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翅と指

 暗室から出てくる先輩の顔は、ちょっとどころではなく面白い。顔全体をくしゃくしゃに縮めた出来の悪い梅干しみたいな姿を見るたび、私は心の中で「どうかこの人が一生誰からも恋しく思われませんように」と祈ってしまう。
 きょうも先輩は顔面を梅干しへと変化させながら光の世界へ戻ってくると、
「あ、いたの」
 と言い、私へグラスのような何かを傾けるモーションを行ってみせた。私は「お気持ちだけ、ありがたく」と返し、自らの鞄から水筒を取り出す。
 先輩の淹れるコーヒーは、なんというか、不思議な味がするのだ。いつだったか、先輩のご友人は「ドブに落ちた犬みたいなテイスト」だと表現していた。笑えないところも含め、私はそれを『個性』だと思ってあげたい。


 先輩が一杯分のコーヒーを沸かしている間、私はいつものように先輩が暗室から持ってきた写真を眺めている。きょう彼が焼き付けたのは、どうやら一匹のセミのようだった。羽化したばかりなのだろうか、湿っぽいその翅は陽光にも似た金色に輝いている。隣に写る白い花はクチナシにそっくりだ。しかし花弁はどれも三つしかない。
「先輩、ええと……これはどっちもですか?」
「あ、わかった? そうそう、久しぶりの大成功祭りー」
 耐熱ガラスのマグに注ぎ入れた『個性』しかないコーヒーを片手、先輩が近づいてくる。彼は私の真正面に座ると、
「じゃ、まず花の説明から。パッと見では何っぽいと思った?」
「まあ……クチナシですかね。葉も花弁も諸々、そのあたりの特徴を掴んでいるかなと」
「うーん、突き詰めて平凡。模範解答をありがとう。最高、だいすき」
「あーあーそうですか、私もですよ」
 先輩は私の言葉に返事をすることもなく、人差し指でコツコツと二回写真を叩き、
「だがな、聞いて驚け。これはアカネ科クチナシ属ではない。なんと、ノウゼンカズラ科ノウゼンカズラ属なのです。ほら! すごくない?」
 そうして私へ向かってだらしなく破願してみせるのだった。
 彼のこの能力が他に注がれるだけのことで、世界はもっともっと美しい虫や花に満ちるはずだというのに、彼はどうしてこうなのだろう。
「ああもう……たまには見たこともない花、作ったらいいじゃないですか。どうして毎回毎回他の科のレプリカにしちゃうんですか? しかもほんのちょっとだけ不足する感じで変えるし。わざと」
「んー? そりゃ俺なりの美学よ」
「近い将来、命を弄ぶなって怒られますよ。絶対。いろんな方面から」
「ああ、それならもうすでに陰で“プレイヤー”って呼ばれてるっぽいんだよね」
「誰に」
「俺の淹れるコーヒーを『まるでドブに落ちた犬だね』って言ってくる成人男性」
 先輩がドブをすする。私も持参した水筒の中のコーヒーを飲む。


「で。このセミは、何をどうやってセミモドキにしちゃったんですか?」
「そうさなあ……細かいことまで説明すると三回くらい夜がきちゃうから省くけど、もうとにかくいろいろ頑張った! 硬さとか艶とかしっかりした角とか……カブトムシらしさを消すのがあんなに大変だとはなー。特に背中。なかなかセミの翅にならなくて」
「まあそもそもカブトムシってセミになるべきじゃないですからね」
「だろうねえ。俺もそう思う」
 眼前に写真をかざし、じっくりと観察する。水っぽいその身体に足りない明らかな何かを私は探していた。
「ギブ? ねえ、ギブ?」
「…………ギブです」
 再び写真をテーブルに置く。先輩は「まあ見た目じゃわかんないからねえ」と言いながら自身の喉を指さすと、
「鳴き声」
 と言った。
「いや、そもそもカブトムシって鳴くんですか?」
「あらまあ、知らないの? 鳴くよ。ぎゅうー、ぎゅうー、みたいな感じで」
「へえー」
 その他もちょこちょこ足りない部分を作ったんだけどね、まあ一番消したかったのは声だったから。写真を引き出しの奥にしまい込み、しかし先輩は説明を続けていた。先輩の行った変異がどういう仕組みで成り立っているのか、正直に言えば私はよくわからない。そして先輩自身それでいいと思いながら私へ言葉を重ね続けているのだろう。

「いい加減、思い通りに全部、きれいさっぱり消せるようになりたいなあ」
 先輩がぽつりと呟く。
「ええ、期待してますよ」
 彼の目を見ながら私が力強く返す。
「……うん。俺の欠如した倫理観に任せろ」
 そうして笑顔で差し出しされた先輩の右手の小指に、私は自らの六本目の指を絡ませる。



(「翅と指」19.10.13にみた夢)

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