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暴力を許さない

ここ数ヶ月で3本、「性暴力」にまつわる映画を見た。
「SHE SAID」「Promising Young Woman」「Woman Talking」
SHE、Women、もちろん加害者が男性で、被害者が女性である。
「SHE SAID」を観た直後にも、noteで暴力にまつわる記事を書いた。

こういった作品を観るたびに呼び起こされるもの、それは「性」ではなかったはずの暴力の記憶だった。ずっと記憶に蓋をしていた男性への憎しみが悪夢のように鮮明に蘇ってくる。

最初の暴力の記憶は父だった。
私が物心ついた頃の父は異常にキレやすく、少しでも気に入らないことがあると癇癪を起こし、母に手を上げた。
「闘いごっこ」と称して弟とじゃれているかと思えば、しつこくまとわりついてくる弟を急に床に強く叩き付きたこともあった。
恐ろしい化け物だった。
私は化け物を目覚めさせないよう、神経をすり減らしながら過ごした。
父はギャンブルをやらない。タバコも母が私を妊娠した時にやめてくれた。
毎日せっせと働いて稼いで、誕生日には欲しい物を買ってくれて、大学まで行かせてくれて、今でも遠くから応援してくれている。
でも、私は父に触れることすらできない。
どうしても生理的に受けつけられない。
とても苦しい。

小学校に上がってからは男子の標的にされていた。
肥満児で人の顔色を伺う、挙動不審な私に彼らは容赦なかった。
廊下ですれ違うたびに殴られ、蹴られた
中学では給食のおかずを投げつけられて、制服が汚れたこともあった。
彼らは笑っていた。

社会人になってからもよく体罰を与えられた。
「殴るのはやめてください」と言ったことがある。
それに対するこたえはこうだった。
「ぶったり蹴ったりはしたが、殴ってはいない」

映画制作の業界を引退してからは肉体的な暴力は皆無になった。
当たり前である。このご時世、そんなものは甚だしくハラスメントであり、論外だからだ。
それでも、恐怖は消えた訳ではなかった。
以前に勤めていた会社でのこと。
それは些細な認識のずれだった。
部下の男性が急に怒り出した。
彼と向き合って座り、「なぜ怒っているのか」を尋ね、どうすれば解決するのか話し合った。彼は落ち着きを取り戻した。
しかし私の動揺は止まらなかった。
完全にパニック発作を起こした私は震えと涙が止まるまでトイレに籠るしかなかった。
部下といっても年上で、背も高く、鬼気迫る表情で敵意を剥き出しにされたことが怖かった。
後日、彼は大きな声を出したことを真摯に謝ってくれた。
それでも一瞬化け物に変わった彼の姿を払拭できなかった。
(それだけが原因ではないが)程なくして私は退職した。

「Women Talking」のオーガストのように、優しく、安全な男性は周りにたくさんいるし、彼らを心から信頼して、愛したいとも思う。
それなのに、今度は私の方がそういう人たちに敵意をむき出しにして、攻撃的になってしまうことがある。その度に深い自己嫌悪に襲われるのだった。

暴力の記憶、それは全て終わったこと。車窓の遥か後方に過ぎ去っていったもの。後で不条理さに気づいても、もうその駅で下車することはできない。

それでも、これから先もずっと、心の奥底で燃え続ける怒りの炎を絶やすことはないのだろう。

「プロミシングヤングウーマン」卑劣な男性たちへの復讐劇がエンターテイメント性を含んでいるものの、前途有望な女性の未来が奪われてしまったことにやるせなさが残る。
「SHE SAID」権力がここまで組織的に性犯罪を揉み消すことができるのか。声をあげようとする女性たちを徹底的に監視し、潰す。その執拗さに打ち勝ったNYの記者たちを心から称賛したい。


「WOMEN TALKING」フェミニズムに偏らず、これからの未来について、女性たちとこれからの未来を担う子供たちのために何を選択すべきか、本質的に掘り下げている深い作品。衝撃的だけど希望に満ちている、素晴らしい映画。これがアカデミー作品賞じゃないのはなんで??


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