見出し画像

芸術は結果だけが問題なのだ。『くたばれ評論家』/考察エスパー魔美⑤

『くたばれ評論家』「マンガくん」1977年6号/大全集1巻(第6話)

連載初回から一話一話をじっくりと検証していく「考察エスパー魔美」も、本稿で5本目。前回までの4回で、「エスパー魔美」の基本設定が明らかになるまでを語ってきた。その中で重要だったのは、高畑くんが、超能力を持っているのは自分だと勘違いをしていて、これがいつ、どのような形で解消されるか、であった。

前作『友情はクシャミで消えた』(第5話)では、考えうる最悪の形で高畑は魔美の方がエスパーであることを知る。高畑と魔美は、この一件でギクシャクし、関係が途絶えるかに見えた。しかし、高畑は大嫌いなウソをついて、その危機は解消される。本作『くたばれ評論家』は、その直後の物語となる。

これまでの考察については、下記のINDEXから飛んで、是非ともご一読をオススメいたします。

まず本作の内容に入る前に強調しておきたいのは、本作は「エスパー魔美」の中でも屈指の傑作回である、ということだ。ポイントは以下の4つ。

①高畑が魔美の強力な協力者となる
②テレポーテーション・ガンの登場で、魔美の超能力パワーが開花
③部分テレポートの初登場
④評論とは何か、表現とは何か

これらを、一つずつ見ていきたい。


①高畑が魔美の強力な協力者となる
自分がエスパーではなかったことで落ち込んだ高畑は、考えを転換させる。魔美に対して決意表明のようなセリフを残すので、引用してみよう。

「あれから考えたんだ。そりゃ、僕自身がエスパーじゃなかったのは残念だけどさ、君の中に眠っている能力を、引き出したり育てたり、エスパーのコーチってのも悪くないと思うんだ」

前線ではなくバックヤードからの支援を買って出る高畑。本当はプレイヤーとして世のため人のために働きたかった高畑だったが、それが叶わなかったとしても、コーチ役という形で世の中に貢献できるのだと考えたのである。

頭脳派の高畑は、そもそもアドバイスを送る側として適任である。魔美に勉強を教えるシーンがあるが、魔美はそれによってスラスラと問題が解けるので、信じられないと驚く。それに対して高畑は、「勉強なんてポイントを押さえれば」と頭がいい人の典型的な発言をする。魔美は高畑に対して、教え方の天才なので、先生のチャンピオンになるといい、と評するのだが、確かに高畑は教育者に相応しい。

画像1

高畑はハート型のブローチを改造した、テレポーテーション・ガンを魔美に渡す。魔美のイニシャルのMをイメージしたハート型で、裏のボタンを押すとブローチの中に仕込んである仁丹を飛ばす仕掛けだ。これを見る限り、高畑は美的センスを持ち合わせつつ、細かい作業を苦にしない技術者でもあるようだ。高畑はテレポートの練習用でピッチングマシーンを作り上げてしまうなど、工作能力が非常に高い。

物語が進行し、批評家剣氏のガンを除去する方法として、高畑は部分テレポートのアイディアを思いつく。こうしたことは魔美一人では考えつかないだろう。本作を皮切りに、「エスパー魔美」は魔美と高畑とがタッグで事件を解決していくスタイルを確立させていくのである。


②テレポーテーション・ガンの登場で、魔美の超能力パワーが開花
高畑の作ったテレポーテーション・ガンは、物質がぶつかるエネルギーによってテレポートが発動するという性質を利用した発明品である。これによって、いつでもどこでも、連続してテレポートすることができるようになる。もうコンポコに飛びついてもらう必要はなくなるのである。これは魔美の移動能力の明らかな向上であり、物語の幅を広げるものでもある。そしてこのブローチは、魔美の外見上のトレードマークにもなっていく。

画像2

このブローチの受け渡しの際、高畑は魔美のテレポート能力についていくつか新情報を明らかにする。一つ目は、一度にテレポートできる距離は今のところ600メートルであること。二つ目は、魔美にはレーダーやコンパスみたいな感覚が備わっており、知らない道をテレポートしても、何かにぶつかったりしない、ということだ。

そして、初めてブローチを使ってテレポートを繰り返す描写は、何度見ても憧れる。「エスパー魔美」では、日常の地続きに超能力を描くため、その分憧れの度合いが強まるのかもしれない。

画像3

③部分テレポートの初登場
本作では剣鋭介のガン細胞を取り除くために、部分テレポートという超能力が始めて使われる。この能力は、膀胱に溜まったおしっこを友だちの膀胱にテレポートさせたり、血液を送って輸血したりと、以後も要所要所で登場してくる。使い勝手が良い能力であるようだ。

画像4

評論とは何か、表現とは何か
本作最大のテーマはこれ。物語に溶け込んで発せられる剣と魔美のパパの名言の数々は、F先生からの、創作とは何かというメッセージと捉えていいだろう。

事の始まりは、美術評論家剣鋭介「佐倉十郎展」の批評が「美術界」4月号に掲載されたことである。佐倉十郎展は、本作の二作前の『名画(?)と鬼ババ』(第4話)において銀座で開かれていた個展のこと。

個展と言えば、エスパー魔美の初回「エスパーはだれ?」では、パパは個展に向けて魔美をモデルに絵を描いていた。この事実を踏まえると、既に第一話執筆時点から、本作までの大まかなアイディアは固まっていたのかもしれない。なお、佐倉十郎展についてのあれこれについては、次回の考察で取り上げる予定。

剣氏の佐倉十郎展への批評をまず書き出してみる。

「佐倉十郎展を見た。相も変わらず、古めかしい絵にかいたような絵が…描写は上滑りで、鋭く訴えかける何物もなく…、特に連作「少女」の文字通り少女趣味でセンチメンタルな甘ったるさには閉口…」

すごい酷評である。ここでの連作「少女」は、魔美をモデルとした作品群のことである。

画像5

魔美はこれを読んで怒りに怒り、落ち込み、剣氏に断固抗議するべきだと思い立つ。しかし、この話を聞いた高畑くんは、さらりとこう言う。

意味ないなあ・・・。だって、その人はそう感じたから、そう書いたんだろ。抗議されたからって訂正するわけもないし・・・」

魔美は高畑に貰ったテレポーテーション・ガンを使って、剣氏の部屋に直接飛び込み、批評への抗議をする。剣氏はその行動に非常識だと驚く。

魔美は剣にここぞとばかりに訴える。「パパがどんなに情熱を注いだのか、寝る間も惜しんで描いたのか。それなのに情け容赦もなく」、と。それに対する剣の回答が、ズバッと鋭い。

その一 情けとか容赦とか、批評とは無関係のものです。
その二 芸術は結果だけが問題なのだ。たとえ飲んだくれて鼻唄まじりにかいた絵でも、傑作は傑作。どんなに心血注いてかいても駄作は駄作。

パパの絵を駄作と断じられた魔美は、怒りが収まらず、テレキネシスを使って剣が書いていた原稿を庭にまき散らす。ささやかな仕返しで気分がスッキリする魔美。

画像6

ところが、家に帰って魔美はパパに剣を悪人呼ばわりすると、パパはそうではないと否定した上で、批評される側として非常に重要な見解を述べる。

「公表された作品については、見る人全部が自由に批評する権利を持つ。どんなにこき下ろされても、妨げることはできないんだ。それが嫌なら、誰にも見せないことだ」

さっきは散々怒っていたではないかと、魔美が聞き返すと、

「剣鋭介に批評の権利があれば、僕にだって怒る権利がある!! あいつはけなした! 僕は怒った! それでこの一件はおしまい!!」

画像7

ここまでの佐倉十郎と剣鋭介の主張を整理してみよう。

批評家・剣は、作品批評というものは、表現された成果物に対して行われるもので、表現者の制作態度や完成までの努力の有無を問わない、というポリシーを語っていた。佐倉十郎だから駄目とは言ってはいない。佐倉十郎の作品にフォーカスして駄作だと断じている。ある意味フェアな考えだと言える。

一方の佐倉十郎は、表現者として成果物を世に問う以上、身を削るように生み出した作品を貶されることも受け入れなければならないという覚悟を持っている。しかし、貶されたからには、貶された方にも怒る権利がある、というわけだ。作品が評価されないのならば、これをバネに次で見返すしかない。本作のラストで、佐倉十郎は、貶しようのない素晴らしい絵をかいてみせると決意を語っているのである。

剣と佐倉十郎は、立場は違えど、作品と批評についての見解が一致しているように見える。それは一つの作品にきちんと向き合う、という姿勢である。作り手と批評家という逆方向からのベクトルを、作品という中心点でぶつけ合うことが大事である、ということだ。それは表現者と批評家の緊張感のある対話でもある。

画像8

本作だけで、藤子F先生の創作論の全てをわかった気になるのは危険だが、発表された作品こそが、鑑賞対象であり批評対象である、という考え方をお持ちだということは理解できる。

作中で、飲んだくれて描いても傑作は傑作、と剣に言わせているが、これは本音でもあり建前でもある。帳尻合わせで描いたような作品でも、面白ければ勝ち。そういう世界に藤子先生は生きている。そして、努力したからといって良い作品が生まれるわけでもない。

しかし、実際のところ、飲んだくれては傑作は生まれない。心血を注いでこそ、傑作は生みだされる。F先生はきっとそう考えている。

心血を注いでマンガを描き続ける。F先生の創作の根源には、そうしたストイックな意思を強く感じるのである。

この記事が参加している募集

コンテンツ会議

マンガ感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?