ひつじ

ひつじです。主に斎藤茂吉の随筆を入力したものを記事にあげています。

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ひつじです。主に斎藤茂吉の随筆を入力したものを記事にあげています。

最近の記事

「交遊縷の如し」 吉井勇

※個人が趣味の範囲で入力したものです。 ※一通り見直してはいますが、誤字脱字等の見過ごしがあるかもしれません。悪しからずご容赦ください。 交遊縷の如し 吉井勇  昭和二十一年の三月、私がまだ洛南八幡町の町はづれにある、宝青庵といふ浄土宗の寺に住んでゐる時分のことだつた。新大阪新聞学芸部の思つきで、その頃まだ山形県の大石田町に疎開したままの斎藤茂吉君と私との間に、歌の応酬をさせたことがあつた。それは私が先づ茂吉君に対して歌を贈り、それに茂吉君が応答するといつたやうな形のもの

    • 「観潮楼歌会の頃―斎藤茂吉君追憶断片―」 吉井勇

      ※個人が趣味の範囲で入力したものです。 ※一通り見直してはいますが、誤字脱字等の見過ごしがあるかもしれません。悪しからずご容赦ください。 観潮楼歌会の頃―斎藤茂吉君追憶断片― 吉井勇  今年の一月十一日に上京、十二日には宮中で行はれた新年歌会始に選者として列席、その後数日東京に滞在してゐたが、その間の或る日、はからずも私は昔観潮楼歌会が本郷千駄木の森鷗外先生のお宅で催された時の詠草と、その会の席上で各自が書いた選歌の原稿とを見る機会を得た。  この詠草と選歌の原稿を、現在所

      • 「子規菓物帖」 斎藤茂吉

        ※個人が趣味の範囲で入力したものです。 ※一通り見直してはいますが、誤字脱字等の見過ごしがあるかもしれません。悪しからずご容赦ください。 ※仮名の合字を片仮名に改めた箇所があります。 子規菓物帖 斎藤茂吉  子規の菓物帖の複製を借覧した。明治三十五年六月ヨリ八月マデと題簽のところに書いてあり、『コレハ蘇山人ガ支那ニ赴クトキ持チ来タリテ何カ書ケト言ヒテ残シ置キシ帖ナリ。其後蘇山人逝キテ此帖ニ主ナシ。乃チ取リテ病床イタヅラガキノ用ニ供ス。名ツケテ菓物帖トイフ。中ニ為山子ノ筆ニ

        • 「先生で思ひ出すこと」 折口信夫

          ※個人の趣味の範囲で入力したものです。 ※一通り見直してはいますが、誤字脱字等の見過ごしがあるかもしれません。悪しからずご容赦ください。 ※本来縦書きの文章を横書きにしている都合上、踊り字の「くの字点」を修正している箇所が一部あります。 先生で思ひ出すこと 折口信夫 左千夫先生には、後にも先にも二度、お目にかゝつて、其きり大阪へ歸つた。今度上つて來た時はもう、龜戸普門院の墓あるじになつて了うて居られた。松葉牡丹のはびこつた土饅頭の上に、濺いだ水はあとからあとから流れを作つ

        「交遊縷の如し」 吉井勇

          「伊藤左千夫先生のこと」 斎藤茂吉

          ※個人の趣味の範囲で入力したものです。 ※一通り見直してはいますが、誤字脱字等の見過ごしがあるかもしれません。悪しからずご容赦ください。 伊藤左千夫先生のこと 斎藤茂吉  伊藤左千夫は明治時代のえらい歌人のひとりでありました。明治時代は、明治三十年前後に、新派の歌という、ひとつの新しい歌風がおこりましたが、左千夫もまたその新派歌人のひとりでありました。    牛飼が歌よむときに世の中の新しき歌大いにおこる  こういう左千夫の歌があります。この歌の中に、『牛飼』という言葉が

          「伊藤左千夫先生のこと」 斎藤茂吉

          「文学の師・医学の師」 斎藤茂吉

          ※個人が趣味の範囲で入力したものです。 ※一通り見直してはいますが、誤字脱字等の見過ごしがあるかもしれません。悪しからずご容赦ください。 ※自殺に関する描写があります。ご留意ください。 文学の師・医学の師 斎藤茂吉  東京神田小川町の、後に南明館の出来た近くに、いろは貸本店といふのがあつて、私が明治二十九年に上京して神田淡路町の開成中学校に通つたあひだに、ナシヨナルリードルの独案内とか、チャールススミス代数の独案内とか、其他いろいろの書物を借りて読んだ。開成中学校を卒業

          「文学の師・医学の師」 斎藤茂吉

          「僧正遍照」斎藤茂吉

          ※素人が、個人の趣味の範囲で入力したものです。 ※一通り見直してはいますが、誤字脱字等の見過ごしがあるかもしれません。悪しからずご容赦ください。 僧正遍照 斎藤茂吉  露伴先生はしばらく小説をお書きにならなかつたところが、昭和十年を過ぎてから、また小説を書かれた。幻談、雪たたき、鵞鳥、連環記などがそれである。この資料や腹案やは、もつと前に溯つてなされて居られたとも見えるが、それを、小説として公にせられることに至つたのは、下村亮一さんのおすすめによることで、私どもは非常に感

          「僧正遍照」斎藤茂吉

          「幸田露伴翁」 斎藤茂吉

          ※素人が、個人の趣味の範囲で入力したものです。 ※一通り見直してはいますが、誤字脱字等の見過ごしがあるかもしれません。悪しからずご容赦ください。 幸田露伴翁 斎藤茂吉  翁は慶應三年七月二十三日生れであるから、この昭和二十二年七月二十三日は滿八十の高齢に達せられたことになる。日本は國をあげて翁の健在を慶賀せねばならない。  第一の處女作「露團々」を出したのは、明治二十二年、「風流佛」を公にしたのも明治二十二年、「五重塔」の完結したのは明治二十五年三月であるから、風流佛は二

          「幸田露伴翁」 斎藤茂吉

          「續兼󠄁常」 斎藤茂吉

          ※素人が、個人の趣味の範囲で入力したものです。 ※一通り見直してはいますが、誤字脱字等の見過ごしがあるかもしれません。悪しからずご容赦ください。 續兼󠄁常 斎藤茂吉   かう暑くては話も何も出来たものではない。ぶんなぐつてやる野郎でもゐたら幾分冷しくでもなるかとおもふと、居ても立つても居られない。  例の變り種、兼󠄁常文學博士の萬葉ぎらひのことは、この四月ごろの夜話で話したとおもふが、この六月すゑごろ、東京日日新聞の學藝欄で彼は性懲りもなく萬葉調ぎらひについて饒舌してゐた。

          「續兼󠄁常」 斎藤茂吉

          「左右の眼」 室生犀星

          ※素人が、個人の趣味の範囲で入力したものです。 ※一通り見直してはいますが、誤字脱字等の見過ごしがあるかもしれません。悪しからずご容赦ください。 左右の眼 室生犀星  茂吉さんは歌人であるから歌に關係のある會合には出られるが、詩の會や小説家の會合に出席されることは稀である。私は詩や物語の作者であるから、そんな關係で實にお會ひしたことが尠ない。算へたらほんの二三度くらゐではなかつたらうか、それも、もう會が終わつて外套の受取所で、やあといつて挨拶するくらゐであつた。靑山南町の

          「左右の眼」 室生犀星

          「鷗外・漱石について寸言」 斎藤茂吉

          ※素人が、個人の趣味の範囲で入力したものです。 ※一通り見直してはいますが、誤字脱字等の見過ごしがあるかもしれません。悪しからずご容赦ください。 鷗外・漱石について寸言 斎藤茂吉  正宗白鳥氏が、二葉亭四迷の事を論じてゐたのはたいへん有益であつた(昭和十六年五月三十日朝日新聞)。その中に次のやうなことがあつた。 ○金銭獲得のための翻訳であるとはいへ、天成の芸術家である二葉亭は一字一句も苟くもしなかつたので、その多くの翻訳が、明治の古典として文学史に残るほどの価値を保つて

          「鷗外・漱石について寸言」 斎藤茂吉

          「続墓参記」 斎藤茂吉

          ※素人が、個人の趣味の範囲で入力したものです。 ※一通り見直してはいますが、誤字脱字等の見過ごしがあるかもしれません。悪しからずご容赦ください。 続墓参記 斎藤茂吉  昭和八年六月十一日、山口茂吉君に誘はれて、森鷗外先生の墓に詣でた。道順は僕の家を出て神宮表参道に入り原宿駅から省線電車に乗り新宿で乗換へ中央線三鷹駅で下車する。それから東南に向かつて歩むに、往反の人は稀に殆ど会ふ人がない。後方から一人の少年が自転車に乗つて来つつあつたが、それは途中で降りたと見え僕等を追ひ越

          「続墓参記」 斎藤茂吉

          「墓参記」 斎藤茂吉

          ※素人が、個人の趣味の範囲で入力したものです。 ※一通り見直してはいますが、誤字脱字等の見過ごしがあるかもしれません。悪しからずご容赦ください。 墓参記 斎藤茂吉  私は、欧羅巴留学を終へ東京に帰つて来てから一度森鷗外先生の墓に詣でたことがある。東京に帰つて来たのは大正十四年であるから、墓参したのは、大正十四年か十五年か、正確なことはもう忘れて居たが多分大正十五年あたりだらうと思ひ、その記録も何かに書いてあるやうな気がして捜してゐたが、或る時、その日附を見付けた。  それ

          「墓参記」 斎藤茂吉

          「フオビア・テレフオニカ」 斎藤茂吉

          ※素人が、個人の趣味の範囲で入力したものです。 ※一通り見直してはいますが、誤字脱字等の見過ごしがあるかもしれません。悪しからずご容赦ください。 フオビア・テレフオニカ 斎藤茂吉  これも同じやうな事であるが、この方は羅典まがひの題をつけたから幾分勿体がつくわけである。  大正十四年から大正十五年昭和二年三年あたりにかけ、私は電話の鈴の響が恐ろしくて為方のなかつたことがある。  その恐ろしい事の一つは、夜半過ぎなどにかかる電話の多くは大抵病院の事故で、その事故の大部分は患

          「フオビア・テレフオニカ」 斎藤茂吉

          「自殺憎悪」 斎藤茂吉

          ※素人が、個人の趣味の範囲で入力したものです。 ※一通り見直してはいますが、誤字脱字等の見過ごしがあるかもしれません。悪しからずご容赦ください。 ※自殺に関する描写があります。ご留意ください。 ※今日の社会において不適切と思われる表現が使用されている箇所がありますが、底本のまま掲載しました。 自殺憎悪 斎藤茂吉  この自殺憎悪といふのは、他が自殺することに対する憎悪。或は自殺する者に対する憎悪といふ意味で、羅典語か希臘語ででも書けば勿体がついていいのだらうが、それが私に

          「自殺憎悪」 斎藤茂吉

          「「赤光」の著者 一つの惠まれたる友情󠄁の歴史」 佐藤春夫

          ※素人が、個人の趣味の範囲で入力したものです。 ※一通り見直してはいますが、誤字脱字等の見過ごしがあるかもしれません。悪しからずご容赦ください。 「赤光」の著者 一つの惠まれたる友情󠄁の歴史 佐藤春夫  あれは「赤光」初版の出た直後だから大正二年であらう。年月日の記憶は正確でないが、「赤光」の出た直後で氣候のいい季節であつたことには間違ひがないから多分大正二年の十月末か十一月のはじめごろのやうに推定される。何しろ自分の二十一二のころ、今から四十年あまり前の事である。(こ

          「「赤光」の著者 一つの惠まれたる友情󠄁の歴史」 佐藤春夫