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「推し、燃ゆ」(宇佐見りん)

・先月、第164回芥川龍之介賞の受賞発表が報道されたとき、そのタイトルがすごく現代的だったことが印象に残っていた。


・「推し、燃ゆ」

・”推す”とは、アイドルだったり、タレントだったり、俳優だったり、自分がファンである人物を応援することを指す。”推し”とは応援している人物そのものを指す。


・タイトルがとても印象的で記憶に残っていたことに加えて、立ち寄った本屋さんでもやはり大きく宣伝されていたので、読んでみることにした。


* * * * *


・主人公の高校生「あかり」は、男女混合5人組のアイドルグループ「まざま座」のメンバーの1人、「上野真幸(うえのまさき)」を推している。
・そして物語は、あかりの”推し”である上野真幸がファンを殴ったと報道され、炎上するところから始まる。
・本作は、あかりの推しである上野真幸が炎上事件を起こしてからの約1年間のあかりの生活を、あかりの視点で描いている。


・全体を読み終えて私が感じた作品の特徴は大きく2つある。以下、その2点を話の軸にしてつらつらと書き連ねる。


・まず1つ目に感じた特徴は、かなりコアなファンの行動、いわゆる“オタク文化”がかなりリアルに描かれていることだ。


・推しの”推し方”も人様々で、本作では例えば「推しのすべての行動を信奉する人。善し悪しがわからないとファンとは言えないと批評する人。推しを恋愛的に好きで作品には興味がない人。逆に作品だけが好きでスキャンダルなどに一切興味を示さない人。」などの例が挙げられている。


・その中であかりの関わり方は、「作品も人もまるごと解釈し続けること。推しの見る世界を見たいと望む」こと。
・あかりは自身のブログを持っており、推しの動向について自分の思うところを日々綴っている。
・推しがラジオに出たら、そのやり取りを全て文字に書き起こし、ブログに感想とともに掲載している。


・さらには、ラジオ、テレビなど、あらゆるメディアでの推しの発言を文字に書き起こしたものは20冊を超えるファイルにファイリングしており、CD、DVD、写真集などのグッズは保存用と鑑賞用と貸出用に3セット購入し、放送された番組は録画して何度も見返す(そしてブログに文字起こししたものや感想を書き綴る)、という熱の入れよう。
・ここまで熱の入ったブログであるから閲覧数はそこそこ、「あかりさんのブログのファンです。」というファンまで現れている。


・余談だけど、ブログをはじめ、インターネットでの活動を本名で行うというのは結構な自信と勇気があるなと感じた。


・そのほか、たくさんの推しグッズを並べて作る”祭壇”と呼ばれる文化や、全身を推しのイメージカラーのファッションで固めて”参戦”するライブ、推しの誕生日にケーキを買ってお祝いする誕生日パーティーなど、今風な”推し方”が多く描写されている。そしてそのいずれもを、たとえどんなにコアなものであろうと、主人公あかりは実践している。


・私も何名かの推しがいて、推しているから分かるのだけど、誰しもがいきなりこうした推し方になることは珍しい。アイドルであれば、最初はただ出演している番組を追っかけたり、SNSをフォローしたりといったお金の掛からない推し方から始まることが多いのではないだろうか。
・そして初めてグッズに手を出したとき、あるいはライブ配信のサービスで投げ銭をしたとき、つまりは目に見えてわかるお金の落とし方(界隈では”貢ぐ”という表現をするときがある)をしたとき、「ついに私も”こっち側”に来たか」、「ラインをひとつ超えた」という感覚を覚えるのではないか。


・”推し方”はのめり込むほどに感覚がアップデート(麻痺?)されていき、行く末には祭壇を生み出したり、全身コーデを生み出したりする。
・まるで競っているかのように、年々、様々な新しい推し方が現れるけど、それらの推しの行動には、競争意識やほかのファンの存在はあまり意識されていないことが多い。つまり、「自分以外のファンに推し方で負けたくないから私はここまで注ぎ込む」という意識で推し方が過激になっていくのではなく、ただただ、「推しの要素を自分自身に、あるいは生活に取り入れたい」という欲求ゆえに推し方が加速してゆくことが多い。


・あかりの推し方は、あらゆる推し方の中で最も深度の深い部類に間違いなく入ると思うけど、やはりあかりも他のファンと競っているつもりはなく、「作品も人もまるごと解釈し続けること。推しの見る世界を見たいと望む」スタンスに基づいて推している。


・あかりの推しへの推し方が、あかりの中での上野真幸の重要さ、命の中心的存在であることを象徴していると思う。

* * * * *


・次に私が感じた作品の特徴は、物語がとてもコンパクトな環境で進んでいくことだ。
・描写されているシーンで最も多いのはあかりの自室で、あかり個人が”推し”のことを回想していたり、”推し”のライブ配信やメディア出演を観ているシーン。次は、自宅で家族とやり取りしているシーンであろうか。そのほか、バイト先の居酒屋での出来事(バイトの理由は当然、推しを推すための活動費である)などが描かれ、あとはわずかに学校生活でのことや、推しが出るライブでのことが描かれている。


・あかりは高校生であるから、普段は学校で過ごす時間が一番多いかと思いきや、学校での振る舞いはほとんど描かれていない。というのも、あかりは推しを推すことには全身全霊を注げるけども、それ以外のことには、ただの日常生活を送ることでさえ、かなり不器用であることが描かれている。
・学校は特に理由無く休みがちで、行ったとしても保健室の常連。バイトはしているものの、作業の優先順位をつけてマルチタスクをこなすのが苦手で、とても手際よくこなせているようには思えない。
・「保健室で病院の受診を勧められ、ふたつほど診断名がついた」と描写されているから、実際に注意欠陥の類いの障害があるものと想像する。薬をもらいに通院しているものの、予約を何度かバックれるうちに病院にも結局行かなくなってしまう。


・この事実はあかりにとって重いコンプレックスのひとつになり、作中であかりの行動が描かれる度に、私はその行動の背景に、この不器用さが影のようにまとわりつくように感じた。ただ普通の日常生活を送るための行動の描写であっても、あかりにとっては重労働であることを想像させる。


・そんな内向的なあかりであるから、物語のシーンも自分と距離の近い環境に限られ、コンパクトになる。


・しかし、物理的には行動範囲が限られているあかりだけど、あかりが推しである上野真幸を推しているとき、あかりの精神はどんな場所にいるよりも自由で縦横無尽な感性を得ているように思う。
・推しの存在はあかりにとって、閉鎖的で”重い”(本作ではあかりの心情の表現に”重い”という言葉が印象的に繰り返し用いられている)物理的な現実から離れさせてくれて、あかり自身を内面から自由にさせてくれる存在であるように感じた。
・事実、あかりの運営するブログにファンが付いているように、推しを介せば、あかりは通常の人よりも優れた能力を発することができている。


・推しである上野真幸は、あかりにとって人生の全てと言っても過言では無い。推しを推すことで、あかりは唯一「自分にも全身全霊で打ち込めることがある」と自分を受け入れることができる。あかりは推しのことを”背骨のようだ”と表現している。


・現実のあかりの行動範囲の狭さと、推しを推しているときのあかりの感性の力強さと自由さ。この2つのギャップの差が大きければ大きくなるほどに、私はあかりの生への不器用さと不安定さを感じてしまう。

* * * * *


・推しを推すことが人生の全てになっていたあかりにとって、推しの炎上はただならぬ事件であった。それでもあかりは推しに対して怒ることはなく、推しを推し続けた。


・炎上の事件からしばらくして、アイドルグループ「まざま座」の人気投票が行われた。あかりは当然人気投票に参加し、迷うことなく推しである上野真幸に投票した。ブログでも上野真幸への投票を呼びかけた。
・しかし当然ながらというか、残念ながら、上野真幸の順位は最下位の5位。このことがあかりの”推し方”をさらにエスカレートさせる。「もう生半可には推せない。」と、あかりは決心する。


・これまで推しである上野真幸のグッズは漏れなくチェックしてそのうちいくつも購入していたあかりだが、ついには古今東西の中古で売られている上野真幸グッズまでも買い集めるようになる。
・推しの誕生日にはワンホールのケーキを買い、1人で完食しようとして無理に食べ、慣れない暴食に嘔吐する。


・経済的にも、身体的にも、あかりはわざと自分を追い詰めて削ぎ取ることに躍起になり、きつさを追い求めている自分を自覚しながらも、その行動を止めることができなくなってゆく。
・あかりは自分が苦しくなればなるほどに、「自分にも一生懸命に打ち込むことができることがある」「自分の価値がそこにある」ということを感じている。

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・読んでいて可哀想なまでになってくるあかりの振る舞いだが、この行きすぎた推し方を止めてくれる出来事が、物語の終盤に発生する。


・「推しの結婚、芸能界引退」である。


・現実世界においても、芸能人の結婚や、芸能界の引退は大ニュースになる。そういうタイミングでSNSを見てみると、「おめでとう」と祝っているファンもいれば、仕事や学校を休んでしまうレベルでショックを受けてしまうファンも多くいることがわかる。


・「まざま座」の記者会見が行われ、そのことが上野真幸本人から告げられたとき、あかり自身はそのどちらでもなく、ただ、体も精神も放心状態にあった。


・「この先どうやって過ごしていけばいいのかわからない。推しを推さないあたしはあたしじゃなかった。推しのいない人生は余生だった。」と、あかりは内心で困惑する。


・これまで、自分で自分を傷つけることに躍起になっていたあかりは、決定的に自分の推し人生を終わらせる行動を自ら取ってしまう。
・推しである上野真幸の自宅の住所は、強い悪意を持った上野真幸アンチによって既に割れていた。
・その住所を頼りに、あかりは電車とバスを乗り継いで、推しが住んでいると噂されているマンションへ向かう。そしてそのマンションのベランダを眺めているタイミングで、上野真幸の結婚相手と思われる相手が、上野真幸本人のものと思われる洗濯物を持ってベランダに立つのを目撃してしまう。


・推しがアイドルからただの人になり、あかりは自分にはもう推しを推す手段が無いことを悟る。


・形あるものはいつか必ず壊れて無くなる。その残酷な真実を本作では「推しの引退」という事件で描いている。
・しかし遅かれ早かれ、この”推しとの決別”は、あかりを含むすべてのファンはいつか直面しなくてはいけない、避けようのない問題である。


・あかりは推しのいなくなった後の自分の人生を「余生だ」と言っていたが、まだ高校生のあかりにとって(既にこの時には高校を退学してしまっているのだが)、この余生はあまりに長すぎる。


・その長すぎる余生のことを思ってしまったからだろうか。本作のラストのあかりの語りは、私の解釈では「先のことを考えるのをやめて、四足動物のように近視眼的に、目の前にあるものだけを機械的に処理して生きていく」ことを決意したように思う。


・機械のように生きることは、そうでない生き方をしている人から見れば、なんの面白みも無い人生のように感じてしまう。でも、あかりのように生きがいを失った人間からすれば、余計な不安が思考をよぎることなく時間を流すことのできる、ひとつの救済措置なのかもしれない。


・「推し、燃ゆ」では、自分のコンプレックスを自覚しながらも懸命に自尊心を保とうとする1人のファンの生涯が描かれている。生涯というのは、あかりの上野真幸のファンとしての生涯である。


・推しを持つ人は多い。対象が人物でなくても、スポーツだったり、音楽だったり、仕事だったり、何か自分が本気で打ち込めるものを持っている人は多い。全ての推しを持つ人たちにとって、本作は共感と葛藤を呼び、自身と推しとの付き合い方を見直すきっかけになるのではないか。


・著者の宇佐見りんさんは1999年生まれの現在21歳。本作は2作目の作品だけど、現在は3作目を執筆中とのこと。
・次回作では一体どんな人物の人生が描かれるのか、私はいまから心待ちにしている。


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