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キャッチャー・イン・ザ・ライ(J・D・サリンジャー)訳:村上春樹【読書ノート】
ライ麦のライと、嘘の「Lie」がかかってるのかなぁ?と思いました。
つまり、「ライ麦畑」=「嘘だらけの世の中」ということなんじゃないかなぁと。
この前ロシア文学を読んで、外国文学の世界に興味が出ました。
そこで、違う国の文学も読んでみたいなぁと。
アメリカに興味あるけど、アメリカの文学を読んだことがなかったので、読んでみようと。
その中で、聞いたことのある作品からまずは読んでみようということで、キャッチャー・イン・ザ・ライを手に取りました。
タイトルだけ聴くと、なんとなく、牧歌的なライ麦畑という風景の中で、男女が追いかけっこをしているような、ザ・ラブロマンスかと思っていましたが全く違いました。
インチキだらけの世の中に反発し、尖って、折れて、なんとか自分の居場所と道を探し続ける16歳の青年の物語でした。
16歳青年の社会への反発
16歳って、中学生ほどの青さでもなくて、18歳ほど大人でもない、微妙な年齢ですよね。
主人公のホールデンは世の中のインチキくさいものが大嫌いです。
個人的には、すごーーーくホールデンの気持ちが分かりました。
まず、学校がインチキくさい。
ホールデンのペンシー校は名門として広告で謳っています。
なにしろ千はくだらない数の雑誌に広告を出しているからさ。広告にはいつもそれっぽい若者が馬に乗ってフェンスをひょいと飛び越えている写真が使われている。まるでペンシーは年がら年中ポロしかやっておりません、みたいな感じでね。でもさ、学校の中はおそかその近辺でも。馬なんてものを見かけたことはただの一度もなかったね。で、その馬に乗った若者の下にはいつもこんなコピーがついているんだよ。「一八八八年以来、本校は少年たちを、明晰な志向をする優秀な若者へと育成して参りました」ってさ。まったくもう、冗談にもほどがあるじゃないか。
学校がこんなもんだから、先生もインチキだらけです。
歴史のスペンサー先生も、サーマー校長も、エルクトン・ヒルズのミスター・ハースも。
友人にもインチキくさいやつばかりです(笑)
寮のルームメイトのストラドレイターも、アックリーにもうんざり。
ストラドレイターのシーンで好きなのは洗面所で髪型をセットしている、ストラドレイターのこのセリフです(笑)
「おまえ、おれの明かり先に立ってるぞ、ホールデン」と、ストラドレイターが言った。「そこに立たなきゃ気がすまんのか?」
※ここは野崎孝訳を引用しました。
このディティール、いいですね~(笑)
「おれの明かり先に立ってるぞ」
気に入りました。笑ってしまいます。
ストラドレイターも自意識の塊なので、鏡をみるのが好きだし、
明かり先に立たれると美しい自分の姿が見えなくなるので嫌がってるんですね、きっと。それにしても言い回しがイイですね。いかにもアメリカっぽいというか。
兄のDBと一時期デートしていたリリアン・シモンズもたまらなくインチキくさいです。
バーでホールデンと出会うと、兄のDBが作家として大成してハリウッドに住んでいるから、その様子を詮索してきたり、DBに自分の印象が好印象に伝わるようにする為に、わざわざ親切にしてきたり。
「あなたと会えるなんて素敵!」とリリアン・シモンズは言った。まったくよく言うよって感じだ。「お兄さんはどうしているの?」、結局それだけが彼女の知りたいことなんだからさ。(中略)
彼女は通路に突っ立って。一切の通行をブロックしていた。人の通行をブロックするのが三度の飯より好きな女なんだよ、見るからに。ウェイターが一人、彼女がどいてくれるのをじっと待っていた。でも彼女はそんなことには気づきもしなかった。これには笑っちまったね。ウェイターが彼女のことをこころよくは思っていないことは明らかなんだよ。海軍士官だって彼女のことをこころよくは思っていないみたいだった。たとえデートの相手であってもだよ。そして僕にしたところで彼女のことをこころよくは思っていなかった。誰も彼女のことをこころよく思っていなかったわけだ。そこまでいくとこっちも、ちょっと気の毒かなって感じがしてきちゃうんだけどさ。
人の通行をブロックするのが三度の飯より好き、っていうディスり方は、なんとも痛快ですね(笑)
デート相手のサリー・ヘイズもたまらなく胡散臭い。俗物というか。
その描写がすごくいいです。
演劇を観に行って、一幕目が終わった後の休憩所でのシーンです。
まずは、演劇の観客たちへのディスから始まります。
一幕目が終わると、僕らはまわりのとんちきどもと一緒にロビーに出て煙草を一服した。こいつはまさに壮観だったよ。こんなにたくさんの嘘くさい連中が一堂に会したところを、きっと君は目にしたことがないはずだ。みんなが煙草をもらうと吹かしながら、さっきの芝居がどうたらこうたら、聞えよがしな声でしゃべりまくるわけだ。自分たちがどれくらいシャープな人間かみんなに分かるようにってさ。ぼんくらの映画俳優がひとり、僕らの近くに立って煙草を吸っていた。(中略)ゴージャスなブロンドが一緒で、二人はすごく無関心な風を装っていた。みんなが自分たちを見ていることになんかぜんぜん気づいておりませんっていうふりをしているんだ。
ああ、アメリカでも日本でもインチキくさい人はいるんだなぁ、と少し安心すらしました。(笑)
日本特有かと思っていたので・・・。
で、いよいよサリーです。
サリーは、ラント夫妻を褒めちぎるのをべつにすれば、ほとんど口をきかなかった。彼女はきょろきょろまわりを見まわしたり、自分をチャーミングに見せたりするのに忙しかったからだ。それから突然、彼女はロビーの向こう側に、知り合いのとんちきをひとり発見した。例のこってりとダークなダークグレイのフランネル・スーツに、霊のチェックのベストといういでたちの男だった。アイビー・リーガーを絵に描いたようなやつさ。(中略)この手の連中がどんな挨拶をするか、君も後学のために見ておくべきだよ。そういうのを見るときっと君は、二人はたぶん二十年ぶりくらいに再会したんだろうな、とか思っちまうはずだ。小さな子どもの頃にこいつらはきっと同じバスタブで湯浴みをさせてもらったりしたんだろう、とかさ。竹馬の友っていうやつさ。まったく吐き気がしてくるよね。ところがさ、笑っちまうじゃないか、こいつらはどうやらどっかの嘘っぽいパーティーで一度会ったことがあるだけなんだよ。(中略)ひっくりかえっちまうじゃないか。それから彼とサリーはあまたいる共通の知り合いの話を延々とやりだした。こんなインチキな話は人生長しといえども、そうそうしょっちゅう聞けるものじゃない。
いやぁ、痛快。キレ味鋭い。のど越し爽やか。
自意識過剰なウンザリ野郎たちをバッサリ斬ってくれて胸がすっとします。
知り合い多い自慢みたいなのってどこの国でもあるんだなー、安心、安心。
パーティーとかでイキり散らかすような人間だけにはなりたくないものです。
若干、個人的な毒を吐いてしまいましたが、
要は、ホールデンの感覚がすごく好きでした。
現代日本で言うと、ホールデンは小藪一豊さん的な目線かもしれませんね(笑)
世間なんかクソくらえと思っているけど、自分はヘタレ
ホールデンはマッチョなことを言うけど、だからって殴り合いのケンカをする度胸はありません。モーリスからお金を請求されると泣き出してしまいます。
意気地があるほうではありません。
なにより、
家出をしようと思ったのに、実家に帰ってしまうのですから。
個人的には、そこもまたいいなーと。
世間や世の中に不満があっても、行動を起こすような気骨は無い・・・。
「金閣寺」(三島由紀夫)の溝口のように、金閣寺を燃やすような行動を起こす大胆さはない。
だからこそホールデンに感情移入できると感じました。
人恋しさ
ホールデンはタクシーに乗れば必ず運転手にダル絡みします(笑)
「公園の池のアヒルは冬はどうしているんだ?」とか聞いてみたり(笑)
ジェーンに電話してみたいと思ったり、
妹のフィービーに電話しようとしたり。
とにかく人恋しいんだと思います。
冷たい風 冷えた身体 人恋しくて
夢見てる あの娘の家の横を サヨナラつぶやき走り抜ける
闇の中 ぽつんと光る 自動販売機
100円玉で買えるぬくもり 熱い缶コーヒー握りしめ
この小説を読んでいて、尾崎豊の「15の夜」のこの箇所を彷彿としました。
・15歳(16歳)
・家出
・社会を拒絶
・あの娘の家の横を走り抜ける(ジェーンに電話を掛けたくなる)
など多くの共通点があり、ティーンエイジャーの持つ普遍的な感情を発見しました。
まあ、ホールデンは夜に校舎の窓ガラスを壊して回ることはしませんが・・・。
先のことなんてわからない
最後の言葉が好きです。
将来どうしたいの?って何百万回も聞かれると思いますが、
「先のことはわからない」と私もつくづく感じています。
たくさんの人が僕に、九月に学校に戻ったら身を入れて勉強するつもりかって質問する。精神分析医が一人ここにいて、とくにその男が熱心に尋ねる。でもそういうのってさ、僕に言わせりゃまったくとんまな質問だよ。そんなこと今から分かるわけないだろう。先になって君が何をしてるかなんて、実際に先になってみなきゃ君にだってわからないんじゃないか? うん、わかるわけないよね。まあたぶんちゃんと勉強するんだろうって思ってるよ。でも先のことは先のことだ。だからさ、そういうのって見事にとんまな質問なわけさ。
出来事の意味は、後にならないと分からない。
DBは僕に尋ねた。このことについて、つまり今まで君に話してきたこの一連のできごとについて、僕がどう考えているのかってね。どう答えればいいのか、ぜんぜん分からなかった。ぶちまけた話、この一連のできごとについて何をどう考えればいいのか、僕だってつかみきれないんだよ。この話をずいぶんあちこちでしちゃったことを後悔している。僕にとりあえずわかっているのは、ここで話したすべてのことが今では懐かしく思い出されるってことくらいだね。(中略)だから君も他人にやたら打ち明け話なんかしない方がいいぜ。そんなことをしたらたぶん君だって、誰彼かまわず懐かしく思い出しちゃったりするだろうからさ。
出来事の意味って、後にならないと分からないんじゃないかなーと最近思います。
話は拡大しますが、
村上隆さんが、「芸術家が死んでからほんとうの評価が決まる」と言っていました。
その人の功績も正しく評価されるのは後世になってからじゃないでしょうか。
実際、歴史の教科書に載って、後世の人がようやくその人が何をした人かっていうのを結論付けるんだと思います。
更に話は拡大しますが、
政治家の評価とかもそういう部分があるかもしれません。
だからこそ、人の功績を評価するのは難しいんだろうなって思います。
話を元に戻しますが、
人の一生に起きるできごとだって同じだと思います。
10年くらいして初めて、「ああ、あれはこういう意味だったのかもしれないな」と感じると思うのです。
巻末の村上春樹さんのコメントが印象的です。
本書には訳者の解説が加えられる予定でしたが、原著者の要請により、また契約の条項に基づき、それが不可能になりました。残念ですが、ご理解いただければ幸甚です。
訳者
サリンジャーは、作品を解説されるのが嫌だったのかもしれません。
そしてそれは、このこととも関連していると思いました。
つまり、作品の意味というのは解釈されるものではないし、されるとしてもずっと後世になってからのことだ、、と・・・分かりませんが。
(ちなみに、私の書いているこの記事は解説ではなくて、いち読者の感想にすぎないので・・・)
村上春樹さんの解説はぜひ読んでみたい気もしますが、仕方ありませんね。
サリンジャーの「ナイン・ストーリーズ」という作品も気になっているのでいつか読んでみたいです。
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