見出し画像

58にして、未熟だと知った夜。

梅雨入りで、豪雨に近い土砂降りもある。そして不安定なのは天候ばかりじゃない。まだまだ深夜のお客さんの足並みは遠い印象だが、日々生業に奔走できるようになった。当たり前が尊い。無論、もう緊急事態宣言など迎えたくもないが「サル痘」には注視している。ウイルスは次から次に現れる。

最近再会した男に、あの日の電話の主が自分だったと告白されて複雑な気分になっている。さらっと彼は話したが、なかなかにこの話は重たくて、夏で27年になる店にしてまだまだ余裕のない自分を責めている。


コロナ渦の緊急事態宣言、まん延防止等重点措置は、街で営む人々の判断を迷い鈍らせた。いつも通りを続けるか、補償を手に休業(または時短営業)を選ぶのか。結果、飲食業界は何の補償もない方々より守られたわけだが、それはそれぞれの事業規模に委ねられた。そして、協力金をもらって密かに開けるという、いわゆる「闇営業」をした不正受給者の取り締まりが始まっている。カーテンを設けたり、看板の明かりを消して営業を続ける店が増えていたのは感じていたが、通報やお客の「開いてたから行ってた」という、店の外で伝えた何気ない一言に、行政も動かざるを得なくなる。当然だ。

僕はと言えば、酒類提供が全くできない時には休業、20時半までの提供ができる日には21時閉店を条件に時短営業で店を開けた。昨年はおよそ9ヶ月間、今年前半は2ヶ月半休んでまともに営業できていないが、それはウチだけではないということと、「再開のその時を最高の店にする」ただその思いだけで、店と自分を磨き続け耐えることを選んだわけだ。

確かに、開けたとしても21時に追い出すような酒場は不健全であり、互いに要らぬ気遣いを感じながらの目に見えないストレスや体の変化は、日常を奪われたと自覚するに至った。神戸の震災の時と明らかに違うのは、店がそのままの状態であるのに立てなくなったことだ。ずっと歯痒かった。

昨年夏、婚礼を翌日に控えた男が、独身最後の夜一人で来たいと連絡をくれた。まさに蔓延防止措置、酒類提供禁止の時期。ご存知の方ならお解りのように、弊店は看板がなく地図にも住所データも載っていない。外からは店だと判らないのなら、コロナ禍に開けたところでおそらく通報もないのだろう。彼の特別な日を祝いたい気持ちはあった。もう20年以上も前から知っているヤツだ。しかし断った。たとえ一日でも「闇」の開店をした店は、ずっとそうして開けてた店と同じ。不正受給に大小、多少の区別などない。


また違うある日、店の電話が鳴る。21時を過ぎていた。店が開いてるなら行こうかと電話をくれたようだ。「お酒は8時半まで、9時までの営業時間を守っています。この店がこんな時間にやってると思ったんですか?」と強めに僕は返したらしい。と言うのは、実はそうした遅い時間の電話や訪問がコロナ禍に入ってから何件かあった。ではどうぞ、と受けることはしない。協力金をもらうなら当たり前の姿勢だが、思い起こせばあの時期はその都度同じセリフを僕は繰り返し、少々ナーバスになっていたのかも知れない。

結局お断りした方の電話の主はわからないままモヤモヤと1年以上が経ち、つい先頃、その男の訪問があった。「志賀はルールを守らず店を開けたことは一日もなかったんやな」そう確認した男は「何度も嫌な思いをしていた時に電話してしまった。すまんかったな、大変やったやろな」と話した。

あのまま、横柄な店だと来ない人もあるだろう。同い年の彼は来てくれた。

仕事の悩みはその仕事でしか解決できない。
来訪者で店は、そこに立つ人間の心は救われるものだ。

熟練、達観などまだまだ遥か遠く、足跡は踏み重ねるばかりなり。


この記事が参加している募集

サポートいただけましたら、想いの継続とその足跡へのチカラとなり、今後の活動支援としてしっかりと活用させていただきます‼️