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ウィズコロナ曖昧な解釈の違いに、自分の適度はどうなのかを知った。

大寒、確かに。神戸にも雪が降った。

感染拡大のスピードは増して、おそらくは来週辺りから我が酒場も時間短縮営業となるだろう。21時までの営業許可だとすれば、オープン時間をどうするか、それとも休業を選ぶのか決めかねている。それは 先日書いた記事 のように、店に立ってこその自分が在るということに他ならない。

しつこく言ってきたが、バーは飲食店というカテゴリーではなく「遊興施設」だそうだ。その違いは何か?コロナが認識された2年ほど前に「生活インフラに必要とされる」のが飲食店で、「必要とされない」のが遊興施設と定義付けた。言い方を変えれば「無くてもいい」というふうに言われたようで、胃がシクシク言い出したのを覚えてる。政府のガイドラインにはいまだ「キャバレー、ナイトクラブ、スナック、バー、パブ、カラオケボックス、ライブハウス」を遊興施設とする時代錯誤も甚だしい古いスキームだ。

ともかく、飲食店も遊興施設も時短営業。まともに働けない日々がまた来る。去年も休むほどに体調が悪くなった。意外に自分が繊細だと知ったのは収穫だが、いいことはそれくらいだった。だから少しでも立ちたい。

誰もいない店は、放っておけば綺麗なままかと言えばそうでもない。人の往来、その息遣いで店は磨かれてゆく。車のようにエンジンを掛けて走らないと長持ちなどしない。ただし多くの人で溢れればそれでいいわけでもなく、かと言って誰も来なければ店は成立しない。適度な会話、対話が欲しいのだ。人の表情を確認し、聴く耳と放つ言葉を交わし共有する。適度なんて人それぞれだが、この面倒なややこしさは僕の性格にも似る。

人の流れを抑えるべきだと言う人と、人数を制限すればと言う人がいる。感染する前に対策を講じる店と、そうなったらそうなった時と割り切る店がある。僕の店で言えば、頑張っているときにしか来ない人もいれば、落ち込んだときにしか覗かない人もいる。これら全て適度、適性の捉え方の違い。

とは言え、そうしたものの過ごし方、弁え、佇まいに、自分と近い感性を持つ人がこの店にいるかどうかは気になるところ。そう考えると、コロナ禍にそうしたものが明確になった。世の常は、想像し得ない大きな物事が起こると、全てが終わったと考えるか、また新しい何かが生まれると受け取るかで別れ、どうやらこの店に集まる人々は、色々抱えながらも前に進んでいる人ばかりである。そんな姿に、ずっと何十年も刺激を受けてきた。

他者の適度は僕の居心地に繋がり、指針にもなっている。

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