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No.45 「ゴールデンカムイ」完結記念雑感

1. Introduction

 「ゴールデンカムイ」が今日完結した. 私はアニメ組だったので, 「ゴールデンカムイ」を知ったのは今から4年前であり, そのアニメの出来が想像以上に素晴らしかったので(1期より2期, 2期より3期とドンドン良くなっていた), 本当はアニメで完走したかった. だからこれまでの「ゴールデンカムイ」無料一挙公開キャンペーンの時も, ずっと「禁欲」していたのだが,  

『アニメ3期の復習のところまで読む分には問題ないだろう』

と思ってしまったのが運の尽き. アニメ3期の最後とアニメ4期の冒頭が微妙に混ざっていた性で, 気が付けば「列車」は函館駅に着いてしまっていた(完全敗北). 

 正に疾風怒濤の展開であり, その雑感をまとめようにも現段階ではとてもまとめられない. 恐らくはこれを自分の中で消化しきるには, 「ゴールデンカムイ」が最後までアニメ化されるまでの時間は少なくとも必要になると感じている. そこで無理に「総括」を試みるのではなく, 正に完結したその日の自分の雑感を思いつくままに記録にとどめることにする. 

2. 何故函館だったのか

 長らく謎であった金塊の在りか(これも実際には金塊ではなく大量の砂金であり(そりゃそうだ...), あの五稜郭の井戸の描写を見るまで気付かなかった絶妙なミスリードであった)と最終決戦の地が函館ということを知った時, 物語の結末が見えた気がした. つまり「ゴールデンカムイ」とは

「土方歳三が生きていたら」

という「函館戦争のif」から始まった物語である. しかし同時にその設定の緻密さゆえ, いわゆる「世界線の収束」(作中の土方自身も「歴史のズレ」と鯉登少尉に言っていた)が起き, 最後は史実に収束していくある種の宿命も根源的に秘めていた. それゆえに

「明治初期の函館戦争のif」から始まった物語は「明治末期の幻の函館戦争」により終幕する

というstoryは極めて得心が行くものであり, それは同時に土方の結末も予感させるものであった. 

3. 土方歳三の「役目」とその継承者達 -杉元と鯉登-

 「明治史における因果」という観点で言うならば, 土方に「引導を渡した」(歴史のズレを修正した)のが薩摩隼人の鯉登少尉というキャスティングにもうなずける. つまり

函館戦争のリベンジとして鯉登少尉の父である鯉登平二少将は新選組に敗れ, 同時に西南の役のリベンジとして鯉登少尉は土方に勝った

のである(薩人との絡みでいえば「DRIFTERS」では土方は島津豊久と戦っていたが, こちらでもある種の引導を渡されていた). 

 こう考えた時, 土方の(物語における)「役目」とは, ロシアと日本の緩衝国となる蝦夷共和国(ちなみにこのvisionに関しては, 現ウクライナ問題からもよくわかるように, 鶴見中尉の見解が正しかったと思う)の設立ではなく, 

己が士道の象徴たる和泉守兼定を, 最期の最後に若き日の自分の影を重ねた杉元に託すこと

だったのだと思う. 

 加えて言えば, 土方は「士道の継承」という面においては杉元だけでなく, 鯉登少尉にも恐らく少なくない影響を及ぼしたと思う. あるいは「継承」という面から言うと鯉登少尉は鶴見中尉よりも土方の影響の方が大きかったのではないか. 

 つまり鶴見中尉の継承者はむしろ月島の方であり, 国守りとしての土方歳三と鶴見中尉の意志を受け継いだ彼らは, 物語から40年程のちに最後の第七師団として賊軍の汚名をそそぐべく, (それこそ樋口季一郎や士魂隊をモデルにするような)大東亜戦争末期に対ソ連戦で壮絶な戦いを繰り広げたのではないかという類の妄想も逞しく広がる. そしてそれは史実とそれほど外れてはいまい. 

 ちなみに人斬り用一郎(岡田以蔵 or 山本琢磨?)は, 最期に昔の幻影の中でエゾシカに武市瑞山(?)の幻をみて突っ伏して泣いたが, 土方はヒグマに攘夷志士の幻をみて斬りかかったのも, 幕末で止まってしまった前者と最後まで駆け続けた後者とを象徴する対照的な描写で(在り様の良し悪しとは関係なく)非常に印象的であった. 

4. 明治末期という時代の可能性

 物語の舞台である明治40年(1907年)は明治維新と昭和20年の敗戦のちょうど中間に位置する時代であり, いわば「歴史の振れ幅が最も大きい時代」であった. これは誇張でも何でもなく, 実際その40年前には土方達のような侍がおり, その40年後は終戦後で我々の祖父母の青春時代だったのだ. これほどまでの激動の時代は我が国の長い歴史上においてもここにしか存在しない. 

 それこそが「ゴールデンカムイ」という稀有な「歴史のif」物語を許容, 成立させた文化的, 歴史的土壌であり, 戦国時代や幕末以上にその可能性を我々は追及すべきであったが, 現代への近さゆえか今まで努力を怠ってきた. しかしそれから既に100年以上の歳月を経たことで, ようやくそこに「娯楽(エンターテインメント)」という咀嚼がなされた(成熟した)形の作品の制作の機運が出てきたように思う. 「ゴールデンカムイ」はそこに先鞭をつけ, 同時に非常に大きな足跡を残した記念碑的作品となったといえるだろう. 

 更に素晴らしいことに「ゴールデンカムイ」は「明治末期」に留まらず, 「その先」の流れまで踏み込み, ある種の「連続性」を保った展開も想像させる終わり方であった. そういう意味では(これはこれまでも度々言及してきたことではあるが)「坂の上の雲」を(つまり「司馬史観」を)色々な意味で越えている(そして越えなければならない). 事実, 昭和を懐かしむold fashionableな私にも

「我々は21世紀に生きているのだ」

と感じさせてくれた不思議な作品であり, その一事をもってしてもどれほど称賛しても, し足りることはあるまい. 

5. 「ゴールデンカムイ」の「役目」と終わらない物語

 「ゴールデンカムイ」のメインテーマはアイヌに伝わる

「天から役目なしに降ろされた物はひとつもない」

であると言われている. 事実, この思想を体現するかの如く「ゴールデンカムイ」の登場人物達はみな己が「役目」を全うし駆け抜けていった. 

 では「ゴールデンカムイ」という作品そのものが果たすべき「役目」は一体何であろうか? 一つにはこのアイヌの, 更には「代表的日本人」達にも非常にマッチするこの「思想」を「娯楽」という形で体現することであったのだろう. 

 しかし, これほどの作品である. 単に「娯楽」という枠に留まらず, 果たすべき「役目」はまだまだあるように思う. 「それが何であるか?」という問いに対する答えは今の私にはまだわからない. 多分はそれは「歴史が証明する」類の命題であり, 正に「天のみぞ知る」のであろう. 

 そうであるがゆえに, これからも折に触れ「ゴールデンカムイ」を読み返し, その度に何某かの感慨に浸るに違いない. だから完結してもこの物語はまだ終わらない. それは我々が生き続ける限り, 常に傍にあり, 共に歩み続けることになるであろう. 

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