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「続墓参記」 斎藤茂吉

※素人が、個人の趣味の範囲で入力したものです。
※一通り見直してはいますが、誤字脱字等の見過ごしがあるかもしれません。悪しからずご容赦ください。


続墓参記 斎藤茂吉


 昭和八年六月十一日、山口茂吉君に誘はれて、森鷗外先生の墓にまうでた。道順は僕の家を出て神宮表参道に入り原宿駅から省線電車に乗り新宿で乗換へ中央線三鷹駅で下車する。それから東南に向かつて歩むに、往反の人はまれほとんど会ふ人がない。後方から一人の少年が自転車に乗つて来つつあつたが、それは途中で降りたと見え僕等を追ひ越さずにしまつた。その道を行き当たると直角に大街道が通つてゐる。それを右へ一丁余り行くと右側に禅林寺といふ寺がある。
 入口に二本の松が植ゑてあり、小さい木標があつて、森鷗外先生墓所禅林寺。片側に黄檗わうばく宗霊泉山禅林寺と記してある。山門の扁額へんがくは隠元の書で、禅林寺臨済三十二世黄檗隠元書としてある。この寺の本堂は近頃建立した小さいものである。庫裡くりは別棟で萱葺かやぶきの農家のやうなものであつた。鷗外先生の墓は狭い一くわくの墓地の中央の列の奥の方にあつて代々の和尚等の墓碣ぼけつの近くにある。墓はかつ向島むかうじまにあつた時詣でたものであつたから一種のなつかしさを覚えた。あの時はいろいろの墓の移転先のことなどを質問した記憶がまだ残つてゐるので、ついこの頃のやうに思ふのであるが、実はすでに数年を経過してゐるのあつた。
 墓の後には山桜と椿つばきとが植ゑてあり、いづれも時がすぎてゐた。ただ墓の前面に何といふ名であらうか赤いこまかい群蔟ぐんそうの花をつけた草が植ゑてある。墓は四基あつて、森静男墓、森篤次郎不律兌之墓、森家合墓、それに中村不折書の森林太郎墓である。鷗外先生の墓の字には『之』の字がなく、それはその当時先生が『之』の字を嫌はれたといふやうなことが言ひ伝へられたので、島木赤彦君なども『之』の字をきらわれた如くであつた。そこで赤彦君の墓の字を百穂画伯に依頼した時、守屋喜七さんから態々わざわざ注意があつて、『之』の字を除去したのであつた。その後僕が北平ペーピンに旅したとき、向うで得た墓の拓に『之』のあるものがあつたから、支那の古い時代にも、この『之』の字を用ゐたものがあつたといふことを知つたのであるが、いま森篤次郎之墓といふ鷗外先生みづから書かれたのを見るに、『之』の字が明かに入つて居る。
 あだかも栗の花がややさかりをすぎた時分で、一種の青臭いやうな香を発散せしめて居るのが注意をいた。鷗外先生は七月九日に病歿せられて居るから、もう今日あたりには余程お体の具合がわるかつたやうに想像せられる。それにも拘らず先生は元号考の撰述に専念せられて、ために一瞬もなほ千金のおもむきであつたのではあるまいか。
 禅林寺の隣には植木をつちかつてゐる家があつて、俗に田植茱萸ぐみといふ大粒の真赤なのが房なりになつてゐた。枝があまりにも垂れさがるので支木をしてあつた。この大粒の茱萸を僕は常々好むので自分の庭にも植ゑたいとおもひ、羽前上山から小さい苗を持つて来たが、いつ花が咲くやら実を結ぶやらまだおぼつかない状態にある。
 禅林寺の榮域えいゐきは極く寂しいところなので、鷗外先生のやうな有名な人の墓所としては少しさびしすぎるやうにも思ふが、これは僕らの主観的の感想で、おもひやうによつては、いつも水に浸されてゐた向島の弘福寺の榮域よりも増しだと云ふ気がしてゐるのである。弘福寺の近くはことごとく小待合になつて居り、ここの禅林寺の庫裡は森閑として人の香もしないおもむきである。この禅林寺の庫裡を訪れて見るに一人の青年が午睡をして居つたのが僕らのこゑに驚いて目をさましたほどである。(山口茂吉筆記)


底本:斎藤茂吉選集第十巻随筆三    
   1981年8月27日第1刷発行   
   1998年9月7日第3刷発行
初出:『文学直路』 昭和20年4月

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