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『うっせぇわ』に思う(Rock'n'roll is (not) dead.)

ロックンロールは死んだ。

かつてジョンレノンやレニークラヴィッツがそう言っていたように、僕はここ10年くらい本気でそう思っている。

ロックは1960年台に生まれ、70年台に最盛期を迎え、80、90年台で徐々に衰退していき、21世紀を迎えた。00年台まではそれでもまだロックは必要とされていた。

でも2010年台に入って、ロックは完全に死んでしまった。

もちろん、一定数のファンは存在する。クラシックやジャズのように、音楽の一ジャンルとしては今でも認知されている。でも、昔のようにメインストリームで存在感を放ってはいない。社会を動かすような力はもうない。

大袈裟なことを言えば、ロックという音楽はもう時代に必要とされていないのだ。

ロックはなぜ衰退したのか

ロックがなぜ衰退したのか、明確な理由は僕にはわからない。

テクノロジーの発達により、パソコン1つで音楽が作れるようになった。ギター、ベース、ドラム、アンプ、スピーカーといった重くて嵩張りなおかつ値段が張るものを揃える必要がなくなった(ギターが売れなくなったことでギブソンは倒産した)。

1人で音楽を手軽に作れるようになったことで、バンドのメンバーを集めたり、その中での面倒な人間関係に悩まされる必要がなくなった(バンド内恋愛で関係がめちゃくちゃになったり、「方向性の違い」でバンドが解散することもなくなった)。

ロックという音楽の「賞味期限」もあるかもしれない。誕生後50年以上経過し新たな発想や手法が生まれなくなり、進化が止まってしまった。

ざっと考えただけでも色々理由はありそうだ。ただ、ここでは深くは追求しないことにする(また別の機会があれば書いてみたい)。

「不良」は流行らない

ロックは不良の音楽だ。不良を別の呼び方で言えば「ヤンキー」だ。

僕が10代のころ、「ヤンキーはモテる」というのはある種の共通認識だった。

それはつまり、「悪い奴はカッコいい」という価値観があったことを意味する。僕はまだ子どもだったから肌感覚としてはわからないが、社会全体としてそういう雰囲気があったのかもしれない。「盗んだバイクで走り出す」とか「悪そうな奴は全員友達」な曲がオリコンのトップチャートに入るような時代だ。

しかし、今はどうだ。

かつて栄華を誇ったヤンキーは、今やDQNとか言われて蔑まれるようになった。

悪いことはカッコ悪いことと見做されるようになり、ヤンキーはモテなくなった。

それ自体はいいことなのかもしれない。

常識的に考えたら、悪いことはやっぱり悪いわけで、人をだましたり物を盗んだり誰かを傷つけたりする。そういうことが減ったとも捉えられる訳だ。

だから、「悪い=カッコ悪い」は良いことなのかもしれない。

ロックの役割

それでも僕は思ってしまう。

「不良」が果たしていた役割というものを。

悪い奴は大抵何かに不満を持っている。

その不満を、何らかの手段で表現する。それはバイクで暴走することだったり、教師に反抗することだったり、誰かを殴ったりすることだった。

そして、ロックという手段でそれを表現する奴らがいた。

自分の置かれた境遇に不満を表し、既存の価値観に中指を立て、その思いをロックというフォーマットに乗せて叫んだ。そして、それに共鳴する若者たちの救いになった。

そう、ロックとは「反逆」なのだ。

ロックの定義は人それぞれで、それを突き詰めることに僕はあまり興味がない。それぞれがそれぞれの価値観で定義すればいいと思っている。

でも僕にとってのロックは、紛れもなく反逆だった。

大人への反逆、社会への反逆、この世界全体への反逆…。

それらを表現し共有するのに、ロックほど適した音楽はなかった。ディストーションをかけて歪ませたギターの音や、血管がちぎれそうなボーカルのシャウトは「僕ら」の思いを代弁してくれているように感じられた。

不安だらけの若者だった僕にとって、ロックは自分の代弁者であり世界に立ち向かうための武器だった。

今はすっかりおっさんになり、そんな青臭くて尖った思いはアイスクリームみたいに溶けて消えてしまったけど、その感覚だけははっきり覚えている。

だから、僕はロックに感謝している。それがなければ乗り切れなかったことも多分たくさんある。ロックは僕の「恩人」なのだ。

若いってことは

ロックにかつてのような影響力がなくなった今の時代はどうだろう。

“今の若者は云々”なんて死んでも言いたくないけど、気にはなっていた。

今の若いひとは、自分の助けになってくれるような音楽を持っているのか?自分達の持っている不満を代弁してくれるような音楽を?そもそもそんなものは必要としていないのか?

若いって不安だ。

いやいや、そんなこと全然なくて毎日楽しいっすよw というならそれはそれでいい。でも、たぶん、若いってやっぱり不安じゃないかとおっさんとしては思ってしまうのだ。

大人は色々なものを若者に押し付ける。君のためを思って「やってあげてる」んだと言いながら。それは多くの場合大人の自己満足でしかない。

なぜそうなるかというと、若者は弱者だからだ。知識も経験も金も地位もない。そんな若者に対し、大人は自分の価値観を押し付けたり、意のままに操ろうとしたり、本来不要な劣等感を与えたりする。「君のためを思って」という善意の仮面を被りながら。

そんな大人と戦うにはどうしたらいい?何が必要か?何があれば戦える?

…僕にとってはそれがロックだった。

「うっせぇわ」

この曲は、僕が知っていたロックとは違う。

何しろ、“ちっちゃな頃から優等生”で“模範人間”だ。

優等生であることはロックの世界においては「恥」とされてきた(故中島らも氏もそう書いていた)。悪い=カッコいいが絶対なかつてのロックにとって、優等生であることは致命的だった。

でも、今はそうじゃない。優等生であることは今はカッコいいのかもしれない。そのあたり、おっさんには正直よくわからない。

冒頭部分はチェッカーズのアレに引っ掛けてることは明白だが、そのことは個人的にどうでもいい。チェッカーズってロックじゃないし。

それよりも、かつてのロックが反逆の対象である大人や社会に対して直接的に反抗していて(分かりやすく見えるような形で反抗していて)、何かを伝えようとしていたのに対し、この曲はそうじゃないと思わせられる所が大事なように思う。

たぶん、この歌詞はあくまで自分の中で思っているだけであって、相手にこれを伝えることはないんだろう。この曲に「何かを伝えようとする」思いは感じられないし、それは「伝えても何も変わらない」という諦念であるように思う(だから最後に“どうだっていいぜ問題はナシ”と言っている)。この辺に今の時代っぽさを感じる。

また、“殴ったりするのはノーセンキュー”って新鮮だ。かつてのロックなら、殴ったりナイフで刺したり銃(“言葉の銃口”とは言ってるけど)で撃ったりしている所だ。なんて平和的なんだろう(この辺りは歌い手が女性であることにも関係しているかもしれないが、そこを突っ込んでいくとまた違う話になりそうなのでここでは触れない)。

でも言ってることはなかなか痛烈だ(“くせぇ口塞げや”とかね)。だから「うっせぇわは子どもに聴かせたくない」なんて論調が出るんだろう(いくつかそういう記事を見た)。でもそういう意見が出ること自体、「ロックの基準」を満たしている。大人から眉を顰められるのがロックのアイデンティティの一つだから。

さらに、“絶対絶対現代の代弁者は私やろがい”
代弁してるって自分で言っちゃってる。これで確定的だ。

そうこの曲は、行儀良く真面目だし(少なくとも表面上は)、渡り廊下で先輩を殴ったりしないし、ナイフを持って立ってたりしない。

でも、やっぱり「ロック」なのだ。

グダグダとこんなことを書かなくても、サビに入る前の“はぁ?”だけ聞けばわかる。

ここに、不満、不安、怒り、苛立ち、諦め…といった色んな感情が凝縮されている。それはかつてのロックにおけるシャウトとよく似たものだ。“はぁ?”の方が冷静かつ辛辣で、ベクトルが内向きという違いはあるけども。

この“はぁ?”が歌えるAdoの歌唱力は大したものだと思うけど、技術的なものだけでなく多分彼女自身が抱いている思いと共鳴しているからなのではないかと感じる。

何にせよ、この“はぁ?”を聴いただけで僕はこれは「ロック」だと感じてしまったのである。

若いひとたちへ

さて、おっさんの思いのたけに任せて長々と書いてきたが、この文章で今の若いひとたちに何かを伝えたい訳ではない。

僕は極力何かを押し付けたくない。かつての僕がそうされて極めて不快だったから。「大人の言うこと」はそれだけで一つの権威だともっと多くの人が自覚した方がいいと思う(あ、これも押し付けか)。

また、うっせぇわが「ロック」だと色んな人に伝えたい訳でもない。

これはあくまで僕の解釈であって、それこそ押し付けられるようなものではない。月並みな表現だけど、100人いれば100通りの解釈があっていいと思う。

ただ一つだけ思うことは、今の時代にもこういう音楽があって安心したということだ。

もちろん、僕が知らないだけで他にも色々あるんだろう。

なぜなら、必要とするからだ。自分たちの思いを表現して共有して代弁してくれる存在を。

だから、「ロック」はいつまでもなくならない。

かつてロックに救われたおっさんとしては、そう思っているという話である。

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