「フオビア・テレフオニカ」 斎藤茂吉
※素人が、個人の趣味の範囲で入力したものです。
※一通り見直してはいますが、誤字脱字等の見過ごしがあるかもしれません。悪しからずご容赦ください。
フオビア・テレフオニカ 斎藤茂吉
これも同じやうな事であるが、この方は羅典まがひの題をつけたから幾分勿体がつくわけである。
大正十四年から大正十五年昭和二年三年あたりにかけ、私は電話の鈴の響が恐ろしくて為方のなかつたことがある。
その恐ろしい事の一つは、夜半過ぎなどにかかる電話の多くは大抵病院の事故で、その事故の大部分は患者自殺の報告であつたからである。自殺は一年に一つか二つに過ぎないのだけれども、夜寝てから電話が鳴ると、もう動悸がし出して来る。階下で女中のこゑで、『いいえ、違ひます』などと云つて受話器をかける音を聞き、ほつとした後までなかなか動悸のしづまらないことなどもあつた。自殺は年に一度か二度でも、そのために気を使ふことに一分の休みも無いからである。
それからもう一つは、病院復興のとき金が少し足りなくて、父と共に金策に奔走した時であるが、建築の方から毎日のやうに電話がかかつて来る。父は外で骨折つてゐるから、留守居して外来診療をやつてその暇に小使銭のために随筆などを書いて居る私が自然その電話を聞くことになる。そして待つてもらふやうに丁寧親切な言葉で答へるのに、三四時間もたつとまた電話がかかつてくる。さうすると若くて短気な私は、『出来ませんと云つたら出来ません』とか、『駄目だと云つたら駄目だ』などといふ。さういふ返詞をせねばならぬだけでも私には溜まらないのに、次の日も次の日も同じ電話が来る。そして少し経つたところが、『近々差押といふことにいたしました』とか、『それではいよいよ弁護士を向けますから』とかいふ。いくら頼んでも承知しないとなれば、『そんなら勝手にしたまへ』と云つてしまふことなどもある。
この二つの電話でいぢめられたものだから、私はひどく電話の音が恐ろしくなつて何とも為方がなかつたものである。たまに信州に万葉の話などに行つて、電話の無い山中に寝たりすると、実に名状することの出来ない心の安定をおぼえたものである。
然るにこの恐怖症は病院の復興と共に、いつ薄らぐとなく薄らいで行つた。いつどういふ原因で、どういふ代償のためとか、どういふ心的療法のためとか、どういふ偉大力の加護のためとか、どういふ他の充足作用のためとか、そんなことの全く分からないうちに薄らいで行つたものである。
そのころ私は観世音の守護を肌身離さず持つてゐたが、若し宗教家にそのことを話すなら、それは観音力のためだと云つたかも知れない。また若しその頃私がある簡易宗教のやうなものに凝ってゐたら、その宗祖はその力の救ひによるものと云つたかも知れない。霊感術、指圧術、手の平療法、等々、みんな銘々の利益を強調したであらうが、私の場合には毫もさういふことは当嵌らずにしまつた。
ただ同じ音響でもその中味が厭な中味でないから、恐ろしくなくなつたといふに過ぎない、極く平凡な事柄なのである。欧羅巴大戦のころ、平和になつて帰国してからでも、顕微鏡をのぞく業房にあつて飛行機の飛ぶ音が、何か恐ろしく厭に聞こえて為方がなかつたことを、従軍したことのある教室の助手が話してくれたことがあるが、飛行機の音の恐ろしいのは飛行機に残虐を敢てする偉大な力があつたためで、それさへなければ毫も恐ろしくはないわけである。
私等は、恐怖症について取扱ふことが誠に多い。これは精神科医になつてゐる限り絶えるといふことはない。そこで生涯に一つ二つ自分で恐怖症に罹ることもまだ無駄ではないと思つたことがある。つまりは諦めの小さい口実に過ぎぬのであるが。
底本:斎藤茂吉選集第十一巻随筆四 1981年11月27日第1刷発行
1998年10月7日第2刷発行
初出:「癡人の随筆」(『改造』昭和12年1月)より抜粋
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