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女性の表現は誰のもの? 「似非フェミAV」発売中止!?をめぐる問題【後編】

月島さくら氏と稲森美優氏が主演のAV、『似非フェミニストの闇(媚薬)堕ち快楽性交!! 〜現役AV女優に起こった惨劇〜※』まわりが、発売前から騒がしい。
(※以下、「似非フェミAV」と記載)

前編では騒動の経緯と、

  1.  作品が発売前(全編公開される前)からクレームによってキャンセルされること

  2. AV新法をめぐる因縁

  3.  月島・稲森両氏を「男の傀儡」「自己決定による行動ではない」と扱うパターナリズム

  4. 「パロディAV」は「デジタル性暴力」なのか?

  5. 月島・稲森両氏の振る舞いを「エロだから」「お行儀が悪いから」と切り捨てることがはらむ権力

  6. (法的係争になるか否かはおいておいて)AV女優が「喧嘩上等」とばかりに自分たちの技術とプライドをかけて立ち向かうことについて

という6つの論点を述べた。
後編では、上記論点を順に説明していく。


【1:作品が発売前(全編公開される前)からクレームによってキャンセルされること】

これに関しては、表現の自由の観点や、社会や企業の経済活動における「公正さ」担保の観点から問題があります。

大前提として、人間には作品を作る自由も、批判する自由もあります。作品が議論を喚起した結果、批判者が発売中止を求める行動を取ることも、「表現の自由」の範疇です。
ただし、作品に対する評価は、「作品を見た上で」行われて然るべきであり、今回のように発売前(作品が全編見られる状態ではない)から積極的にクレームを入れることを呼びかけることは批判ではなく、作品の「キャンセル」そのものが目的の行動だといえます。

作品を作る側は批判される覚悟を持つ必要がありますが、批判する側も同様に、自分が行う批判に対して責任を持つべきです。作品を見る前から「販売・流通側にクレームを入れること呼びかける」ことは批判の範疇を超えた攻撃であり、場合によっては威力業務妨害に問われる可能性もあります。

もちろん、「似非フェミAV」が、出演者が出演強要の被害を受けた上で作られたものであったり、出演者が発売中止を求めるのであれば、販売を取り消すことは妥当であり、その仕組もあります。ですが、今回の「似非フェミAV」は、主演女優2人が積極的に宣伝・紹介を行っているものであり、メーカー側も「圧力」がかかりリリース難であるとしていますので、その可能性は極めて低いでしょう。

販売・配信サイトは企業の経済活動であるがゆえに、消費者のクレームに弱い傾向はありますが、オンラインのプラットフォームは今や多くの人にとって生活を支えるツールのひとつになっており、そうであるからこそ、適法の範囲内で公正な運用が行われるべきではないでしょうか。
あるクレームが「正当性があり対処すべきものなのか」「単なるカスタマーハラスメントなのか」はもっと慎重に判断されてほしいと個人的には願っています。

【2:AV新法をめぐる因縁】

さて、ここがいちばん一般層からはとっつきにくい、ごちゃごちゃしている問題なのですが、公開されたサンプルを見る限り、「似非フェミAV」がパロディした事件と目されるのは、「190万円が経費と認められなかった東京都の若年被害女性支援に関する委託事業」であり、その委託事業の団体名はColabo、代表は仁藤夢乃氏です。
また、サンプル動画で象徴的に繰り返される「福祉に繋いであげます」「福祉に繋げてやるからよ」という発言の元ネタは、AV新法可決後の2022年8月17日、新法によって、AV女優の仕事減少や販売遅延、それにともなう収入の減少が起こっているタイミングに、ジャーナリスト・郡司真子氏が、性売買経験当事者女性を支える活動を行っている「女性人権センターKEY」のURLとともに投稿した「AVのお仕事減って困っている方は、福祉に繋がることができます。」というツイートであると考えられます。

ちなみに、郡司氏がURLを添付した「女性人権センターKEY」を運営するのも、仁藤夢乃氏が代表を務める一般社団法人Colaboです。

月島さくら氏・稲森美優氏と仁藤夢乃氏や郡司真子氏には、2022年6月15日に賛成多数で可決・成立した「AV出演被害防止・救済法案」、いわゆる「AV新法」をめぐって因縁があります。

月島氏・稲森氏も、仁藤氏・郡司氏も、実はこの「AV新法」には批判的な立場ですが、その批判の方向性が真逆です。

仁藤・郡司氏は「AV新法」成立前に反対アクションを行い、月島・稲森氏は「AV新法」成立後、新法がAVの出演者、クリエイター、事業者など当事者抜きに決められたこと受け立ち上げられた「一般社団法人siente 」で、職業差別解消のための啓発や広報活動を行っています。
仁藤氏がパロディAVに関するツイートで「Colaboに対する嫌がらせ目的だと思われる自称支援団体を作ったり」と評しているのは、この「siente」のことだと思われます。

仁藤夢乃氏や郡司真子氏が行った「AV業界に有利なAV新法に反対する緊急アクション」の主張の骨子は以下の2点です。

  1.  AVでのいわゆる「本番」行為を売春防止法上の売春にはあたらないものと位置づけていることは「性売買」を合法化するようなものであるため反対

  2.  AVに出演するのは現状の男女不平等な社会で「性売買に追い込まれる」ような女性たちなので、出演女性本人が「自己決定によって出演した」といっても、性的自傷やトラウマの再演、貧困の結果仕方なく選んでいる可能性があるのであてにはできず、弱い立場で生きる女性に自己責任を押し付けること

であるとして、AV新法に反対しています。
紫色のプラカードやうちわには、「性売買合法化反対」と書かれており、

「性交」を金銭取引の対象とするように読める法律ができ、より多くの女性を性売買に追いやる道が切り開かれるかもしれません。

https://x.com/StopAVlaw/status/1529099557585362944?s=20

と懸念していることからわかる通り、AVを「性売買」ととらえ、「売春防止法上の売春」と同様に扱われるべきであるとし、「AV新法」をAV業界や購買者目線で作られたものであるとしています。

AV業者がもしも「将来にわたって取り返しのつかない重大な被害が発生する恐れがあること」を丁寧にしっかりと書面で説明したとして、出演交渉を受けるのは男女不平等社会の中で性売買に追い込まれる女性たちである。AV業者との決して対等でない関係性の中で同意せざるを得ない状況にあっても、「本人が同意した」ということで「本番行為」も契約に入れられてしまう。つまり、この法案では実際に今も起きているそのような被害が防げず、それどころか女性たちに自己責任を押し付けるものになっている。

https://imidas.jp/bakanafuri/3/?article_id=l-72-001-22-05-g559

精神科医やトラウマ治療の専門職からは、
出演する人の多くは、
複雑性PTSDを発症して、性的自傷、トラウマの再演を搾取されていると指摘されています。
性的自傷、トラウマ再演を発症した人が搾取されているのに、AV新報法案のままでは、全く救われません。
むしろ被害者が増えてしまいます。
自分でえらんだ自己責任だろ?と、見捨てられてしまいます。
しかし、そこには、自由意志も主体的選択もありません。

https://x.com/StopAVlaw/status/1528295541129392128?s=20

仁藤氏も郡司氏も、AV女優の自己決定をほとんど認めず、彼女らを男性の傀儡として操られるか、貧困ゆえに仕方なく従事するか、加療やケアが必要な状態であるにも関わらず放置されているような人々であると主張します。

どのような職種であれ、「生きていく生活資金のため」に従事する人は多いですし(ほとんどであると言っても過言ではない気もします)、加療やケアが必要な状態であるにも関わらず放置されることは、AV業界に限らず、すべての人にとって望ましくないことです。問題なのは「加療やケアが必要な状態であるにも関わらず放置されている」ことなのであって、さらにいうと「AV業界」に一般化・普遍化できるほど「加療やケアが必要な状態であるにも関わらず放置されている」人がいるか否かが問われます。

トラウマ再演を発症した人が性的自傷としてAVに出演して傷ついている事例があったとしても、それは個別にケアされる必要があるものであり、ただちに業界全般に一般化することはできないはずです。

対して、もう一方の月島氏・稲森氏やsienteの、「AV新法」に対する見解は大きくは以下の2点です。

  1.  AV新法がAVの出演者、クリエイター、事業者など当事者へのヒアリングが一切なく、一方的に決められたこと。準備期間がなく交付、施行されたことの不当性

  2.  AV新法により、いわゆるAVを販売するにあたり、契約から撮影1カ月間、撮影から販売4カ月間に期間を開けることを義務が設けられ、出演者や制作者の支払い遅延が起きること。AV撮影や公表に納得をしていてもこの期間が設けられること

月島氏・稲森氏やsienteは、自分の表現・経済活動として自分の意志でAVに出演している出演者やクリエイター、彼らと適切な契約をして制作・販売・流通などを担う事業者が不当に差別されたり権利を侵害されることを防ぎたいという視点で活動しているのだと思われます。

本来、「自分の意志でAVに出演している出演者が不当な差別を受けたり不利益を被らない」ことと、「強要被害を受けた被害者が適切に救済・ケアされること」は両立可能ですし、前者にとって後者はいっそう望ましい条件でしょう。
しかし、後者寄りの仁藤氏郡司氏が「AV」そのものを「性搾取」や「売春防止法上の売春」であると批判したり、AV出演者には自由意志も主体的選択もなく、加療やケアが必要な状態であるにも関わらず放置されている人であるかのような主張を行うため、両者は噛み合いません。

さらに、郡司氏が「福祉に繋がることができます」ツイートを投稿したのは、AV新法が準備期間がなく交付、施行されたことの影響を受けて、直後に予定されていた多くのAV撮影がバラしになり、女優をはじめとした多くのAV関係者は大きな混乱と支払い遅延に見舞われた直後の2022年8月でしたから、「当事者の困難」を上から目線で嘲笑っていると捉えられ、このツイートはいわゆる「炎上」を起こし、意図的にAV女優の仕事を減らしてこの福祉団体へマッチポンプしているのでは?という疑惑さえでました。

そして、「炎上」の数日後の8月20日に郡司氏は、都内在住の富豪の70代、目をつけたAV女優を呼び出し、 AV女優を看板にせずに辞めてから福祉や教育事業で成功した女性と引き合わせ、意思の固まった女優に事業計画をかかせ4桁投資(数千万円だと思われる)し、AVから足抜けさせる「AV辞めさせ達人」なるM氏がいるという話をTwitterに投稿しました。


AV辞めさせ達人に関する投稿のアーカイヴ

https://archive.md/2022.08.20-120717/https://twitter.com/Koiramako/status/1560943860582297600

「起業ガムリナタイプの人には、一般の優れた就職の配慮をしている。※」(※原文ママ)「医療ケアが必要なタイプは正しい医療に繋いでい」る、「たまたまM氏の目に留まったことがこの上ない幸運」だ。と、AV女優が謎の老人に呼び出されることを肯定します。

「AV辞めさせ達人M氏」のくだりは、はっきり言って、都市伝説やネットミームのようなふざけた眉唾話であり、仮に事実であったとしても、「特定の好みのAV女優を呼び出して説教をたれ、札束を突きつける形(数千万円規模の投資)でAV女優ではない道を選ばせる」という行動は、パパ活的な上下関係を惹起させるものですし、「福祉に繋がることができます」ツイート同様、上から目線のものです。

弁護士や医者、学者など「社会的ステータスが高い」と思われているような仕事についている人に対して、「(弁護士や医者、学者などの)お仕事減って困っている方は、福祉に繋がることができます」などという人がどれくらいいるでしょうか?「AV」を自分の望んでついた仕事に置き換えて考えたとき、「プライドが傷つけられる」「不愉快」だと思わないのでしょうか。
意識的か無意識かはわかりませんが、AVという仕事を下に見ているからこそ、アドバイスに見せかけた侮蔑を行うことができるのです。その発言が炎上しているときに、火に油を注ぐかのように、都市伝説やネットミームのようなふざけた眉唾話を引き合いに出して、AVより良い選択肢であると紹介するのですから、「AV女優を見下し」「職業差別をしている」と目されても仕方ありませんし、個人的にもAV関係者に対する職業差別発言であると思います。

さて、ここまで読んだ上で、改めて「似非フェミAV」のサンプル動画を見てみます。

貧困女性自立支援団体・一般社団法人connbe(コウビ?と発音しているように聞こえる)代表に扮する月島さくら氏(役名・月島さくら)が、AV女優役であると思われる稲森美優氏(役名不明)に対し、「AVは性搾取なんですよ、わかってますか」「あなたのような方を救う活動をしているんです」「あなたがたは被害者なんですよ、大丈夫、私があなたを福祉に繋いであげます」などと問いかけますが、一般社団法人connbe代表はどうやら善人ではないようで、「不正会計・公金不正受給の疑い」をかけられ、闇(媚薬)堕ちするというストーリーが展開されています。

AV新法をめぐる価値観の対立と、新法成立後、AV関係者が困難な状況下に置かれた中で発せられた郡司氏のツイートなどの状況を鑑みれば、
「私があなたを福祉に繋いであげます」「福祉に繋げてやるからよ」という発言が、単なるパロディだけでない、AV女優が職業差別されたり主体性のない存在として扱われることの風刺であるということがわかるはずです。

【3:月島・稲森両氏を「男の傀儡」「自己決定による行動ではない」と扱うパターナリズム】

仁藤氏は、月島氏・稲森氏の行動を、「バスカフェに嫌がらせで写真を撮りにきたり、Colaboに対する嫌がらせ目的だと思われる自称支援団体を作ったり、SNSでの発信などで妨害行為」と評したうえで、彼女らを業界や男性の利益・利権のために利用されて矢面に立たされている、つまり、自分の意志で行動・活動していない人物であるとしています。

監督やプロデューサーが男性であったとしても、アカデミー賞やオスカーで賞を取った俳優に対し、「演じさせられているだけ」「自己決定による行動ではない」と言う人はいるでしょうか?
AV女優の仕事は演技をすることであり、無理やり役を強要されているわけではありません。映画やドラマの俳優は「演技の能力がある人」として扱うのに、それがAVだととたんに演技をする主体性や自我がないことにされてしまうのは不思議です。

AV女優として演じる仕事も、sienteとしての活動も、仁藤氏の活動を批判することすらも、「男の傀儡」であり「自己決定による行動ではない」とすることは、 女性の能動性や主体性をないものとみなし行動や意思を軽んじる女性に対する保守的なパターナリズムであり、彼女たちの人格への軽視です。

全編見ることができていないのでわかりませんが、「似非フェミAV」を仁藤氏が不愉快に思ったり、場合によっては「名誉毀損」や「名誉感情の侵害」であると感じる可能性はありますし、異議申し立てをする権利もあるでしょう。

個人的には、ピンク色のスーツを着た月島さくら氏は「月島さくら」役として出演しており、特定団体の特定人物を演じているようには見えませんでしたが、「AV新法」をめぐる対立や「福祉に繋がることができます」発言に対する一種の社会風刺であるとは感じました。

【4:「パロディAV」は「デジタル性暴力」なのか?】

伊藤和子氏はツイートにて、「似非フェミAV」を「フェミニストへの見せしめの暴力」と位置付けていますが、AVはフィクションであり、全編見ているわけではないのでなんともいえませんが、投稿された部分を見る限りでは、「似非フェミAV」には仁藤氏の写真も動画も使われていません。

インドでフェミニストが集団レイプされた「ビシャカ事件」という事件を特定することはできませんでしたが、実在の性暴力事件と風刺AVを同列に扱った上で、ネットやSNSを通じた性的な画像・動画の要求、盗撮や性的な画像・動画の拡散被害のことを指す「デジタル性暴力」と位置づけることは妥当なのでしょうか
「似非フェミAV」を仁藤氏が不快に思ったとしても、仁藤氏の写真も動画も使われていないのであれば、盗撮や性的な画像・動画の拡散被害とはいえないのではないでしょうか。

伊藤氏の見解は「被害」の拡大解釈であり、拡大解釈の結果、実際のレイプ事件や、実際の性的な画像・動画を拡散される被害が矮小化されるおそれもあります。

【5:月島・稲森両氏の振る舞いを「エロだから」「お行儀が悪いから」と切り捨てることがはらむ権力】

さて、「似非フェミAV」を仁藤氏が不愉快に思う可能性は十分にあるでしょうし、月島氏稲森氏がColaboバスの前まで行って記念撮影をしたり、フランクフルトを持ちながら扇情的に「似非フェミAV」を宣伝する様は、一般的に「お行儀が良い」ことであるとは言えないでしょう。

しかし、「AVは性搾取である」と、業界ごと批判されたり、職業をバカにされたり、主体性なく男性に従属する存在として扱われても「お行儀よくしていろ」というのは酷でありますし、月島氏や稲森氏はやみくもに暴れているわけではなく、「AV」というプライドを持って従事している仕事・表現を通して風刺しています。

「似非フェミAV」が発売されなかったとしても、困るのは制作者たちだけだろうと考えたり、誰かが不快になる可能性があるものはそもそも発売すべきでないと考えている意識が高い方もいらっしゃるかもしれません。
前編の最後に、エロやオカルトは、近代以降の社会で「ないものとして存在する」ことが通常と位置付けられており、周縁化されているからこそ、不当に排除されることに抗議をしてもまともに聞き入れられない傾向があると述べました。

AV自体が、エロくいかがわしく、「なくなったら困る!」と大声で主張しにくいものとして社会に位置付けられているのですから、「お行儀がわるいから」と知らん顔して黙認する人が存在すること自体は、仕方がないのかもしれません。
自分たちを「きれいで正しい側」に位置づけるために、社会の内側から、いかがわしく周縁的な文化を排除したり否認したりすることは、少なくともリベラルではないなと思いますが。

【6:(法的係争になるか否かはおいておいて)AV女優が「喧嘩上等」とばかりに自分たちの技術とプライドをかけて立ち向かうことについて】

そうした社会状況の中で、彼女たちが自分たちの作品を通して批評・風刺する姿は、「お上品」ではないかもしれないが、表現者として、女性として、肝が座っており、もっというと、「お上品」ではないからこそ、「女性の表現の多様性」の上では重要だと考えています。

エレイン・ショーウォルターの『女性自身の文学』という本があります。イギリスの女性文学・フェミニズム文学の歴史を振り返り、女性の自己認識がいかに表現されてきたかを詳細に紐解くこの本の中には、ヴィクトリア時代後期に栄えた〈フェミニスト〉たちの文学の歴史が描かれています。
節制を重んじ、自分たちの自由より男性の自制を要求する傾向があり、「女の精神の深い共感の中に精神的・社会的進展の可能性を求め」た〈フェミニスト〉の作家たちは、禁欲・モラル・不平等な価値観や描写の自己検閲によって、徐々に作品を残すことができなくなっていきました。

また、この本には、1950年代に、エリザベス・ハードウィックという女性作家が「女性作家が男性作家に対し不利である点」として述べた言葉が引用されています。

女性の著作にいささか限界があるように見えるとしても、それが女性の心理面での欠点のためだけと思わない。(中略)経験とはただロースクール通ったり、男性が大勢いる応接間で思うことを正直に言う勇気を持つこと以上のものなのである。つまりそれが残忍な行為、肉体的な拷問、想像を絶する不潔さに耐える特権でもあり、または、ボズウェルのように、ウエストミンスター橋の下でみすぼらしい売春婦を拾ってみたいと願う特権でもあるのだ。……結局、女性の不利が決定的なのは、この経験の問題である。これがどのように徹底的に変えられるかは、到底わからないことだ。

エレイン・ショーウォルター『女性自身の文学』

この問題意識は、現代においてもクリティカルで、色褪せていません。
現代のフェミニズムでは「ガラスの天井」という言葉がよく使われ、女性が男性より高学歴であったり高い地位につくことが言祝がれる一方で、高学歴な女性たちが、お上品ではない女性たちを好き勝手に言うことは許容されています『月曜日のたわわ』が炎上したときや、埼玉の水着撮影会が中止されたときの抗議を思い出してみてください。

「露出度の高い女性」や「巨乳の女性」は、男が欲望するステレオタイプな表象であり、人格や主体性がある存在として描かれていない女性蔑視であると言い放たれたり、女性の人権を尊重していないとされたり、自我がなく男性の言いなりになっている被害者であるとされてしまうのです。

「似非フェミAV」は、たしかに「お上品」ではありません。風刺的で、お下品な挑発表現でもあると思います。
でも、だからこそ、「女性の表現の多様性」、「女性の可能性」にとって、重要な表現活動であるのだと考えています。


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