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(12)記憶が支配する

 あしたは病院で、診察時間は十一時半から。どうせ二時間は遅れるから、お弁当を持っていかなければならない。あしたはサンドイッチにでもしようか。棚からホームベーカリーを出し、強力粉や塩、砂糖、バター、牛乳、ドライイーストなどを支度する。計りで適量を計測し、順番通りに入れる。捏ねるだけの操作をしてくれるボタンを押すと、ぎいん、ぎいん、ぎいん、とモーターが回り出す音が響いた。
 しばらくして機械が止まる。蓋を開け、指先で生地を伸ばしてみて、薄く膜が張るのを確認する。再び蓋を閉めて、具合よく捏ねあがったそれを一次発酵させる。きょうは暖かいから、数十分で終わるだろう。棚から食パン型を取り出し、汚れなどがないか眺める。問題なく使えそうだった。調理台の上に仮置きしておく。
 冷蔵庫からカルピスを出し、炭酸水で割る。ちびちびと舐めながら、ほんの少しの眠気を感じる。テーブルに突っ伏して、そっと目を閉じる。頬が冷たい。気持ちいい。カーテンが揺れて、ぬるい風が前髪を揺らす。本格的な夏がくる予感がする。
 ホームベーカリーが鳴る。手を洗い、ぷす、と指を差し入れてみると、ちょうどいい穴が開いた。発酵はうまくいったらしい。
 お手本通りに一つの大きな丸に形成し、食パン型に入れる。あらかじめ三十五度で余熱しておいたオーブンに入れて、二次発酵を始める。型の七割ほどになったら一度取り出して蓋をし、オーブンを二百十度に余熱して、そこから三十分焼く。
 焼く前のパン生地は、そういう動物のような独特の柔らかさがある。一次発酵の確認に指を突っ込むとき、いつも、キュートアグレッション、という単語が頭をかすめる。私にそういう癖はないけれど、購入したパンではこの柔らかな狂気が頭を過ることすらない。

 両手にミトンをつけ、焼きあがったパンの型を調理台に二、三度叩きつける。よくわからない工程だけれど、パン焼きのレシピ本には必ずといっていいほど書いてあるから真似してやっている。焼きあがったパンが縮むのを防げるらしい。
 蓋を開け、支度しておいた熱さましの金網の上に食パンを出す。焼きムラもなく、折れもない。きょうもうまくいった。
 台所を、焼き立てのパンの香りが隅々まで支配している。いい香りだ。深呼吸する。ある程度冷めるまでこのままにしておいて、頃合いを見て八枚切りほどにカットしよう。それまで、少し横になっていようかな。

 台所からリビングを横切り、寝室に入る。田舎特有の、広く、安く、おんぼろのアパートは部屋数があり、用途別に使い分けることができて便利だ。似たような値段で、駅近で、築年数の浅い一DKなども内見したが、その駅からの近さのせいで部屋の中まで外の賑やかさが充満していた。息苦しさを覚え、私は不便さを選んだ。
 それでもこの家は徒歩圏内にスーパーマーケットとドラッグストアがある。我ながらいい物件を見つけたと思う。おかしくなってしまった身体と心を、この部屋で静かに、時薬を利用して回復させようとしている。パンの匂い。丁寧な暮らし。細やかな生活。命に優しい速度で生きる。走ってはいけない。後ろ向きで、逃げていてもいい。言い聞かせる。

 あすの医者では何を話すんだろうか。夕方手前、ベッドに横たわりながら、今の自分の心の形をじっくりと考える。それをできるだけ正確に表す言葉を想像する。繰り返す日々の中で、未だ傷となっている部分を丁寧に探る。いくつかのそれを見つけて、そっと周囲をなぞる。瘡蓋になっている部分と、膿んでいる部分を見分けて、優先順位を決める。あのことを、と思いながら、同時に過去を思い出してしまう。あいつらに砕かれた心を想う。それでも、私の心なら、また別の何かで砕けていたのかもしれないな。たまたま今の人生では、教師をやり切れなくて、恋人と馬鹿みたいにあっさり別れて、それで壊れてしまっただけのことで。
 絶対に壊れない心を持った人とはどんな人だろうか。会ってみたいと思えるだろうか。いや、そんなことはないな。だってもう会っている。
 きっと、私は、そういう奴らに心を砕かれたんだから。
 舌打ちをする。


(続)

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