを解説されたことを光栄に思っている。だって、天才アニメ制作者にここまで詳しくクリエイターヒストリーを教えてもらう機会なんてそうそうない。近い将来、ぼくは知り合いに自慢することになるだろう。ぼくはあの小手由梨本人から、「影響を受けた作品」のBlu-rayを直接借りたことがあるんだぜ、解説されたことがあるんだぜって。お気に入りのシーンは噛み合ってないけどさ。

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