見出し画像

映画版『ノルウェイの森』の話

▼以下ネタバレ注意

つい先日、トラン・アン・ユン監督の映画版『ノルウェイの森』を観た。

原作は1987年に発売された村上春樹のベストセラー小説であり、当時は「これまでに最も売れた単行本」として社会現象になったようだ。

しかし、これほど好悪の分かれる作品も珍しく、村上春樹ファンの間でも「あの作品がベストだ」という人と「あの作品だけはちょっと……」という人が両方いたりして、なにか読者に強い働きかけをせずにはおかない作品なのだと感じる。

そんな問題作の映像化とあっては、普通の作品の映像化にまして監督の手腕が問われるだろうが、果たしてその出来はどうだったのだろうか。

※※※

差し当たっては、参考までにFilmarksの評価を見てみよう。

『ノルウェイの森』(2010)
〉〉平均2.9(2024/04/21時点)

うーん、低い。

レビューも見てみると、好意的なコメントもある一方で、笑ってしまうぐらいボロクソに書かれていたりする。

村上春樹には過激なアンチも多いので、この評価に対してもいささかの補正が必要だろうけれど、それを差し引いてもなお低い。

実際に映画を観てみて、それは頷けることでもあった。

もともと原作は上下巻に分かれたそれなりの長さの小説で、登場人物も多く、それを2時間ちょっとの尺に収めるのだから、かなり説明不足の感が否めなかった。

おそらく映画だけを観た人からすれば、作中の色んな出来事がやたら唐突に感じられたのではないだろうか。

例えば、永沢さんという男が出てくる。

これは主人公ワタナベくんの学生寮の先輩にあたる人物で、顔が良く頭も良く女性にモテるが、しかし傲慢で冷淡なところがあるという複雑にして明快な男だ。

この尊大なエリート的人物がワタナベくんと親交を結ぶようになったのは、ワタナベくんがフィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』を読んでいたところにやってきて、ワタナベくんの本の趣味を認めたのがきっかけである。

映画版ではこの永沢さんは登場するや否や、ベッドに寝そべって読書に耽っていたワタナベくんの手から文庫本を奪い取る。

そして表紙を一瞥しては、「時の洗礼を受けてないものを読んで時間を無駄にするな」と言ってそのまま近くのゴミ箱に放り込んでしまう。

なんだこいつは、となる。

原作でも永沢さんが似たようなセリフを吐く場面はあるのだが、それはいくらかニュアンスの違う言葉であり、ましてや人の本をゴミ箱に棄てるようなものすごい横暴はしなかった。

これは流石にちょっといただけない。

他にもそういう場面がいくつかあり、多くの観客が戸惑いを覚えたであろうことは想像に難くない。映画の出来として見れば、決して十分に完成された映画とは言えないだろう。

※※※

ただ、全面的に駄目駄目な見どころ皆無の映画かと言えば、そんなこともない。

作品の欠点を全て補うには至らないかもしれないが、それでも確かに数えられる美点のようなものがあり、だから僕はこの映画に対して、ある種の好感さえ抱いているのだ。

①映像の良さ

まず、映像が良かった。

とは言っても、僕は「映像美」というもの自体についてはかなり懐疑的である。

画面の美しさを謳う作品はいくらでもあり、大量の金と映像技術の精髄を尽くして撮られたと思われる映像は世に溢れかえっている。

だがそういった作品が、微塵も意義のある内容をもたず、どうでもいい陳腐で空疎な領域に留まっているということは全く珍しくない。

その点で、この『ノルウェイの森』の映像の美しさは、作品の根幹にあるノスタルジーを汲み取ろうとした意味ある美しさだったと言えよう。

実のところ『ノルウェイの森』は村上春樹の作品の中でも特異な作品で、それはこの物語が自伝的な側面を多く含んでいるということによる。

主人公のワタナベくんは神戸から東京へと出てきた大学生なのだが、そんな彼の姿を通じて、学生運動真っ盛りの時期に一学生として過ごした村上春樹の体感のようなものが、小説の随所に深く反映されているのだ。

そんな過ぎ去った時代への郷愁と、また過ぎ去った人々への哀惜に根ざしたこの作品には、映画版の少し褪せたような静謐な色調がよくマッチしていた。

②舞台の良さ

また、ロケーションもよく選ばれていた。

特に作中に出てくる高原、これは本来京都の山奥という設定なのだが、撮影には兵庫県の砥峰(とのみね)高原がロケ地として使われているそうだ。

鮮やかな緑を湛えながら、どこかもの寂しさもある高原の雰囲気は、小説のイメージそのままに映画を支えていた。
(ここへ遊びに行ったことのある友達も実に素晴らしい場所だと言っていた。羨ましい。)

また、他の各所のロケーションもそれぞれ丁寧に選定されていたように思う。こうした側面は実写映画のポイントとして加点されるべきだろう。

③主人公の良さ

そして何にもおいて強力だった映画の魅力として、松山ケンイチ(ワタナベ役)の名演が挙げられる。

これは良かった。マジで良かった。

どこまでが役者のパーソナリティで、どこまでが演技によるものなのかは分からないけれど、内向的でどこか超然とした春樹的な「僕」がユーモラスな解釈を交えながら絶妙に表現されていた。

特に気に入ったのが、作品のヒロインの一人である緑の、その父親の病床を見舞う場面において、ワタナベくんが椅子に座りながら視線を移ろわせ、微笑むともなしに微笑んでいた時の表情である。

原作だと、病室でこの父親と一緒に海苔で巻いたキュウリを食べる奇妙なシーンがあるのだけど、映画では見事に省かれており、その代わりこの曖昧な表情ひとつが十分に印象的だった。

また、彼の喋り方も良かった。

抑揚を抑えた低めの安堵感のある声で、たまに挟まるモノローグなども「僕」の語りとして無理なく聞かれた。(この映画では小説の文章や台詞がほぼそのままに使われていたから、きっと演者たちは常に苦労を強いられたことだろう。)

そして松山ケンイチは、会話の中に独特のテンポを持ち込んでいて、しばしば相手の問いかけに対して、返答までにかなりゆったりした間を置いてもいた。

最後の方で緑に「私のこと好き?」と聞かれる場面でさえ、即答しなければ不利な誤解を招きそうな問いであるにも関わらず、ワタナベくんは少しだけ待ってから「好きだよ」と答えていたのでヒヤヒヤしたほどである。

しかしこうした間が微細なフックになり、場面に浮遊感みたいなものを与え、さらには映画全体の時間の流れをも不思議と心地良いものにしていた。

※※※

――このように良かった所を列挙していると、なんだか映画版『ノルウェイの森』が比類なき名作のように思えてくる。

だが先述のとおり、映画としての造りが甘い部分は多々あって、それらについても思いつく幾点かを書き並べてみたい。

①ダッシュする直子

まず、物語の核であり第一のヒロインである直子についての理解が十分ではないと感じた。

彼女は幼馴染の恋人であったキズキを失ったことで次第に混乱に囚われてゆき、ついには自らも死を選ぶことになる人物である。

そんな彼女の描き方、とりわけ狂気の部分の描き方に、どうしてもステレオタイプ的な視点の介入を感じざるを得なかった。

『ノルウェイの森』の原作はワタナベくんの回想から始まるのだが、この回想の中で直子は草原を歩きながら、ワタナベに向けて古井戸の話をする。

直子いわく、その古井戸は草原のどこかにひっそりと口を開けていて、そこに落ちたら二度と出られず死を待つことになるのだ。しかしワタナベと一緒に歩いている限り、彼女は絶対にそこへ落ちずに済むのだとも語る。

それならずっと一緒にいればいいとワタナベは提案するが、それは不可能なことなのだと直子は否定し、「きっとあなたは私のことを重荷に感じるようになる」とワタナベを諭す。

この古井戸のモチーフに、狂気的な領域のメタファーを読み取ることは自然だと思われるけれども、それに加えて、ここでは直子のケアに対する考え方、病をもって人と接するということへの抵抗がよく現れている。

すなわち直子の病理とは、内部に暗く重いものを抱えながら、それを誰にも見せまいとしてさらに深みへとはまり込んでゆく性質のものなのである。

そういった機微が、映画において遺漏なく描かれていただろうか?
おそらく答えは否だった。

直子が療養所に入ってから初めて、ワタナベくんがそこを訪れた折に、二人は朝の高原を散歩する。そして直子は自分の病状について話してゆくうちに昂奮し、やがて堪えきれないように叫び始める。

叫ぶだけではなく、走る。

転けそうになりながらも、めっちゃ走る。

そして追い縋ったワタナベくんが彼女を抱きしめて宥めるのだが、これは感情の安易な見せ方だったように思う。

また別の場面でも、直子はワタナベくんに向かって叫ぶ。自分の陥った苦しみを訴えて、制御が効かなくなったように叫ぶ。そして再びワタナベくんが宥める。

これらはいずれも原作には無かったシーンであり、また同時に、狂気というもののステレオタイプを、熟慮を経ずして映像に取り込んでしまったシーンであるように感じる。

確かに心を病んで叫ぶ人はいるだろう。しかし直子が本当にそうであったかどうかを、トラン・アン・ユンは考えるべきだった。

仮に直子が叫び得たとしても、それはワタナベくんの前においてではなく、誰にも声の届かない、暗く恐ろしい彼女自身の古井戸の奥底においてではなかっただろうか。

②ちょっと不気味なレイコ

また、もう一つこの映画の良くない点を挙げるとすれば、レイコさんの描き方も良くなかった。

このレイコという中年の女性は療養所における直子との同居人であり、冗談好きで飄々とした人柄ながら、彼女自身も過去の傷を抱えており、直子とワタナベのパイプともなる重要な役割を負っている。

――はずなのだが、先述の永沢さんと同様、このレイコさんもやたらと突然に現れる。もちろん「直子の同居人で……」ぐらいの自己紹介はあるけれども、彼女の生い立ちや経歴みたいなものはほとんど説明されない。

それにも拘らず療養所で直子とワタナベの傍にずっと居るから、なんとなく不気味でさえある。

彼女が得意のギターでビートルズの『ノルウェイの森』を奏でる場面はきっと映画の山場の一つであるが、それにしても、原作を知らない人からすれば「ところで、この女性は一体何者なんだ……?」という微妙な居心地の悪さを拭えなかったんじゃないだろうか。

ところで小説『ノルウェイの森』でおそらく最も物議を醸している箇所は、そのラストシーンの間際である。

直子が死んでから、レイコさんは長らく過ごした療養所を後にして新転地である旭川へと向かうのだが、その道中に東京のワタナベくんのところへ泊まるのだ。二人は直子を悼むために個人的な葬儀のようなことを行い、その後にセックスをする。

これが激しい賛否両論(主に否に傾いているが)を生んでいる。

実際のところ、直子と緑との間で揺れていたワタナベが、そのどちらでもないレイコさんと寝るというのは、唐突な上に不実でだらしない感じが否めない。

僕としてはどちらの意見に特に賛同するわけでもないけれど、敢えて言い添えるなら、この場面においてレイコは死者と生者のあわいにいる存在、そして直子の分身のような存在として表現されている。

彼女自身は生涯の多くを京都の山奥で過ごした半ば世捨て人のような存在なのだが、けれども再び生者の暮らす下界へと降りてきて、恐るおそる第二の生を打ち立てようと試みている。
そして死んだ直子の形見である服を着て、直子と同じ場所から、かつて直子がそうするはずだったようにワタナベの元へとやってくるのだ。

直子の死によって自身も死者の側に引き込まれかけたワタナベくんが、このような中間的な存在のレイコとセックスすることには、生者の側へ帰るためのイニシエーションとしての物語的な整合性が一応は存在する。
(もっとも、無視できないレベルの道義的な問題があり、これは多くの人の嫌悪感を招いて当然だろう。)

さて映画の方に戻れば、やはり映画でもワタナベくんはレイコさんと寝ることになる。

ずっと説明を欠いていた謎の中年女性が、いきなり押しかけてきて主人公とセックスするのだから、映画の観客は相当びっくりしてしまうだろう。

原作には「あなたのところに変な中年女が転がりこんでギター弾いてたりしたら大家さんだって何かと思うでしょ?」というレイコさんの台詞があるが、これと同じ感想を少なからぬ人がもったのではないだろうか。

やはりレイコさんの人物描写には改善の余地が見られる。

※※※

と、ここまで映画の悪い点を並べてみれば、今度はこの作品が救いがたい駄作のようにも思えてくるが、僕はこうしたちぐはぐさも嫌いではない。

おそらく監督トラン・アン・ユンは全力を尽くしたのだろう。そのことは映像そのものに対して払われている注意深さからも伝わってくる。

しかし、それに反して映画全体が微妙に予期せぬ方向へと地滑りを起こしていることには、何とも言えない可笑しみがある。

映画の本道の楽しみ方とは言えないかもしれないが、それでもこの点について、僕はある種の愛着のようなものを誘われるのだ。

※※※

さて、ここまで一本の映画についてつらつらと書いてきたが、最後に僕はこの作品の監督に向けてひとつ提案をしてみたい。

それは、『ノルウェイの森』ではなく『蛍』をベースとして映画を撮ってみるのはどうだろうか、ということなのだ。

この『蛍』というのは同じく村上春樹による短編小説で、大学生になりたての主人公が、かつて死んだ友人の恋人と再会しては、また分かれるまでの一期間を描いた作品である。

お気付きだろうが、これを起点として長編の形に書き伸ばしたものが『ノルウェイの森』なのだ。

『蛍』の方には永沢さんやレイコさんといった人物は登場せず、『ノルウェイの森』の第二のヒロインである緑も登場しない。
だが、それだけにコンパクトな仕上がりであり、素早く描き留められた時代の素描のような鮮やかさが備わっている。

僕はこの短編にこそ、トラン・アン・ユン監督とのより深い親和性があると思うのだ。

濱口竜介が、一本の短編小説を基軸としつつ『シェエラザード』やその他の作品の要素を盛り込んで『ドライブ・マイ・カー』を作り上げたように、映画版『ノルウェイの森』も『蛍』を作家の想像力によって膨らませる形で撮られていたら、もっと簡潔で風通しの良いものになっていたのではないだろうか。

皆さんはどう思いますか?


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?