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エッセイストに向いている人、いない人。

を、考えてみた。

すんげー簡単で、おそれ多いんだけど、これにかんしては「エッセイを書きたい」と願える人ならだれでもなれると思う。

けっして「エッセイ」をあまく考えているわけではないよ。

そもそもエッセイとはなにか。

エッセイの定義はさまざまあれど、「日々のできごとや過去の記憶を、いろんな角度と熱量で観察し、そこにそっと自分の考えを添えた文章」がエッセイだ。

起きたできごとや想いをただ書くのは、一般的に日記やブログと言われる。

かのベストセラー、嫌われる勇気の作者・古賀史健さんが、先日発売した著書「取材・執筆・推敲」では、エッセイストについても触れている。

エッセイとは決して「自分の思いをつらつらと書き綴ったもの」ではない。

まったくもってその通りだと思う。

しかし、いくら俯瞰的に克明な心理描写・状況描写をしても、あくまでもテーマは主観の日常であるため、エッセイという文章からは書き手の輪郭、人となりがよく伝わってしまう。

だから、魅力的なエッセイの書き手は、逢ったこともないのに魅力的な人物に思えてくる。

エッセイは、秀逸なストーリーや、ためになる情報で読み手を魅了するのではなく、あくまでも書き手の人間性にファンを作るのだ。

それだけエッセイというのは、読み手に気にいってもらえるかたちに自分を切りとって、お届けする努力が求められる。

もちろん、喜怒哀楽のバランスも重要だ。読み手も「喜」ばかりでは飽きるし、「哀」ばかりだと疲れてしまう。

ちなみに、主観の日常ではなく、「食べ物」「車」「スポーツ」など、自分以外の主役について語る文章は「コラム」だろう。

話は戻るが、なのでだれでもエッセイストになれるよ、と言うてるわけではないよ。

エッセイの間口は広いが、いざ良質なエッセイを作るとなれば、自ら内容に制限を設けることも必要になってくる。

なんとなくで構わないので、そんなニュアンスをわかったうえで「エッセイを書きたい!」と思える人なら、それはすでに「エッセイストになりたい人面接」はクリアしていると思うんだよね。

いま、表現や描写のうまいへたは置いておこう。

あと「エッセイが好き」だけでもだめだろう。

そもそも面接をクリアして、いざ「エッセイスト」と名乗れる基準はどこにあるのか。

すんげー月並みだけど、それは自分の書いたエッセイで1円でも「お金」という報酬をもらえた瞬間だろう。

「自分がエッセイストだと名乗ってしまえば、誰でもそこからエッセイストよ~!」という、あったか~い考え方もあるが、それだとエッセイを書いていなくてもエッセイストになれてしまう。

ので、名文でも悪文でも、他人が1円でもお金を支払った実績があるのなら、そこには必ず「エッセイ」が物理的に存在することになるので、そういった「証拠」みたいなものも踏まえて、そう定義づけたいものだ。

個人的にはね。

だって、たまーにnoteで通りすがりの方から、ありがたく投げ銭をいただくことがある。そしたら、わたしもエッセイでお金をもらっているので、エッセイストと名乗れるじゃない。名乗りたいじゃない。

話が逸れたけど、本題の「エッセイストに向いている人、いない人」。

エッセイを書きたいと思うなら、向いている人。
とくにそう思ったことがないなら、向いていない人。

それでいいと思うんだけどなあ。

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