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延長線上の彼女

 白い天井に白い壁、白い床、白い窓枠の向こうに見える白樺の樹。白いベッドの脇にある白い抽斗の上には白い桔梗が白い花瓶の中、無造作に活けてあった。
 何もかも真っ白な部屋、田上さんは薄水色の病衣をまとい、長く、少しばかり傷んだ髪の毛先をそっと左手で梳いている。田上さんの指は今にも折れそうなほどに細く、長く、しかししなやかであり美しくもあって、そのうえで黄色人種とは思えないほど白かった。
 田上さんはもうずっと長いあいだこの真っ白な部屋で暮らしている。
 僕も少し前までは彼女と似たようなものだった。


 幼いころの僕は呼吸器が軒並み弱く、頻繁に正しい息の吸い方を忘れては自宅からこの病院まで救急車で担ぎ込まれ数日から数週間、長いときには数か月をあの白い部屋で独り過ごした。僕が常連になる以前から田上さんはこの病院で暮らしていたらしく、残念ながらそれは今も変わっていない。
 僕やその他の患者と違い、田上さんは重い発作などを起こすことはただの一度もなかったけれど、しかし田上さんにとって“世界”とはこの院内だけで構築されているようだった。
 まだ僕が小学校低学年かそこらだったとき、彼女へ「僕は呼吸器が悪い。君はどこが悪いの?」と訊ねたことがある。今ならなんて話をしたのかと猛省することもできるけれど、そのときの僕はあまりにも幼く浅はかだったのだ。
 僕の言葉を聞き、田上さんは機嫌を損ねることも、僕を窘めることもなく、
「強いていえば、うーん。生まれてきたことが、かな?」
 そういって、軽く笑っていた。

 それからしばらく経ち僕が中学生になり二度目の冬を迎えた今、気がつけば僕の身体は同級生たちと比べても謙遜がないほどの健康状態になっていた。
 もちろん今でも全力で走れるわけではない。カラオケボックスへ行ったって大声を出し何曲も歌えるわけではない。空気の汚れた場所――たとえば喫煙所だとか工場の側だとか、そういったところへは怖くて近づけもしない。
 しかし、それでも今の僕は毎日徒歩で十二分の学校へ通うことができ、夕方まで一度も保健室のお世話にはならず、放課後は文芸部の部長として学友たちと学生らしい様々な話をし、様々な経験を重ることができていた。
 僕は今も数か月に一度は定期検査のために病院へ向かい、その前後数日間だけは田上さんのことを思い出したりする。
 しかし僕は、たとえ検査が予定よりうんと早く終わったとしてもなぜだか田上さんに会いに行こうなどとは考えず、病院の玄関をくぐるころには僕の頭は “いつも通りの日常”へと切り替わっていて、彼女のことなんてすっかり忘れてしまうのだった。
 だから、ある日不意に母から田上さんの名前が出てきたとき、僕は、
「田上さんって……あの“田上さん”?」
 思わず彼女の名を聞き返してしまった。母は、そう、あの田上さん、と僕の言葉を繰り返し、それから、
「きのう、あんたが小さかったころの写真を整理していてね、そしたらふとあの子のことも思い出したんだけど……ふしぎよね、病院にいるあんたの写真はいっぱいあって、あんたと他の患者の子たちが写った写真だっていっぱいあるのに、田上さんが写った写真だけが一枚もないのよ。撮らないでってお願いされた覚えもないのに……まるで幽霊みたいに、あの子だけがいないのよ。どうしてだったか、あんた覚えてる?」
 まるで幽霊みたいに、あの子だけがいない。
 母の言葉が僕の中で繰り返し木霊する。


 四年ぶりに会った田上さんは僕が覚えている「あの女の子の延長線」というより、むしろ「その面影を残した別個体」だった。
 もちろん、確かに彼女が田上さんであるという確信はいくつも持てる。目の前の彼女の笑いかたはあの頃と少しも変わっていないし、声色だって多少落ち着いたようだけれどほとんど変化がないままだと言ってもいい。
 彼女は田上さんで、田上さんはあの女の子。それは絶対に間違えようのないことだ。
 いくらか気後れしながらも僕が、ひさしぶり、と声をかけると、田上さんはあの頃みたく少し困ったように首を傾げ、頬にかかる髪の毛を手櫛で整えながら、
「ね、ひさしぶりだね。あはは、うん、おかえり」
 と、笑えない冗談を交え僕に応える。手首がやけに細い。青白い血管がくっきりと見える。陶器のような肌へ向けた目を背けられなかった。

 先ほど、久しぶりに訪れた病棟で馴染みだった看護師に「田上さんに会いたい」と伝えたとき、彼は静かに、
「ああ、それは……うん、問題ないとは思うんだけど」
 と何かを濁すように言って、それから「まあ、何はともあれ田上さん本人が会いたいかどうか訊いてくるよ」と、僕に背を向けて病室の方へと消えていった。
 思うんだ、けど。
 その「けど」の意味を、僕はおそらく正しく理解できている。今の僕はある程度健康体で、とっくの昔にこの病棟を去ってあり、どこまでもありふれた生活を至極当たり前に続けることができている。
 しかし、田上さんはその限りではない。彼女はこの隔離された場所でずっと、異常なほどに平坦な毎日だけを繰り返している。
 彼の言う“けど”とは、きっと、そういうことだ。

 田上さんは備えつけの小さな冷蔵庫から手つかずのポカリスエットを一本取りだすと、どうぞ、と僕に手渡してきた。ありがとう、と言って受け取り、ゆっくりと含み口内を潤す。きつくボトルキャップを締めてから、彼女をもう一度、盗み見るような気持ちで一瞥した。
 相変わらず彼女の顔は精密に整っているし、丁重に保管されたビスクドールのように真っ白で血の気のない肌をしている。今も昔も、彼女には「人の温かみ」のようなものが感じられない。その理由が環境ゆえなのか、あるいは別の要因にあるのか、僕には判断がつかない。
 変わらないでしょう、と田上さんが言う。なにが? と僕が訊ね返せば田上さんは、
「んー? そりゃあ、ぜんぶだよ」
 と、短く呟く。そして続ける。
「外は、たのしい?」
 田上さんが自身の手のひらを見た。僕には彼女が言いたいことがわからないようで、わかるようでもあり、けれど明確に捉えきることができない。
「えっと、それは?」
「外の世界は、たのしい? 私はもう何年も出ていないから。引き取り手がね、いないんだよ。私はもうとっくに健康なはずなのにさ」
 田上さんが笑う。僕はいつかのテレビ番組で耳にした話を思い出す。
 病院へ捨て置かれるように、そこを自身の家とするように生活を続ける人々。様々な理由があって家族が会いにこない子どもたち。明確なゴールにたどり着けないまま、彼らはそこで日々をただ繰り返し、同じ「毎日」を辿り続ける。
 やはり田上さん小さく笑いながら、
「ねえ。外っていいもの?」
 そうして僕を真直ぐに見ていた。僕は何も答えられない。彼女は続ける。
「わたし、たぶん、もうそれなりには健康なんだよ。本当なら退院だってできるはずなの。君と私、もうそれほど大きな差はないんだよ。唯一、帰る場所があるかないか、本当に、それだけの違いしかない」
 僕は何も言えない。ただ田上さんの言葉に耳を澄まし、呆然と彼女の顔を見つめている。
「ねえ。君はきょう、どこかへ帰るの?」
 部屋の壁掛け時計が鳴る。十七時だった。田上さんが弾んだ声で「ほら、帰りなよ。もうすぐ夜がやってくるよ」と言い、
「あ、ああ、うん、それじゃあ」
 僕は慌ただしく席を立つ。最後、田上さんは、
「うん。さよなら」
 そう言って、やはり僕を見ながら笑っていた。


 すっかり薄暗くなった川沿い、僕は煙くさい工場街を避けるためいつものように遠回りして家路に着いている。
 田上さんにもらったペットボトルは僕の右手でふらふらと揺れていて、まだたったの一口分しか減っていなかった。これから先、きっと僕はポカリスエットを見るたび彼女を思い出してしまうのだろう。それはまるで最後まで幽霊みたいだった彼女の呪いだとしか思えず、僕は一度大きく息を吸った。
 その瞬間、久しぶりに肺の底からひゅうと気の抜けた音が聞こえてきて、僕は思わず身を震わせ小さな声で何度も何度も「さようなら、さようなら、さようなら」と彼女へ別れの科白を呟き続ける。

 耳にこびりついた田上さんの囁くような笑い声が、僕のがらんどうの肺へと流れ込み続けている気がしてならなかった。



(「延長線上の彼女」18.10.22)

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