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至る病

 毎朝決まって父は「具合悪くないか?」と私に訊ねた。

 私は父から「おはよう」と言ってもらった覚えがない。私が「元気だよ」とか「どこも悪くないよ」と返すと、父はわかりやすく肩を落とした。明らかに父は私を不健康な子どもに仕立てたがっていた。
 父は『か弱い子どもを加護する立派な父親』であることこそが自分の役目であると、誰よりも優先して子どもを守り、子どもから信頼され、自らも子どもを愛さなければ自分に存在意義などないと心から信じていたのだ。そういった点では、父の方こそ毎朝「具合は悪くないか」と確認されるべき対象だったのかもしれない。


 父の病は、私が物心ついたころには始まっており、しかし私が幼稚園を卒業し、ありふれた小学生として清潔な日々を六年続け、多感な中学生になってもまだ治っていなかった。
 そうしているうち、病として適切に治療されることもなく彼の中で放置され続けた父の異常性は、私が高校生になったときいよいよ父を食い殺してしまう。
「美紀……お父さんだけど。ちょっといいか?」
 ある夜、父が私の部屋のドアを叩いた。
 私はスマートフォンから顔を上げるとそれをベッドの枕元にやわらかく投げ、ドアを開ける。なに? と訊ねれば父は真剣な顔で、部屋に入ってもいいか? と言った。
「まあ……うん。いいよ」
 父を招き入れる。私はベッドに腰かけ、父がローテーブルの横に座った。自然と私が父を見下ろす形になる。
「なあ美紀。具合、悪くないか?」
 聞きなれた科白だった。しかし私はそれまで、その言葉を夜に耳にしたことが一度たりともなかった。妙に落ち着かない。私は意味もなく左手の指先を右手でいじりながら、どこも具合悪くないよ、元気だよ、と伝える。
「……本当か? 嘘を吐く必要なんてないんだぞ? お父さんは美紀のことなら何でも受け入れられる。大丈夫だから」
「いや、あの……本当に。本当に、元気だよ? 頭も痛くないし、寒くもないし熱もない。毎日楽しいし、友達も優しいし先生も面白いし。勉強も苦じゃないし、嫌なことなんて何にもないよ。心も身体も、元気いっぱいだよ」
 父の顔色が曇る。父は何を言いたがっているのだろう? 恐怖すら感じ始めていた。
「……美紀、病院へ行こう」
 父が私の手を強く引く。不意を突かれた私はベッドからずり落ち、膝を強かに打つ。私は鈍い声で呻く。
「大丈夫、心の病なんて恥ずかしいことじゃないんだ。なりたくてそうなってるんじゃないってお父さんはわかってる、だからこそお父さんは美紀のことを少しでも楽にしてあげたいんだ。大丈夫だよ、薬を飲んで、お話を聞いてもらって、気持ちを休めたらきっとよくなる。必要なら入院したっていい。それは美紀が健やかに生きていくうえで必要なことなんだから。な? 美紀。大丈夫だから、大丈夫だから、お父さんと一緒に病院へ行こう」
 声も出なかった。目の前の父を化け物としか思えない。私は本当に毎日が楽しくて、どこも痛くなかった。苦しいことなんて何もなかった。私は嘘でも強がりでもなく、本当に、自分はなんて幸福な人間だろうと思っていたのだ。そんな私を、父は心の病だという。
 もし私が心の病を患っているとしたなら、父は一体何を患ってしまったんだろう?
 そんなことを考えながら私は救急車を呼ぶ父の後ろ姿をただじっと見ていた。
 私が一歳になる前、育児ノイローゼで自殺した母の写真は固定電話の横で伏せられていた。


 真っ先に救急車へ乗せられたのは父だった。
 私は大声で私の病状をまくしたてる父を、担架に腰掛け離れた場所から眺めている。白い服を着た救急隊員が必死に父をなだめているが、父は誰にも理解できない何らかの事象をずっと一方的に、そして真っ青な顔で伝えようとしていた。私の傍にいる別の救急隊員は私の脈を診るふりをしながら、
「お父さん、いつもああなんですか?」
 私に問う。私は少しのあいだ黙り込んで、それから、
「あんな姿は初めて見ました。でもきっと、心の中は常にああだったのかもしれません。私にはもう、何もわかりません」
 そうですか、と呟き、救急隊員が私の手を放す。
 きっと私は病気じゃない。そして父は、明らかに異常だった。

「……このまま父と二人きりにされたとして、私は殺されずに済むのでしょうか?」

 救急隊員が再び私の手首を掴み、私にそっと耳打ちをする。
「あなたは重病患者です。あなたは今だけ、命に関わるほどの病に侵されています。生死を彷徨っています。今すぐ病院へ行かなければ、あなたは確実に死にます。ですから、僕たちは今からあなたを病院に搬送します――そして同時に、あなたのお父さんも病院にきてもらいます。いいですね?」
 私は無言で担架に横たわる。目をつぶって、深く息を吸い、ゆっくりと吐き出す。
 救急車に乗り込むと父が私の肩を大きく揺さぶりながら、
「美紀、大丈夫だからな! 大丈夫だから! きっと助かるからな! お父さんが何とかしてやるからな!」
 私の耳元で叫び続けている。父の中で「心の病」がどういうものであるのか、私には理解できそうもなかった。


 診察室に座る。医者は私へ、
「お気を悪くしないでいただけたらと思うのですが……一応確認をとらせていただきます。あなたは、食べたものを食後にわざと吐くことが頻繁にあるのですか?」
 予想外の言葉に驚きながらも強く首を横に振る。医者は私へ両手を見せるように言った。私はそっと手のひらを差し出す。医者はそれを一度だけひっくり返し、「はい、ありがとうございます。では口も開けていただけますか?」と指示し、さっと口内を見た。医者はメモすら取っていない。
「あなたのお父様は、あなたが食べたものを毎日何度も吐き出しているとおっしゃっていました。このままでは痩せ細って、あなたは餓死してしまうと。ただ、私が見た限りあなたがそのようなことをしている形跡はありません。わざと嘔吐しようとすれば、大抵は歯で手を傷つけてしまうんです。そしてそこが角質化する。あとはまあ、歯の状態が悪くなることも特徴の一つですね。これは胃液の影響です。あなたの歯、とても綺麗ですよ。上手に磨けていますね。健康的な、理想的な口内でしょうね。肌艶もいいし、髪の毛も黒々と若々しく、年相応に美しい。栄養がしっかり摂れている証拠です。まあ確かに少しばかり華奢かなとは思いますが、それはあくまで華奢だというだけ、細身であるだけの話です。体質に依るものでしょうから無理に食べることも、もちろん減らすことも必要ありませんよ。現状のままの食事を続けていくことをお奨めします。つまり、私の診断結果は『極めて健康な十代の女の子であり、治療の必要はない』となりますね」
 私は頷く。無音の隙間に父の叫び声が薄く混ざる。
「ただ、お父様に関しては少しばかり……検査が必要かと」
 再び頷く。悲しくはなかった。助かったとすら思った。


 タクシーに乗り込む。今後数日、父は検査という名目で入院するそうだ。そしておそらくそのままそこで暮らすことになる。いつまで続くかはわからない。
 後部座席の窓越しに真夜中の街を見ながら様々なことを考えている。私は父の会社の電話番号を知らないが、ホームページを検索すれば解決できるだろう。父の入院道具をまとめる前には親戚に電話をかけ、事情を話して入院の承諾の書類にサインをもらえないか相談する必要がある。高校へも数日休むと連絡を入れて、近々振り込まなければならないはずの修学旅行のお金は少し待ってもらって、あとは――

 礼を言ってタクシーを降り、極力音を立てないよう配慮しながら家に入る。
 階段を上り、自室のベッドに腰掛けたところでふと自らの両膝が擦り剥けていることに気づいた。わずかだが出血があり、打撲の影響で腫れている。
 怪我らしい怪我なんて数年ぶりだった。手当てしようと立ち上がり、リビングに向かう。小棚の奥から救急箱を取り出そうとして、それがあまりにも埃まみれであることに涙が出そうになる。未開封の絆創膏はとっくに使用期限が過ぎていた。
 膝に触れる。流れ出た血はすでに固まっていて、指先にその赤色が移ることもなかった。



(「至る病」19.11.6)

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