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5000字超! 成功は安らぎを連れてこない『やすらぎの館』/冴えない中年サラリーマン②

子供の頃、寝食を忘れて夢中になって読んだ漫画も、不思議と歳を取ると面白く思えなくなってしまい、やがて好きだったことすら忘れてしまう。しかし、不思議ともう少し歳を重ねると、子供の頃読んでいたものが、やっぱり面白いんだと原点回帰したりする。三つ子の魂は百までも、とは確かに正しいことわざだと思わせる。


それとは別に、子供の頃、さっぱり理解できなかった作品が、大人になって突然心を打つことがある。

個人的な村上春樹の話で例えると、「ダンス・ダンス・ダンス」まで夢中になって読んでいたのに、「国境の南、太陽の西」で、アレっ面白くない、なんて思ってしまったのに、20年後に再読すると感銘を受けてしまう、そんなイメージである。(よくわからなかった方、すみません・・)


藤子作品は基本的に子供向けタイトルがひしめき合ってはいるのだが、「異色SF短編」とされている作品や、「中年スーパーマン佐江内氏」などの一部のタイトルで、完全に大人向けの作品が存在している。

それらは、僕が子供~学生時代に読んだ際には、それほど琴線に触れない作品ばかりだった。一読するも、もう読まない、そんな感じである。

ところが、4回目の年男となる今、藤子Fノートのために読み返した時に、心を突き刺してくる。藤子先生は、大人向けだと決めて書いたものは、やはりきちんと大人の感情を揺さぶる作品に仕立てていたのである。

この歳になって気がつく藤子作品の新事実である。


さて、そんなことで、藤子先生の大人向け作品の中から、「冴えない中年サラリーマン」と題して、中年読者の心を鷲掴みにするタイトルを紹介していきたい。

前稿では下記の作品を取り上げた。


本稿も「異色SF短編」から一本ご紹介する。

『やすらぎの館』
「ビックコミック」1974年12月10日号/大全集1巻

本作は正確なところ、冴えないサラリーマンの話ではなく、かなり優秀な社長が主人公の物語である。先を読む力があり、牽引力があり、カリスマ性がある。一見、完璧な、ある種のサラリーマン人生の頂点に君臨するような男である。

しかし、その力強い仮面の奥底では、様々な不安が蠢いている。心身の疲れ、帝王として君臨するストレスに苛まれている。冴えないサラリーマンとは真逆の立場にありながら、それはそれで冴えない感情が心の奥底で沸き上がっている。


物語は複数の回想シーンが含まれ、文章化して説明するには難しい構成となっている。ただ、漫画で読む場合には、分かりやすく頭に入ってくるから不思議である。本稿では、シーンごとに区分けして、物語を追っていくことにする。


シーン1「やすらぎの館」①

主人公の男(60歳手前くらいか)が、縮尺のおかしい部屋に立っている。天井からは折り鶴が吊るされ、おもちゃ箱にはキューピー人形のようなもの、ラッパや模擬刀などが仕舞われている。テーブルにはクレヨンと紙。戸棚の上にはダルマや張子の虎などが並べられている。

雰囲気は戦中~戦後の郷愁さを感じさせる子供部屋だ。しかし、椅子からテーブルから、部屋中のものが、何もかもバカでかい。男は「来るんじゃなかった」と後悔するが、そこへ人形のような和装の女性が入ってくる。

おやつということで、煎餅やあられとお茶が出される。かなりの巨大サイズである。男はひどく待たされているようだが、それは予約なしで来訪したかららしい。そして女は、男に着がえるようせっつく。くつろぐために必要な手続きなのだと言う。

着替えは、セーラー服と半ズボン。一見、子供服のようだが・・。男は着替えに眉をひそめ、「あいつの口車に乗ったのが間違いだった」と二度目の後悔をする。

この冒頭で、「やすらぎの館」が異様であることをいきなり感じさせる。巨大な家具やおもちゃ、そしてオヤツ。異常値の縮尺が、これから起こる不可解さを見事に予見させる。


シーン2「料亭」①(回想)

主人公の男性と、別の男がテーブルを囲み、酒を飲んでいる。相手の男性は、主人公の友人で、かつ主治医のようである。医者の男は、主人公に対して「やすらぎの館」に行くよう勧めている。

医者の話によれば、やすらぎの館は、
・厳重な会員制。メンバーは各界のトップクラスの連中
・女がいるが、考えられるような種類ではない
・常識では想像もできない世界
・一度行けば病みつきになる

主人公の男は乗り気がしないが、医者はズバリと断言する。

「君の神経は今、極度に張りつめて疲れ切っている。違うかね?」

それまで余裕で話を聞いていた男が、初めて怯んだ表情を見せる。

「やすらぎの館」について、興味を煽りまくるシーンである。煽りすぎて期待外れになっては元の子もないが、そのリスクを百も承知で物語のハードルを上げている。すなわち、今後の展開に自信を感じさせるシーンと言えるだろう。


シーン3「会社」(回想の回想)

回想シーンから、さらに回想シーンになだれ込む。会議のシーンだが、会話の中で設定が自然と明らかとなっていく。お見事な脚本と言えるだろう。

・主人公の男は会社の社長で、息子の太一は海外担当重役
・社長は3日間入院していた
・太一は男から見ると甘ったれで、才覚がないと考えている
・会社の大番頭は、人の良さそうな専務
・息子の失態があったようだが、専務が対策に動いている

息子の太一は、父親(=社長)の右腕に専務がいて心強いと語るが、男はそれを聞いて「ほんとに若いよお前は」と呟く。ビジネスの世界は、弱肉強食、生き馬の目を抜く舞台であると、社長は知っているのだ。

社長室に戻ると、いかにも特命を帯びているという雰囲気の男が待ち受けている。彼は会社の株の買い占めについての調査を行っており、その結果を持ってきたのである。

その報告では、株の買い占めは事実、黒幕がいる、乗っ取ったあとは専務を新社長に据える・・といったもの。話を聞いて、自信を深めたような表情となる社長。神経の昂りを感じさせるが、これは裏を返せば、極度のストレスに追いやられていることを意味する。


シーン4「やすらぎの館」②

社長が着た服は子供服のデザインだった。大きく作られた椅子やテーブルは、幼児だったころに見えた寸法。幼いころ聞き馴染んでいた音楽が流れ出す。全ては少年期に回帰させるムード作りなのだと。


シーン5「妾宅」(回想)

主治医との会食を終えた帰り道。先生に地図を渡されていた社用車の運転手は「やすらぎの館」に行くかと聞くが、社長は「例のところへ寄ろう」と指示を出す。

そこは妾を住まわせているレジデンス。前回の記事で書いた『権敷無妾付き』での甲斐性の無い男がたどり着けなかった世界である。

男はベッドに入り、自信満々に女を呼びつける。ところが行為に及ぶ前に、女から金の工面の相談を受ける。「またか」と答えているので、いつものことなのだろう。女はクラブのママで、ライバル店にホステスたちをごっそり引き抜かれたのだと言う。

500万円の小切手を切ると、途端に性欲が薄れる男。妾を囲って気持ち良かった時期が終わっていることを告げるシーンである。


シーン6「やすらぎの館」③

駒を回してほくそ笑む男の前に、ガキ大将のような役割の3人の男性が現れる。主治医の解説(ナレーション)によれば、男性たちは俳優らしいが、子供社会をきちんと再現することで、主人公の少年時代への回帰を促しているのだという。

時に暴力的な行為によって、少しずつ子供を演じるという違和感を消し去ることができるのだという。それには、死の恐怖すら感じる少年時代のガキ大将の暴力を受けなくてはならないのだ。

男は縛られ、角の尖ったブロックを投げつけられる。「わしは帰る」と大人の言葉を発していた男は、「誰かあ」と子供のような叫ぶ声を上げるようになる。


シーン7「自宅」(回想)

帰宅すると奥さんが女中と共に出迎える。三郎が警察から帰ってきたと告げる。会社にいた息子が太一だったので、三郎は三男であろう。この話の中では次男は登場しない。

三郎の部屋に入る男。会話から、三郎の素性が明らかになる。
・学生運動の熱を上げ、警察に捕まって留置された
・取調室では涙を流して仲間の名前を売った
・面会の母親にも出してくれと泣きついた

要は、まだまだ未熟なガキだということだ。会話から分かるのは、男の怒りは仲間を売るような甘ちゃんであることに矛先が向けられていること。末っ子の小者感に腹を立てているのである。


シーン8「やすらぎの館」④

積木をぶつけられいると、「おやめっ」と声がかかる。いじめっ子たちが逃げ出すと、代わりに部屋に入ってきたのは、母親である。「泣くんじゃありませんよ」と慰めてくれるこの女性は、子供にとっての本当のママのように巨大なのである。

ここが本作の最大の驚きポイントとなる。母親役の女性は、ホルモンの病気である「巨人病」の罹患者なのだ。

ママは男を抱きかかえて「おうち」へと帰る。「おうち」は真っ白な壁で四面を囲まれた無味乾燥な部屋。そこはやがて、幼児がえりした時に、子供の頃の風景が見えてくるのだという。つまりは、世界観没入の合図となる部屋なのだ。

怪我を手当てしてもらう。まだこの時点では、頭は大人の状態をキープしている。しかし、催眠術を発するような視線を浴びて、「おかあちゃんって呼んでくれないの」と抱きしめられると、男はつい、「お、おかあちゃん」と声に出してしまう。

ママは言う。

「いい子いい子。何にも怖いことないのよ。いじめっ子たちには、母ちゃんがメーッて叱ってあげますからね」

いつの間にか男の目つきが鋭さが失われ、男の子のそれとなる。抱かれているうちに、忘れていた乳房の甘い香りを感じるようになる・・。


シーン9「料亭」②(回想)

シーンは回想を少し巻き戻して、料亭での医者との会食の場面。男は先生に聞く。自分が患っている病気はガンではないのかと。この当時、ガン宣告は本人に滅多にされるものではなかった。今よりも致死率が高かったし、ガンだと知った時の精神的ショックを和らげる手段が乏しかったのだ。

医者が言うには、ガンではなく胃潰瘍。身体より心の方が重症。そして、「やすらぎの館」に一度行ってみないかと誘う。

このシーンから、シーン②の冒頭に繋がる構成となっている。

なお、ちょとした会話の中身(すだち)から、主人公の郷里が徳島だということがわかる。


シーン10「やすらぎの館」⑤

いよいよ物語はクライマックスへ。

すっかり童心に戻った男は、母親とじゃれて遊び回る。自分より、圧倒的に大きかった存在に包まれて、安堵感を得る。そうした描写に重ねるように、現実の男の世界が医者のモノローグを借りて語られる。

・男は社会的な成功者
・人々は男を頼りにして服従してくる
・それで本当に満足なのか(いや違う)
・冷え冷えとしたトップの孤独感に包まれている
・母親のような存在に包まれたいという欲望を感じている

母ちゃんに負んぶされて、男は不安を吐露する。

「僕ね、ひょっとしたらガンかも知れないんだ」

・・・不思議なのだが、この場面になると、胸に熱いものがこみ上げてくる。弱気な面を見せられないトップの孤独と、その孤独から解放されるような優しさ、安堵感に、である。

男の告白を聞いたママは、あっさりと「そんなこと心配ない、直してあげます」と答える。そしてお腹を出させると、「坊やの悪い病気いっちまえ!!」とおまじないを浴びせる。

チョイとお腹を触られて、男は胸の中がスーッとする感覚になる。

「かあちゃん、なおったよ、ぼく」

男の子ように喜びまわる男。


すると、周囲の白かった壁に、子供の頃の生家の風景が見えてくる。徳島の農家だろうか。

暗示がかかり、その後は少年期から幼年期、さらに乳児期まで退行していく。排泄すら人の手に委ねてしまうほどに、
される。

幼児退行を突き詰めていくと、逆説的に大人の社会は、義務や責任だらけであることが明らかとなる。特に社会の規範となるようなトップにおいては、なおさらなのだ。


ラストシーン「会社」

目の鋭さを失った社長が座っている。株の買い占めを調査していた担当者が、驚くべき事実があると言って駆け込んでくる。息子の太一が乗っ取り一派に吸収されていること、黒幕は右翼の敷島太郎であること、早急に手を打つ必要があることを述べる。

童心に返ったまま大人に戻ってこれなくなったのか、やすらぎの館で憑き物が取れたのか、社長はヌウと立ち上がり、惚けたことを言う。

「いいんだもん。これから母ちゃんとこへ行って言いつけてくるもん。かあちゃん、みんなにメーッて叱ってくれるもん!!」

穏やかな表情で会社を立ち去る男。おそらく向かうのは母ちゃんの待つ「やすらぎの館」だろう。


会社にとって非常事態を迎えているのだが、男はその事実を受け止めないことで、ストレスを感じることはなくなっている。社会責任を背負わなくて良いのであれば、その方が人間として「安らげる」というものなのだ。

端的に言えば、成功が安らぎをもたらすことはない、という皮肉が本作には込められている。全てを放り投げるようなラストシーンは、会社にとってはバッドエンディングかも知れないが、あくまで男の側に立った時には、脱ストレスのハッピーエンドなのである。


「異色SF短編」考察多数。


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