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批難されるのは社会ではないのか~脳性まひのママ体験談~を読んで

こんにちは
このブログでは「自分の人生を自分らしく生きるために」をテーマに教育、子育て、転職、投資などの話題や情報をお届けします。

下の記事とそのコメントを読んで思うところがあったので、記事に書きたいと思います。

脳性まひのため車いすで生活をおくる千葉絵里菜さんが、死を覚悟して出産して、悪戦苦闘しながら子育てしているという記事になります。

それに対して、コメント欄には厳しい言葉が並びます。

子どもが犠牲になるのが可愛そう、自分が介護や行政の支援を受けていて子育て出来るのかetc…


確かに子どもは犠牲になるべきではありません。
子どもには選択権がないので、第一に守られるべきは子どもだと思います。

しかし、それについて批難されるのは親なのでしょうか。

もし、ハンディキャップがあることで子育てに支障があり、可哀そうだと言うのであれば批難されるべきは、国や行政、私たち市民も含めた社会なのではないでしょうか。

自分が介護されているのにとか公的支援を受けているのに子どもが育てられるのかというコメントもあります。

公的支援を受けている人が子どもを産み育ててはいけない理由があるでしょうか。そもそも公的支援をまったく受けていない人は日本にはほとんどいないのではないでしょうか。


日本人は本当にこの手の人が多いと思います。
行政に頼る事、人に助けてもらうことを恥じと考える人です。

以前、記事にも書きましたが、私は行政に頼る事が恥ずかしいことだとは思っていません。

生活保護者など社会的弱者と呼ばれる人々が安心して暮らしていることで経済は回るのです。そういう人を守る為に私たちは税金を払っているのです。

もし、自分は子育てであんなに苦労したのに、ハンディキャップがあるというだけで助けてもらえるなんてずるいと考えるのであれば、それはハンディキャップがある人がずるいのではなく、子育てに苦労しなければならない社会が悪いのです。


行政に頼ってとか、税金がとか言っている人は、もし仮にこの子どもが将来、ノーベル賞級の研究をして地球温暖化問題を解決したとしても同じことを言うのでしょうか。経済効果や人類への貢献という点で言えばとてつもない貢献をしたことになります。

果たしてそんなことはないと言い切れるでしょうか。


論理的に考えて、子どもの可能性は未知数です。

うろ覚えですが、昔、『アイ、ロボット』という映画で以下の様なセリフがありました。

子どもの命と自分(大人)の命、助かる可能性が自分(大人)の方が高くても子どもを助ける。人間であれば当たり前に判断できる。

アイ、ロボットより(うろ覚え)

私も同感です。

命の価値は同じだと言われていますが、より若い人の命の方が価値が高いと思います。少なくとも私は選択する場面になれば子どもの命を優先します。

子どもの命はそれだけ尊いと思うし、それを生み出し育てようという行為は批難されることではないでしょう。


現実を鑑みて自分がハンディキャップがあった場合に出産を諦める人は多くいると思います。私も自分がその立場であれば諦めたかもしれません。

しかし、出産した人を批難することがわかりません。
社会が未熟で大変だけど、みんなで何とか助けてあげようということに
なぜならないのでしょうか。



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