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せいめい

 数え切れないほどの物に溢れた部屋で蹲りながら、それでも私は私が生きていることを許せないままでいた。


 私はずっと自分のことを「生きていてはいけない人間」だと思って生きてきた。
 積極的に死にたいわけではない。むしろ私は私が自身の生を肯定することさえできれば、その他の承認など何一つもいらないとすら考えていた。
 私は、私をこの世界に必要な生命だと認めてあげたいのだ。
 しかしそれはいまだ叶わない妄想まがいの願い事として、私の首を密やかに絞め続けている。



 祖母の話をしよう。父方の祖母の話だ。彼女は何かを保有し続けることを心から嫌う人だった。
 洋服は数枚をワンシーズンで着倒し、季節が外れれば売るなり捨てるなりでさっさと処分したし、靴だって精々一年そこらでどれだけの気に入りでも躊躇いなく買い換えた。食器や布団だって数年、本は読めばすぐに売り飛ばし、私が友人からもらったぬいぐるみや少額の小遣いを貯めて購入したアクセサリーなども、所有者である私の許可なく平気で捨てた。
 その都度なんてことをしてくれたのだと怒鳴り散らしても、祖母は、
「わたしのやり方が嫌ならば出て行けばいい。わたしは別にお前を手放したっていいんだから」
 などと、淡々と言い放つのだった。
 幼いころから祖母の所有物だった私は、祖母のその科白がただの脅迫ではないことを他の誰より知っていた。そのときの祖母はすでに自身の夫と息子、息子の妻を捨てていたからだ。祖母に捨てられた人間のうち男二人は自らの肉体ごと殺め、女は精神のみを殺してしまった。
 祖母に捨てられれば確実に私も自分自身を殺してしまう。誰かを殺すということは、その人物の存在に対する根本的な否定だった。
 私は私を存在してはいけないと考えている。私は生命としての自身を否定している。そもそも私は生きていてはならない人間なのだ。
 これらは私にとって極々自然な発想でしかなかった。


 けれど、ある日祖母は大型トラックに轢かれ、ぐちゃぐちゃになって呆気なく死んでしまった。修学旅行先から呼び戻され「祖母だった物」と対面したとき、「それ」は両手で包み込めてしまうほど小さな壷に変わっていた。
 祖母と私の遠い親戚だと名乗った男は言葉を濁していたが、近所の人たちの話をまとめると、車に轢かれてぐちゃぐちゃになった祖母はもはや人間というより粗挽き肉に近かったらしい。粗挽き肉となった祖母の肉体を、彼らは「若い女性が見ていい代物ではない」と判断し、一応は家族という扱いになっていた私に許可を得ることなく高温で燃やして灰にした。
 そのせいで私は祖母が死んでくれたことがうまく理解できなかった。
 私は壷を引き取り数日間それをどう処理すればいいのか考えていたが、次第に考えるのも億劫になってしまい、壷の中身全てを広げた新聞紙に開け、丸めて、火曜の可燃ごみの日に生ごみと一緒に袋詰めして収集所へ置いた。
 学校から帰ってくると、それはきちんと回収されていたので、祖母は様々な家庭ごみと一緒に再び燃えることができただろう。


 私の所有者だった祖母が人間から粗挽き肉に変わり、そこからさらに灰となり、ごみと共に収集され私の手元から消えてしばらく経ったころ、私は高校を卒業し社会人となった。
 派遣社員として毎日会社へ行き、大卒だという男から回りくどい指示を受け、茶を汲み、大量のコピーをステープラーで束ね、頭の悪い噂話に相槌を繰り返し、見えない糸で頬と口角を一センチメートルずつ吊り上げ続けることではした金を稼ぐ。
 稼いだ金で、私は「物」を買った。
 最初は生活に必要な物を多めに買いストックしておく、という程度だったが、次第にそれは不必要だがほしい物へと変わり、ほしいかどうかもわからない物の収集を経由して最終的に要らない物を異常なほどに買い集めるようになった。
 仕事が終わると私はいつもあらゆる店を渡り歩き、目についた物をとにかく両手いっぱいに抱えて金を支払う。本屋、ホームセンター、薬局、デパート、スーパーマーケット、コンビニエンスストア、煙草屋、自動販売機。そういったところで私は読む気のない本、何に使うかもわからないネジや木材、患ったこともない病に対処するための薬剤、店員が惰性で勧めてきただけの装飾品、食べ方のわからない野菜や調味料、十人分ほどにもなるだろうスナック菓子、触ることすら嫌悪してしまう高級な葉巻、飲めないアルコールなどを気が狂ったように毎日毎日かき集め、けれどちっとも満足することはなく、祖母と暮らした一軒家の床に適当に置き捨てた。
 日々部屋には不要な物が積み重なっていき、元々は必要な物すらなかった祖母の家は瞬く間に清潔さを失った。



 自分の頭がおかしいことくらい、端からわかっていた。
 そもそも「お前などいつ捨ててもいい」と言われ育ったのだ、自身の存在を肯定できなくとも仕方ないだろう。
 そして、自分自身の存在が肯定できないからこそ私は物に執着する。
 私はあらゆる物を自身の所有として、それらで身を包み、囲み、固め、軟弱な自分を保護しているだけなのだ。祖母に必要な皮や肉まで剥ぎ取られ、剥き身で生きてきた私は、もはや自身で自身を形成することもできなくなっている。代わり、稼いだ金で買い集めた物で私は「私」という人間の形を保とうとしていた。

 惨めだと思う。
 けれど、この惨めさを補修するための「何か」がこの世の「どこ」にあって、それはどういう「物」で、どれほどの金を差し出せば自身の「所有」となり、それを手に入れることによってどれだけ自分が「救われる」のか。
 その一切を私は知らない。知ろうとも思えない。
 だってもし私がそれを買えなかったとき、私はきっと、いよいよ本当に生きていくことが嫌になってしまうはずだから。
 この部屋を埋め尽くしている何もかもは確かにここにある。けれどそれらは何の役にも立ちはしない。
 ここにある全てを最大限利用しても、私の脳味噌が存分に満たされる日などやってこない。
 私は、私の命を許容してやることすら叶わない。

 私には何もない。いつだって私には何もなかった。



(「せいめい」19.4.11)

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