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公開するための日記(2022年9月14日)

だいぶ長い間筆が止まっていた。このままnoteは閉めてしまおうかと思ったくらいだ。
理由はいくつかある。
① 仕事で報告書や記録、実習指導のコメントなど書く機会が増えたためプライベートの時間まで文章を書く気持ちになれなかったため。
② 一日の大半が仕事になるので仕事以外のことを書こうとすると、「こんなつまらないことを・・・」と自己規制が入るし、仕事について書こうとすると「守秘義務に抵触しないか」等と考えているうちに嫌になってしまうため。
③ 間が空いてしまったので単純にルーティンから外れてしまったため

だいたい、この3つが大きな理由であると思う。
しかし書かないでいる事によって弊害も出てきたのでやっぱり駄文であろうが、なんだろうが書くことが自分にとって必要なのではないかと思い始めている。

先日の職場の会議の時だった。
私が自立支援を担当している子どもについて皆さんの意見を伺いたいと思い、状況の説明をしようとしたときのこと。

最初は筋道立てて話そうとして、それなりに準備もしてきたつもりだった。
その時の準備は、話す内容の箇条書き・これだけは押さえたいキーポイントをノートに書いて、それを元に話をした。

ところが、だ。
話しているうちに、その子どもに対する思いがあふれてしまって、結局私の思いだけを熱弁するだけの時間になってしまい、年若い人々からは「時々何をおっしゃっているのか分からなくなってしまいました。」と言われる始末。
自分の気持ちをもっときちんと言語化してから話すべきだったと大いに反省をした。

子どもと話していてもそうだ。会話の途中で「あぁ、これってどう言えばいいんだっけ?」と思うことが増えてきた。
子どもはもちろん、同僚でさえも世代が違うのだから同世代の内々で話すように「ツーカー」とはいかない。
「あれ」「これ」「それ」の指示語が会話に増えてきたらイカンなぁと思っていたが、自分自身その状況に足を突っ込みつつある。

それを打開するためにはメモではなくやはり文章を書かなければならない。
正直、文章を書くことはパワーがいる。頭を使わなければいけないが、そこを怠っているとどんどん頭を使わなくなる。

ちなみに私は語学の勉強もしているのだが、日本語の文章を書くのを怠ってから、外国語でも書けなくなってしまった。
自分の勉強のために中国語でちょっと書いてみようと思っても日本語で文が組み立てられないので中国語でも書けない。
書けないから書けないの二重苦である。
そういう訳で、面倒でも頑張って書こうと言う意思表明をして本日のnoteを終えたいと思う。

・・・これくらいの軽いところからリハビリをしてゆきます。