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藤子Fマニアが見た「シン・エヴァンゲリオン劇場版」

難解なエヴァシリーズにおいて、様々な考察が行われていることは承知しており、考察動画や考察ブログなども拝見している。自分も旧劇場版までは、周囲のエヴァ仲間と共に、ああでもない、こうでもないと議論したものである。

残念ながら、すっかり大人になった後の新劇場版は、それぞれ1~2回しか見ておらず、はっきり言って付いていけてない。そんなFマニアのエヴァレベルではあるが、25年間エヴァに付き合ってきた自分なりの決着を記してみたい。


まず与えられている情報の精査ということで、シン・エヴァのパンフレットの、「我々は三度、何を作ろうとしていたのか?」と題された、庵野秀明監督のメッセージから、気になる部分を抜粋する。特に注目したい部分を太字にした。

映画としての面白さ、即ち脚本や物語が僅かでも面白くなる様に、作品にとって何がベストなのかを常に模索し続け、時間ギリギリまで自分の持てる全ての感性と技術と経験を費やしました
結果、完成したのが本作です。
(中略)
最後に、「エヴァンゲリオン」という作品を三度完成へと導いてくれた全てのスタッフ、キャスト、ファンの皆様、
そして公私に渡り作品と自分を支え続けてくれた妻に感謝致します。

時間ギリギリまで自分の持てる全ての感性と技術と経験」を注ぎ込んだということだが、これは文字通り庵野監督の今の全てをぶち込んだという意味だろう。エヴァは最初のTVシリーズの脚本作りから、本作の完成までおそらく30年近くの月日が経過しているが、この間時代も変わり、監督自身の環境も考え方も変わっていったものと思う。その中で、一本筋の通ったエヴァシリーズを作り続けたということは、30年間の自他の変化をも全て取り込んでいる、ということだ。変化の果てに辿り着いた、と言い直しても良いかもしれない。


次に、「三度完成に導いた」とある。三度とは一体何のことだろうか。これは本作の英語副題「Thrice upon a time」とも符合する疑問である。エヴァは3回作り直されている、ということを意味すると思われるが、この三度とは、TV版・旧劇版・新劇版、と考えてみたい。

TV版ではシンジの成長譚を見ていたつもりが、突然逆走・後退し、精神世界に陥り、そこからシンジは「自分は自分だ」と立ち上がって、皆から「おめでとう」と祝福される。ある種のハッピーエンドであった。しかし、物語がどこに進んだのか、特に人類補完計画の結末がさっぱり理解できなかったのである。

私たち観客、そしておそらく作り手たちも、TV版を不完全版であると認識した。続けて、精神世界に突入した25話と26話をリメイクする形で劇場版が製作された。加えて、1~24話も超スピードだったが、再編集版が上映された。おそらくこれが二度目のエヴァだ。

この二度目のエヴァは、エヴァに寄りかかり過ぎたファンに向けた、極めて挑発的な内容となっている。物語での主人公(シンジ)に自分を重ねて、その主人公が成長していかないことへ苛立ちを制作者にぶつける「ファン」たち。庵野監督はそんなファンの姿をスクリーンに映し出すという演出を加えた上で、最終的に自分以外に唯一残ったアスカから「気持ち悪い」と突き放されてしまう。TV版とちがい、劇場版はバッドエンドなのである。

本当にこれでいいのか?
モヤモヤした思いは強く観客の中に残ったが、おそらく制作側、庵野監督の中でも、もう一度決着を付けなくてはならない、という意思が動き出したものと思われる。新劇場版の始まりである。そしてそこから、膨大なる時間をかけて、時代と個人の変化を取り込みながら、新劇場版もようやく完結を迎えることとなった。これが三度目のエヴァだ。

庵野監督個人の最大の変化は、結婚であったと思われる。「公私に渡り作品と自分を支え続けてくれた妻に感謝」と綴られているが、この妻(=安野モヨコ氏)の存在こそが、シン・エヴァに注ぎ込んだ「持てる感性」に多大なる影響を与えているものと思われる。


そうした監督からのメッセージを踏まえて、本作の内容を見ていく。

シン・エヴァは、思いのほか長尺であった。その長尺の要因となるのが「Q」で失語症となったシンジの回復に必要だったと思われる農村生活のシークエンスである。約一時間程の農村シーンで、綾波(のそっくりさん)が言葉と感情を少しずつ覚えていくが、この間、シンジは湖面を眺めているだけだ。しかし、かつての仲間に見守られる中で、シンジはようやく口を利く。「なんでみんな、優しいんだよ」と。シンジは、長い時間をかけて、人の優しさを沁み込ませて、立ち直るのである。

逃げちゃダメだ、という超有名な台詞は、内省的な自分に向けられた自己啓発のセリフである。しかし、本作で立ち直ったシンジが発する言葉は、皆を助けたい、という他者へと向けられた優しい眼差しに根差すものだった。

この農村で、シンジは加持とミサトの子供・リョウジ(14歳)と会う。エヴァの呪縛で年齢を積み重ねられないシンジも14歳だが、リョウジと会ったことで、自分が大人であることを理解する。

シンジは、自分とは何者か、という自己分析を経て、人のために働くという使命を見つける。このシンジの再出発は、彼の周囲の人間に対して、素直さ、真っ直ぐさを伝播させていく。そしてシンジはミサトたちと合流し、父ゲンドウとの最終対決へと立ち向かっていく。


観た人ならわかる通り、本作はシンジの物語であると同時に、ゲンドウの物語でもある。ゲンドウは自分を中心とした一つの精神生命体を作ろうと、遠大な計画を達成しようとしていた。全ては自分の元を去った妻・ユイを取り戻すためだ。全ての道具が揃った時、最後の試練として息子・シンジが目の前に現れる。ゲンドウにとってのラスボスは息子であったのだ。

ゲンドウの語りが、とつとつと語られる。ここが本作最大の泣きポイントとなっている。ゲンドウもエヴァに乗り込み、シンジと戦う。力で優るゲンドウだったが、自らのA・Tフィールドが邪魔をして、シンジのエヴァにトドメを刺すことができない。A・Tフィールド、すなわち心の壁を強く持っていたのは、息子に対して心を開けないゲンドウの方なのであった。

ありのままの自分を肯定してくれたユイ。そのユイとの間に出来た子シンジ。しかしユイが姿を消して、ゲンドウはシンジと向き合うのを止めてしまっていた。大人になりきれない大人の哀れな姿が、露わとなる。大人になれないのは自分。そして息子は、大人になって目の前に現れたのである。この時点で勝負あり。トドメは、ゲンドウからシンジに渡っていたウォークマン(S-DAT)が、A・Tフィールドを突き抜けて、戻されることだった。


人類の命運をゲンドウの代わりに握ったシンジは、エヴァンゲリオンの無い世界こそが必要なのだと決意する。ここで、世界はもう一回だけ、巻き戻る。使徒とエヴァが戦う世界に。巻き戻しのサインは、本作のタイトルの末尾につく音楽記号【リピート】である。

もう一度最初から。けれど、同じ場所に辿り着いたら、次はその先に進む。【リピート】の意味はそういうことだ。その先とは、エヴァンゲリオンのいない世界。作中語られる「リアリティ」の世界である(ちなみにエヴァのいる世界は「イマジナリー」となる)。

ラスト付近で、アニメでありながら実写の風景がインサートされていく。これはイマジナリーの世界から、リアリティの世界へと移行するさまを現わす。リピート記号の先、シンジは14歳から年齢を重ねておそらく28歳となる。社会に出たシンジは制服ではなく、当然スーツ姿だ。

そしてリアルな駅のホームでマリと会い、手を繋いでリアリティの世界へと走り出していく。もはや電車の中で、延々とループして音楽を聴いていたシンジではない。庵野監督の故郷、「式日」の舞台ともなった宇部の町に走り出るシンジとマリ。二人を見失ったカメラは、天上へと昇っていく。

見事なまでの、大団円。物語は、エヴァのいない世界へと移行し、次なる世代が活躍する世界、【新世紀】へと観客を誘う。素晴らしいラストシーンであると思う。


ところで、残る疑問は、最後にシンジを引っ張っていくマリとは何者か、ということである。ここからは蛇足であり、考察系動画などの意見からも一部拝借してしまうのだが、一応自分のために整理しておきたい。

新劇で突如登場したマリ。彼女は最後まで戦い抜き、シンジを虚数の宇宙にまで助けに行く。人間をリリンと呼び、膨大な本(=知恵)をどん欲に取り込む謎のエヴァパイロットだ。碇司令をゲンドウ君と呼ぶ同級生のような口ぶりから、ゲンドウとシンジの二世代の理解者、と言えるかと思う。

シンジという名前は、「神の子=神児=シンジ」という説が、以前から流布されている。シンジは神の子、つまり新約聖書におけるイエス・キリストであるというものだ。これに従えば、ゲンドウはキリストの父、つまり父なる神。ユイは聖母マリア。レイはシンジとの表裏一体の存在、聖霊となる。

ではマリはどうなるのか。ゲンドウに対してタメ語ということで、聖母マリアのマリ、という線も有力だが、ここはマグダラのマリアの方で考えたい。ダン・ブラウンの『ダ・ヴィンチ・コード』では、キリストの結婚相手はマグダラのマリアであるという異説を採用していた。これを援用し、キリスト=シンジの妻としてのマリ、という設定なのではないだろうか。

孤高の存在かと思われたキリストに配偶者(マリア)がいた。同様に、孤独なシンジにも、マリが必要だった。新劇で突如現れたマリは、孤高のシンジをどこまでも支えてくれる。ラストでは、シンジをイマジナリーからリアリティの世界へと誘う存在でもある。

シンジを一番理解し、助けて、支えて、新しい世界へと導く。これは、まさしく庵野監督のメッセージに書かれた「妻」に他ならない。

そう、マリ=安野モヨコ、というのが真相ではないだろうか。公私に渡って支えてくれた妻によって、エヴァは見事に完結を迎えることができたのである。

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