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掃き溜めにて

 小窓と押し入れのちょうど真ん中、“溝”や“透き間”という響きがよく似合うその三角形に座りながら、狭い台所に立つ先輩の背中を見ているのが好きだった。日が経って萎びてしまったじゃがいもの芽を一つ一つ丁寧に摘みながら、先輩は僕へ向かって取り留めない話を続けている。
「じゃがいもってさ、メークインってのと男爵って名前の品種があって――まあ他にもキタアカリとかインカのめざめとか、たっくさんあるんだけど、代表的にはさっき言った二つがメーンなのね。で、わたし、どうしてもメークインと男爵の使い分け方が覚えきれなくて。簡単にいうと、メークインはカレーとかシチュー向きで、男爵はポテトサラダとかコロッケが向いてるんだけど、こないだもカレーの予定なのにうっかり男爵買っちゃってさ、出来上がったらじゃがいも、どろどろに溶けて跡形もなくなっちゃってた。勿体なかったなあ、味はよかったのに。すっごく」
 先輩は僕に背を向けながら淀みなくぺらぺらと喋り続け、そのうえで手際よくじゃがいもを何等分かに切り分ける。耐熱皿にそれを並べて、少しの水を浴びせてからそっとラップをまとませて電子レンジへ入れ、右下のつまみを回せば、ヴーン、という独特の音と共にじゃがいもは急激に熱されていった。
「ああ、そういえばさ、こないだ借りたCDすっごくよかったよ。アイドルなんて聴いてこなかったけど、今のアイドルって“いかにも!”な、こう……ロリ路線? みたいな感じじゃないんだね。電子的な変拍子のメロディに女の子の透明な声が乗ってるの、なんだか意外すぎて最初びっくりしっ放しだった。でも、ちょっとぞくぞくってもしちゃったんだよね。感動ー。深瀬くん、ああいうの、一体どうやって見つけてるの?」
「YoutubeとかSpotifyがメーンですね。最近は本当になんでも、便利なものが多いですから」
「ふうん……ライブとかも行ってる?」
「彼女らはまだですね。チケット取りづらくて」
「へえ。人気なんだねえ」
 ちん、と甲高い音が鳴ると同時、地鳴りのような電子音がぴたりと止まる。先輩がレンジのドアーを開けると、薄ら白い湯気が少しだけ漏れた。あち、と言いながら、先輩は耐熱皿を取り出してそっとラップを剥がす。煙突のけむりのように、もくもくと熱が目に見えて溢れていく。瞬間的に、僕は田舎の町工場を思い出す。


 僕が育った町は、この世の掃き溜めみたいなところだった。
 まっとうなものなんにもなくて、だれにも見向きされない。その代わり、都会から溢れ、あぶれたモノたちがそこいらにたっぷりと転がっていた。例えばそれは山の麓で不法投棄された大量の粗大ごみであったし、例えば元来ペットだった動物が定期的に突っ込まれては処分される保健所であったし、例えば国籍も年齢もはっきりしない女たちがはしたない身なりで馬鹿な男共から金を巻き上げるキャバクラ店でもあった。
 僕はそういう場所で戸籍を持たない、存在しないはずの子どもとして生まれ、まともな教育とは無縁の世界で育ち、ふと気づけばもう二十歳になっている。僕は何年も前にその町を見限ってあって、そこを出てから一度も戻ったことはない。
 数年前、母親が祖国に強制送還されたことは、人づてに、なんとなく程度に知った。最後まで父親のことを訊けなかったな、とは薄ら思ったが、それ以上の何かを思うことは一切なかった。僕は自分の母親が元々どの国で生まれたかを知らないくらいだから、きっと再び僕と母親が顔を合わせることはないのだろう。
 今の僕はまともな学力も、まとまったお金も、親も友人も恋人も、いやそれ以前、そもそも本物の戸籍すら持ち合わせてない。けれど僕には自分で契約したアパートの部屋があって、だれにでもこなせるようなものではあれどきちんとした仕事があって、自分名義のクレジットカードを持っていて、スムーズに動くスマートフォンとパソコンを一台ずつ所有していて、顔写真つきの免許証とバイクだってある。
 当然それらはまっとうな手段で手に入れたものではない。しかし、それらはどれもこれも僕が、僕だけの努力で手に入れたものだ。頼る親の一人もいない僕が、文字通り必死の思いで手に入れた数少ない“僕”を確実に証明してくれる、ほんのわずかな欠けらたちだ。


 先輩がある程度柔らかくなったじゃがいもをボウルに移し、フォークの背で粗く潰し出す。まな板のそばに転がっていた茹で卵を剥き、軽く指先で解しながらボウルへ加える。冷蔵庫からカロリーハーフのマヨネーズを取り出し、適量を絞り出す。少量の砂糖と胡椒を振りかける。ざっくりとひと混ぜしてからそっと指先で掬い、彼女は胡瓜も人参も入っていない、じゃがいもだけのポテトサラダの味を確認する。
「おいしいですか?」
「ま、そこそこだね。もし深瀬くんがこれ以上を望むのであれば、駅前のカラオケボックスで大量生産顔の大学生の女の子でも引っかけておいでよ」
「考えておきます」
「いいことを教えてあげようか。私の経験から察するにね、下睫毛にマスカラ付けまくっていて、なおかつ前髪からおでこが透けて見える茶髪の女の子はすぐに連絡先を教えてくれるよ」
「なんですかそれ。偏見もいいところですよ」
「偏見なんかじゃないよ。私という人間が、そういうフィルター越しに世界を見ている、というだけのお話」
 ことん、と音を立てて、銀色のボウルに入ったポテトサラダがローテーブルに載せられる。色味の少ない、味気ないそれを、僕は部屋の溝、透き間、三角地帯からじっと見つめ、それからゆっくりと目線を上げていく。数秒後、テーブルの向う側に立つ先輩と目が合う。先輩は僕を見下ろしている。

 僕は先輩のことを何も知らない。先輩も僕のことは何も知らないはずだ。
 僕らは数か月前、とあるバンドのライブ会場で知り会った。偶然隣に並んでいた僕と先輩はたまたま開演前に話が弾み、自然な流れで終演後に居酒屋へと移動すると、がばがばと安酒を飲んだ。その後下睫毛にたっぷりとマスカラを塗り、茶色く染まった控えめな量の前髪の奥に額が見える彼女は、何の抵抗もなさそうに僕に電話番号だけが書かれた紙を手渡した。
 先輩と二回目に会ったとき、先輩は僕に「わたしのことは“先輩”と呼んでほしい」と言った。僕は何も訊かずに、はい、と返事をして、自分は“深瀬”という名前だと伝えた。
 僕の部屋の表札に“大野”という文字が書いてあることを、先輩がただの一度も目にしていないはずはない。最近流行りのバンドのライブ当日、会場へ向かうべく僕が先輩と待ち合わせしたとき、僕が外し忘れていた “久保”と表記された仕事用の名札の存在に先輩が気づかなかったわけはない。もっと言えば僕のクレジットカードには“HAMADA”という文字が並んでいるし、僕の免許証には“山内”と書かれているのだ。
 それでも先輩は何も訊かず、何も知ろうとはせずに、僕を“深瀬くん”と呼び続ける。


「じゃあ、わたし、そろそろ仕事だから。またね、深瀬くん」
「はい、また」
 虫も鳥も、人々すらも寝静まったころこの部屋を出て行き、少なくとも数日間は連絡の一つもつかなくなる先輩の“仕事”について僕は何も知らない。まっとうなものではないのだろうな、と、まっとうな生き方をしてこられなかった僕が頭の隅で考えている。

 ギー、と鈍い音をして閉まっていく玄関をじっと睨み、先輩が持っている合鍵で施錠されたことを耳で確認してからようやく僕は三角地帯から立ち上がった。小ぢんまりと安座し続けたせいでいくらかしびれた足先でテーブルのそばまで歩くと、再びしゃがみ込んで色の薄いポテトサラダを見る。
 丁寧に潰されてあるべきじゃがいもはところどころ塊のままで、台所のくずかごに入れられた袋には大きな文字で“メークイン”と印刷されていた。



(「掃き溜めにて」18.10.17)

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