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雨とピンク

雨が降ってきた。改札を抜けて、外を歩きながら急いで傘をさす。傘の開く音があちらこちらから聞こえてくる。その音に引っ張られて、幼稚園の頃の記憶がひらく。


あの日も雨が降っていた。朝は晴れていたのに、帰る時間になって突然雨が降ってきたのだ。


「せんせい、さようなら。みなさん、さようなら」

先生のピアノに合わせて、みんなで帰りのおうたを歌った。その間にも少しずつ雨が強くなっていく。

同じ方向に帰る子たちと一緒に乗る幼稚園バスを待っている間に、雨に続いて雷までゴロゴロと鳴り始めた。

朝、半分眠りながら乗り込んだ、キリンの絵が描かれたバスの中。気がついたら、お花模様のお気に入りの傘が腕にかかっていた。お母さんがわたしに持たせたのだろう。その傘をさして、お迎えのバスを待つ。

お母さんが傘を持たせてくれてよかった。朝は晴れていたから、傘を持っているのはわたしだけで他の子はみんな持っていなかった。天気予報を頻繁に確認しているお母さんのおかげで、雨に濡れずにすんだ。

雨はきらい。冷たいし、濡れるし、じめじめとした空気がまとわりついて気持ちわるい。

わたしの傘に群がってきた他の子たちを花柄の小さな傘に入れてあげながら、わたしの傘なんだけどな、と思った。みんなが入ってくるせいで、わたしの肩が傘からはみ出して冷たい。でもちょっとだけ人気者になれた気がして、まんざらでもなくて。


どんどん大きくなる雷の音に他の子たちが怯え始めたとき、先生が様子を見に外へ出てきた。すぐに傘をさす先生の姿。先生の傘はおとな用だから、とっても大きい。赤くて大きな傘。

赤い傘に見とれている間に、わたしの傘が静かになっていた。先生の姿が見え始めた途端、みんないっせいに先生に向かって駆け出して、先生に抱きついていた。

「カミナリこわいよー!」「せんせい、ぼくもいれてー!」「わたしもいれて」「ずるい!あたしも!」「ボクもいれてよ」「いたい!おさないでよ!」

わーわーきゃーきゃーと、一気に騒がしくなった先生の傘。一気に静かになったわたしの傘。

わたしは雷は怖くなかったけど、みんなの真似をして「こわいよー」と言いながらちょっとだけ先生に抱きついてみたくて、みんなと同じことをしてみたくて、赤い傘に近づいた。

その途端、先生にじゃれついていたうちの一人の女の子がわたしの足音に気づき、パッと振り返ってキンキンする声で言った。

「あんたは傘もってるんだからいいじゃん!!」

ムッとした顔と口。外国の果物が描かれた絵本で見たドリアンみたいにトゲトゲした声。それに見合わない、おとなびた眉といじわるな目。

わたしが仲良くしている男の子のお姉ちゃんだった。ひとつ上の年長組のお姉ちゃん。朝はわたしの次にバスに乗ってきて、帰りはひとつ前で降りる女の子。わたしの友達である弟を連れている姿を見たことがある。

雷の音と騒いでいる他の子たちの声で、その子の声はわたしにしか聞こえていないみたいだった。先生も他の子たちの相手をしていて、それに気づいた様子はない。

「……うん、そうだね」

わたしは気丈にそう言った。ちょっとだけ微笑んでもみせた。

そっか。傘を持っているわたしは、先生に抱きついちゃダメなんだ。先生に抱きつけるのは傘のない子だけなんだ。

手に持ったお気に入りのはずの傘が、ちょっとだけ嫌いになった。

わたしの返事を聞いて、満足そうに先生へと向き直る女の子。

その瞬間を、わたしは見逃さなかった。その子の唇が、笑顔と呼ぶにはいじわるすぎる形に吊り上がるのを。そして「きゃー!カミナリこわいよー!」と先生に抱きつくときには、もう元の無邪気なこどもの顔に戻っていたのを。


大人用の傘をさすようになってもう何年も経つ今でも、雨は苦手だ。冷たい雨の中を歩くだけで憂鬱な気持ちになる。天気が人の心を左右するというのはどうやら本当らしいと、最近実感するようになった。


雨は嫌いだ。冷たいし、濡れるし、じめじめとした空気がまとわりついて息苦しくて、溺れそうになる。


雨が嫌いだ。

もう名前も顔も声も思い出せない、あの女の子。あの子の吊り上がった口の形と唇のピンクの鮮やかさが、記憶に痛いから。

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