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(6)丁寧な暮らし―3

 洗濯物は三日に一回、まとめて洗う。きょうはちょうどその日だったので、流れで洗濯機の前に立つ。
 Tシャツやスカートは色が褪めないよう裏返しに、靴下はそのまま洗濯機の中へ、肌着やブラジャーは洗濯ネットへ、タオル類は使い終わるたびハンガーにかけ一度乾かしてあるので、三日に一回の洗濯でも嫌な臭いがしてくることはない。あとはハンカチや枕カバーを入れて、ちょうどいい具合の量になったのでスタートボタンを押す。ぎゅい、ぎゅい、と中身が揺れて、水が出てくる。同時、洗剤の量を教えてくれるので、指定の量を入れる。洗濯洗剤は、ドラッグストアの中でもできるだけ香りの薄いものを選んでいる。
 気分が塞ぎ込んでいる今、強い香りや大きな音はひどい不安材料になってしまった。大きな音が聞こえてきそうな場所への外出時はイヤホンか、大きな音だけを軽減する特殊な耳栓をつけている。トラウマが呼び起こされそうな時には気に入りの雨上がりの匂いのする香水を耳の裏につけて、常にその香りを感じて恐怖を抑え込もうとしている。
 そういった、小さな逃げを利用して、ギリギリのラインで真人間と同じ行動を取れるよう最善を尽くしている。
 洗濯機に寄りかかって、少しの間その振動を背中から全身に感じる。軽い痺れのような、揺さぶりのような、むず痒さが心地よい。目を閉じる。本当にほのかに、洗濯洗剤の匂いを感じ取る。サボンの香り。きょうは肌着以外ならベランダに干しても問題ないだろう。立ち上がり、ワンピースの裾を直す。次は、掃除だ。

 掃除機はうるさいから処分してしまった。板の部分はフローリングワイパーで、カーペットは箒で、棚や小物は固く絞ったさらしで拭く。丁寧に、四角の部分はきちんと四角くフローリングワイパーをかける。手は抜かない。丁寧に。
 同時に、植物の様子も観察する。水が足りないものには水を、栄養が足りなさそうなら栄養剤を、日当たりをコントロールするために位置を入れ替えたりもする。モンステラは特に日差しの位置で成長位置が偏ってしまう。葉についた埃をティッシュで拭ってやりながら、九十度ほど向きを変えてやった。

 洗濯はまだ終わっていない。コーヒーを淹れる。薬缶に水を入れ、コンロにかけてから気に入りのアラビアのマグカップに直接コーノ式のドリッパーをセットして、折りたたんだフィルターをセットする。豆を計量して、手動のコーヒーミルで中細挽きほどに砕いてやる。フィルターにコーヒー豆をセットした頃には湯も沸いていて、適温に下げるついでにコーヒーケトルに湯を移す。
 そっと豆の中央辺りに、大匙一強ほどの湯を注ぐ。少しずつ、ふくふくと豆が膨らんできて、同時にコーヒー独特の苦みと酸味、旨みの交ざった香りが鼻腔を刺激する。数十秒後にもう一度、のの字に湯を注ぎ入れて、また少し休んで、またのの字に入れて、を繰り返し、適量になっただろう頃にドリッパーを外してシンクにそのまま置いてしまう。
 マグカップのコーヒーを見る。限りなく黒に近くて、マグカップに触れる縁の部分だけがほんのりと濃い茶色に見える。香りを嗅ぐ。いい匂いがする。少量の砂糖を入れて、食器棚から木製のコースターを出してリビングに戻る。
 洗濯機の回る音を掻き消すように、またスマートスピーカーに音楽をかけてもらう。気に入りのミュージシャンの曲を片手に、甘く苦いコーヒーをすする。
 午前九時少し手前。社会人なら仕事を始める時間といったところだろうか。私は、きょうも『丁寧な暮らし』を行う。儀式を執り行うように。


(続)

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