「幸田露伴翁」 斎藤茂吉
※素人が、個人の趣味の範囲で入力したものです。
※一通り見直してはいますが、誤字脱字等の見過ごしがあるかもしれません。悪しからずご容赦ください。
幸田露伴翁 斎藤茂吉
翁は慶應三年七月二十三日生れであるから、この昭和二十二年七月二十三日は滿八十の高齢に達せられたことになる。日本は國をあげて翁の健在を慶賀せねばならない。
第一の處女作「露團々」を出したのは、明治二十二年、「風流佛」を公にしたのも明治二十二年、「五重塔」の完結したのは明治二十五年三月であるから、風流佛は二十三歳の作、五重塔は二十六歳の作といふことになり、いづれも翁二十代の作といふことになる。吾々は翁がいかにお若い時から充實せる文學活動に入られたかといふことに想到し、實に驚かざることを得ぬのである。かの大作「天うつ波」の如きでさへ、三十七歳からの作だといふことをおもへば、ここに二たび讚歎の心を新にせざることを得ぬではないか。
正岡子規の初期(明治三十二年)の歌に、『旅にして佛つくりが花賣に戀ひこがれしといふ物語』といふのがある。これは翁の「風流佛」を聯想して作つたものであるが、花漬賣を花賣と替へたのであつた。子規は露伴翁とは同年齢であるが、「風流佛」に傾倒してしまつて、自分も「月の都」といふ小説を書き天王寺畔の蝸牛盧を訪問して敎を受けた記事をみづから書いたのが殘つてゐる程である。
翁の物はいはゆる理想派であるから、ただの空想によつて出来たもののやうに思ひがちであるが、翁のものはなかなか以てそんなものではない。かの「風流佛」の花漬賣の少女、お辰にしろ、蕉門に『おたつ』といふ女流があつて、『見るも憂きひとり住居のたままつり』とか、『あの中へまろびて見たき靑田哉』などといふ句を作つてゐるのに注意し、その人柄を想像してなつかしく思つたのに本づいてゐる。對髑髏にしろ五重塔にしろその本づく處は現實である。この丁寧親切一些事もゆるかせにせられない特徴は翁全體を貫いて現在に及ばれて居る。
翁の全業績は燦然としてかがやき、今や翁の存在は、學の聖、道の聖として、敗戦後の日本に一つの安定感を與へられて居る。
空襲が劇甚になつた時、翁は止むことを得ず信濃に疎開せられたが、その時翁は全身に浮腫を持たれ、一歩も歩み得ぬ牀態にあられた。然るに今夏いよいよ滿八十の誕辰をむかへられ、牀上に談笑せられるおもかげに思ひ至れば、歡喜無上の感があるのである。私は邊土にあつて、この慶賀に参加し得ぬが、往古、かのビンヅル尊󠄁者が阿育王に會うたとき、尊󠄁者みづからの手を以て眉毛を撥開し云々とある如く、翁は白髯を撫しつつ後進の徒とねんごろに談笑せられるであらう。
それが私の眼前に彷彿するのである。
底本:斎藤茂吉全集第十巻 昭和29年1月14日第一刷
初出:「東京新聞」 昭和22年7月22日号
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