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ルイス・キャロル 『不思議の国のアリス』 | ゴールデン・アフターヌーンの始まりと終わり


今回は表題の通り、英国の作家ルイス・キャロルによって書かれた『不思議の国のアリス』について紹介していく。先日、しばらく前に発注した『不思議の国のアリス / 鏡の国のアリス』がロンドンから届いた。船便だったため、数ヶ月経てようやくのご対面である。2冊共に収録内容は『不思議の国のアリス / 鏡の国のアリス』の2作品だが、左側はモノクロ版挿絵、右側がカラー版挿絵という仕様になっている。

本書は邦訳ではなく、オリジナルの英文版となる。原題は「Alice's Adventures in Wonderland」で、「Wonderland」には「不思議の国」という訳が当てられて日本では浸透した。この「Wonderland」は平凡な単語ではあるが、邦訳は実に難しい。「夢の国」「おとぎの国」「架空の国」「奇観の地」とも訳せ、解釈は複数存在する。児童書ではあるが、「Wonderland」というタイトルの英単語の概念を捉えるのに、いきなり苦戦するのである。

原文と邦訳を突き合わせて読んでみると、両者で作品のイメージや伝わり方が少々異なることに気づくだろう。共有している概念やモノの捉え方が根本的に異なるため、英語を日本語に変換することは本当に難しい。翻訳者の賢明な努力や力量が感じられるところではあるが、自分の目でも確かめ、自分なりの英文解釈をしてみることも大切である。

金箔が施された豪華装本。カラー版はインクが滲まないように挿絵が構成されているため、モノクロ版よりも分厚い仕様になっている。当初、テニエルの挿絵はモノクロだったが、後になってから彩色されたヴァージョンが出版された。

ところで、ルイス・キャロルによるアリス・シリーズは全部で4作存在するのはご存知だろうか。日本で一般的に知られているのは『不思議の国のアリス』『鏡の国のアリス』の2作だが、『地下の国のアリス』『子ども部屋のアリス』という作品も実は存在しているのである。

『地下の国のアリス』はルイス・キャロルがアリス・リデル(アリスシリーズの主人公アリスのモデルとなった少女)に送った手製の私家版で、二人にしか分からない身内ネタが豊富に散りばめられている。後に自費出版される『不思議の国のアリス』の原型になるプロトタイプである。『子ども部屋のアリス』は、『不思議の国のアリス』をルイス・キャロルが子ども向けに書き直したもので、読者に語りかける口調の文体となっている。また、『子ども部屋のアリス』ではアリスの衣装が青色から黄色に変更されている。

日本では、1899年に続編にあたる『鏡の国のアリス』の方から紹介された。『不思議の国のアリス』は1908年に初めて紹介された。翻訳は芥川龍之介や三島由紀夫らの文豪によって行われた。

『不思議の国のアリス』は、1865年に自費出版という形でマクミラン社から2,000部刷られた。これは、こだわりの強いルイス・キャロルが自由に本づくりを行うためだった。彼は当時人気のあったジョン・テニエルに挿絵を依頼した。だが、初版の2,000部が仕上がるとテニエルからクレームが入った。使用したインクの量が多すぎて、裏面に挿絵が透けているという内容だった。ルイス・キャロルは泣く泣くテニエルの要求を飲み、新たに2,000部を刷り直した。売れっ子作家のテニエルは、クオリティが低いものを自分の作品として世に出すことだけは認められなかった。もともと利益に期待しないコンセプトで造られた私家版だったが、200ポンドという損失はルイス・キャロルにとって大きかった。当時の英国ポンドを現在の日本円に置き換える試みは非常に難しいが、目安までに1840~1910年の期間は1ポンドが7~8万円程度と捉えられ、200ポンドは1,500万円前後という感覚だろう。ちなみに当時の英国の労働者の年収は20〜50ポンド程度だから、200ポンドは庶民の年収何年分にも相当し、やはり大金だったことが分かる。

ルイス・キャロスは紙屑となった最初の2,000部の処分をどうするか検討していたところ、アメリカの出版社アプルトン社が引き取りたいと名乗り出た。印刷だけされ、製本されていないこれらはまず1,000部がオックスフォードで1866年に出された。本当は初版として出るはずだったものが、2版として出されたわけである。そして、952部はアメリカで3版として出された。残りの48部は、既にルイス・キャロルが身内や知人に配っていた。後にこの失敗作の初版本が幻の稀覯本として、コレクターたちの間で莫大な金額で取引されるようになる。身内や知人に配れた48部のうち、22部はその存在が確認されているが、残りの行方は現在も不明である。

最も稀少なものは、ルイス・キャロル本人によって手掛けられた手製の『地下の国のアリス』である。これはアリス・リデルにプレゼントされた私家版で、この世に一冊しか存在せず、現在は大英博物館に収蔵されている。かつてオークションに掛けられて一度はアメリカに渡ったが、その後イギリスが買い戻した。後にこの『地下の国のアリス』の普及版が出版された。ルイス・キャロルとアリスたちの身内ネタが多いため、難解ではあるがアリスファンにとっては作品の原型となる堪らない内容になっている。

『不思議の国のアリス』は、ルイス・キャロルがリデル姉妹とボート遊びをしている中で生まれた。ボートの上でリデル姉妹を楽しませるために彼が即興で考えた物語だった。ルイス・キャロルはリデル姉妹と過ごしたこのゴールデン・アフターヌーンを心から楽しみ、その思い出を日記にも綴っている。だが、この日記には、カミソリによって不自然に切り取られた部分がある。後にこれはルイス・キャロル本人ではなく、彼の姪によって切り取られたことが判明した。切り取られた箇所に何が書かれていたのかは謎に包まれている。だが、当人たちにとって不都合な内容が記されていたことは確かだろう。ルイス・キャロルがまだ11歳のアリス・リデルに結婚を申し込んだとも推測されている。それを裏付けるように『不思議の国のアリス』が出版された1865年には、既にルイス・キャロルはリデル夫人から娘のアリスたちにはもう会わせないと告げられていた。リデル夫人は、娘たちに向けられる彼の視線に何らかの危険性を感じたのだろう。こうして人気を次第に博していく最中、ルイス・キャロルがアリスたちと過ごしたゴールデン・アフターヌーンは遠い夏の思い出となっていった。

ちなみに、表題にも使用したゴールデン・アフターヌーン(Golden Afternoon)という言葉は、直訳すると「黄金の午後」となるが、日本語でいうところの「蜜月」を指す。ルイス・キャロルとアリス・リデルが親しく交流した時期を示している。この蜜月はそう長くは続かず、前述したようにアリスが思春期に入ると母親のリデル夫人によって二人が会うことは許されなくなった。

『不思議の国のアリス』は聖書やシェイクスピア作品に続いて世界で最も読まれている作品と言われている。挿絵も様々な作家によって手掛けられている。だが、幼少期に読んだきりという人も多いだろう。邦訳も充実しているので、これを機にもう一度真剣に読み直してみてもいいかもしれない。大人になってから読むアリスには、感動と発見、示唆的な気づきが必ずあることだろう。


Shelk🦋

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