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マトリックスの元ネタ? 判を押したような毎日『どことなく なんとなく』/世界は破滅する②

1999年に公開された映画『マトリックス』。今のような本格的なネット時代、AI時代到来に先駆けて登場したサイバー・パンク・アクション映画で、革新的な映像表現と相まって、世界的で大ヒットを飛ばした。

かくいう僕も公開直後に観に行き、そのスタイリッシュな作りと、奥深く一筋縄ではいかない世界観にどっぷりと浸ったものである。

僕が印象的だったのは、物語の序盤で、キアヌ・リーブス演じるアンダーソン(HN:ネオ)が、モーフィアスに質問される場面。

「起きているのか夢を見ているのか 分からないような時ってあるか?」

これは、ネオが普段から、現実世界で暮らしているはずなのに、今の自分が仮想空間にいるような感覚があること踏まえた問いである。


実際には現実と夢の区別が付かなくなるようなことはないが、この社会で、漫然と暮らしていると、まるでシステム内で生かされているような感覚に陥ることがある。

現実なのに現実感を覚えないあの感じ。毎日がただ流れていくあの感覚。決められた輪の中で過ごし続けてしまうあの惰性感。生きているのではなく、生かされているという思いが頭をよぎるのだ。


まるで「マトリックス」のネオのように、この世界に現実感を感じないという主人公を描い藤子作品がある。それが『どことなく なんとなく』である。

本作は現実と仮想の境目があやふやとなる部分や、世界の破滅後に何者かに生かされる人間というテーマが極めて「マトリックス」的。もはや元ネタと言ってもいいくらいにアイディアが似通っている。いや、これはもう元ネタだ!と勝手に断言して、本作を見ていくことにしたい。


『どことなく なんとなく』
「ビックコミック」1975年5月10日号/大全集2巻

とある男性の夢から始まる。それはとても観念的で不思議な夢である。まるで誰かに話しかけられているような夢だった。

白い夜があった・・・
夜が消えた・・・
昼も消えた・・・
時が流れた・・・
流れてすぎた・・・
永劫の時が・・・
もういいかい? もういいよ
手落ちはないな。ないと思う
起こそう・・・
じゃ、起こそう。おーい・・・

主人公・天地がテントの中で目を覚ます。起きろと声をかけたのは幼馴染みの友人。二人の会話から、天地が同じ「白い夜」の夢ばかり見るので、気持ちを一新するために友人が天地を誘ってハイキングに来ていることがわかる。

友人が「奥さんも心配してたぜ」と語ると、そこで回想シーンが始まる。本作は、天地の日常の回想と、友人とのハイキングのシーンがカットバックされていく構成となっている。


回想シーン。朝、奥さんに起こされた天地が、奥さんの顔をチョンと触る。食卓を囲み、パンを食べながら新聞を読む。出勤の準備をしていると小さな長男が抱きついてくる。天地は必要以上に力を込めてギュッと抱きしめると、子供は泣き出してしまう。

天地は呟く。

「どことなく・・・、なんとなく・・・」

天地は何の変化のない毎日を過ごしているが、どこか、何かが変わったように思える。初めて白い夜の夢を見た日を境目にして


山。天地は、変わったことは確かだが、何が変わったとは言葉にすることができない。ただ、強いて言えば、何もかも実在感がないように思える。空も雲も山も林も草原も、目に見えるもの全てが、実在感を持てないのだ。

この話を聞いた友人は「俺はここにちゃんと実在している」と反論する。それは確かにその通りなのだが、友人を実在させているのは、天地が「思った」からではないか、と考える。

今の言葉で言えば、この世界は仮想現実で、それを作り出しているのは個人一人の意識であるというようなことであろう。天地は自分がこの世界を創り出した意識の持ち主であるような感覚を覚えているのである。


天地は子供の時から空想癖があって、自分の意識が世界を創り出している、と観念的に考えたことがあった。しかし、近ごろは、それが理屈ではなく、生々しい実感で迫ってくるのだという。

その実感は、絶対無の空間にひとりポツンと在るように思え、恐怖を引き起こす。

悩み苦しむ天地を見て、友人は、観念固着(イデー・フィクスト)、すなわちありふれたノイローゼではないかと指摘する。
注)通常は「固着観念」と表現する

友人は天地の気を紛らわせるために、何ら変わらない目の前の大自然を見回してみろと言う。ところが、天地に言わせれば、この変化の無さこそが問題なのだ。


あの夜以来、まるで判を押したような毎日になり、まるで意外性が無くなってしまった。あらゆる出来事が自分のイメージの範疇を超えないのである。

だから雨が降りそうだと思えば雨が降る。そろそろ係長になってもいい頃だと考えると、課長から内定したと聞かされる。ところが、年の順から言えば山口さんがなっても不思議ではないと思うと、その通りになってしまう。

つまり、良いことも悪いことも、全ては自分の思い描いたシーン通りになってしまうのだ。

このような考えを聞かされた友人はすっかり呆れはてるが、その反応を受けて、天地はやはり自分はただ一人なんだと強く思う。


回想。一人孤独を感じる天地。朝、いつものように奥さんに起こしてもらうが、そこで急に抱きついてしまう。そして乱暴するかのように性行為に及ぶ。

天地は切実に生身の人間を感じたかった。この世が実在することを自分の肌で確かめたかったのだ。近頃変だと奥さんに指摘され、天地は思わず「助けてくれ」と奥さんに抱きつき、泣き出してしまう。


そういうことがあって、奥さんが心配して、幼馴染みの友人に山へハイキングに連れ出してくれと連絡を入れたのだった。

しかし、天地としては、この展開も自分の考えた筋書き通りである。かつて山歩きをしていた頃に、生きているという実感を味わえたので、藁をもすがる気持ちで、友人に誘わせたのだ。

しかし友人はこの話をすんなり受け取れるはずもない。自分は操り人形ではなく、自分の意志でここまで来たのだと、激怒する。そして挑発的な意味も込めて、天地に「天地創造の創造主だと思い上がるのもいい加減にしろ」と掴み掛かってくる。

さらに「創造主なら俺を消してみせろ」と凄み、そして顔面を殴りつける。さらにナイフを取り出して、「俺を消せ、できないならくだらない妄想を捨てろ」と迫る。

この友人の激昂ぶりは、天地の筋書き通りなのだろうか。そろそろ怒らせてしまうのではないかと夢想してしまったのだろうか。友人はナイフを振りかざして天地を追いかけ回してくる。


その時、咄嗟に友人に対して手を伸ばすと、触れることもなく友人の体が吹っ飛ばされていく。それはまるで、「マトリックス」で力を覚醒させたネオのようだ。

友人の体は崖の下へと転がっていく。天地は慌てて崖へと近づくが、既に手遅れである。

・・・すると、天地がいた大自然の風景が消えていく。そして周囲は宇宙空間が広がり、天地は一人漂うように佇んでいる。


そこへ、宇宙人なのか、神なのか、何者かの語りが聞こえてくる。

「これ以上は無理のようだな。試みは無駄に終わった」

そしてここからは、天地の実在感のなかった理由が明らかとなっていく。

・大昔地球という星があった
・一発の核ミサイルの誤射をトリガーにして地球の全表面が焼けた
・地球人は自分の身に何が起きたかを知る由もなくチリとなった
・地球遺跡の探査に向かった宇宙人が、かつての軌道付近で一個の細胞を採取する
・クローン培養によって元の生命体を復元させた
・生命体の記憶の底に彼らの生活の記録があった
・その記録を投影し地球人の生活圏を再現した

人間を復活させ、人間生活を再開させたのは、宇宙人としては、思いやりのつもりだったという。しかし、たった一人の地球人である天地は、実在感を重要視する孤独に耐えられない気弱な人間だったのだ。

天地を復活させた宇宙人たちは、「そろそろ帰るとしよう」と言って、元地球のあった場所から、遠く去っていってしまう。天地はただ一人宇宙空間をさ迷うことになる。本当の孤独はここから始まるのかもしれない。


さて、最後に余談だが、映画「マトリックス」では、自分がシステム内に組み込まれた人間だと知り、マトリックス空間がメタバースのような世界だと気付くことで、肉体の限界を超えていくことができる仕組みとなっている。

現実世界では、「マトリックス」のように物理法則を無視したアクションはできないが、頭の中で決めつけた法則からは、その人次第で逃れることができる。

私たちが人生を健やかに生きるためには、まずは自分の凝り固まった考えを解きほぐすことが重要なのだと、「マトリックス」見たり、本作を読んだりするたびに思うのである。



「SF短編」存分に語ってます。


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