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父が出場した昭和14年の甲子園大会は、戦争一色だった

私の父は甲子園球児だった。しかも満州代表!いつの話なのかって? そりゃもう(歳がバレるけど)・・・昭和13年と昭和14年である。

すでに日中全面戦争が始まっていて、甲子園は戦争一色。「死ぬ気で投げろ」と投手交代は認めず、攻守交替時には必ず走らなくてはならないなど、今では考えられない大変な時代だった。

中国生まれの父にとって、内地と呼ばれていた母国日本に来るのは始めてで、とても感動したそうだ。ほかに朝鮮代表と台湾代表もいた時代である。

父の学校・天津商業は、昭和15年にも満州代表に選ばれたものの、甲子園大会は戦争によって無念の休止。 その後、念願かなって東京六大学に進学したけれど、今度は学徒出陣前の繰り上げ卒業で入隊。

「戦争によって青春が滅茶苦茶になった」と、ずっと嘆いていた。みんなが甲子園大会を楽しめるのも、平和だからこそ。

軍事施設と芋畑になっていた甲子園球場は敗戦間際、猛空襲を受けて全焼した。焼夷弾がびっしりと突き刺さってハリネズミのようになり、三日三晩燃え続けたという。

そんな不運な父が遺した「昭和14年甲子園大会参加記」を埋もれさせたくなくて、私は本を書いた。関心のある方は検索してみてほしい。『戦前外地の高校野球 台湾・朝鮮・満州に花開いた球児たちの夢』(彩流社)

多いがけず出すことができたこの本は、売れなかったものの意外に好評で。甲子園好きの韓国人の目に留まり、翻訳出版されるという幸運を得た。少し親孝行できたかな。

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