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先生!ユメを追っても追っても届きそうにないです、助けて下さい!ジブンってなんなんですか?

なんで日本の進路指導って、自己理解から始まるんだろう。「やりたいことは何か」「自分らしさ」から始めて、そこから職業選びをしていくみたいな流れ。でもよく考えたら、生まれて間もない10代の子どもたちが自分で自分を理解するなんて、到底無理じゃない?

そんなことみんな薄々気付いている。なのに先生たちは、

あなたのやりたいことは何?
あなたの将来の夢は?
あなたが大切にしているものは?
あなたらしさは?

とかさらっと聞いてしまう。
おい、逆に聞くけど、じゃあ先生よ、あんたの自分らしさってなんなんだ?
って言ってしまいたくなるけど、かくいう私もこのセリフを既に何度か言ってしまってて、
その度にいや私は子どもたちに何を求めてるんやろ、って自己嫌悪に襲われている。

そんな自己理解なんて簡単には出来ないよ…。でも思わずそれを口にしてしまうぐらい、自分探しみたいな自己理解論に身体が蝕まれてしまっている。そりゃあ幼稚園ぐらいから繰り返し繰り返し将来の夢を語ってきたんだから当たり前か。

「自分はまだ将来の夢が決まっていないので、焦っています」
「自分が何をしたいのか、分からないんです」
みたい生徒がうじゃうじゃ大量発生してくるのも悲しいんだが、夢を持つことに囚われて、
一切勉強していないしする気もない生徒が
「私の夢は医者です」
とか言ってしまって、その夢をなんとか諦めさせようと先生達が奮闘するのを見てはなんとも言えない気持ちになる。

そんな自己理解から始まる進路指導に対する嫌気が、私に思わず小説を二つも書せてしまった。

自己理解って言葉が一人歩きしてないか?
そもそもこれって「自己って何なのか」という壮大で難解な実存的問いが含まれている言葉なのに、なんか分かった気になって、みんな使ってしまう(私も含めて)。でもその結果が自分を見失いそうになっている子どもたち(大人も?)じゃないのか。

自己理解っていう言葉が学校の進路指導で使われる時、「自己」はどこかに既にあるものだと想定されている。どこかにあるはず。でもなぜか見つからない。そこで教師は内省を促す。今までしてきた経験や自分が好きなことを考えさせ、そこから自分とは何者なのかを帰納法的に見つけ出させようとする。
「先生!分かりました!私看護師です。看護師になりたいんです。人助けが好きなんです。コミュニケーションも昔から得意でした」

ほんまかいな。なんとなくこんな感じで目をギラつかせている生徒に共通しているのは、見つからなかった探し物をやっと見つけ出せた妙な高揚感。にも関わらず、よくよく聞いてみるとそれは親戚のお節介なおじさんからの無責任な提案だったみたいなオチで、頭が痛くなる。

と、今まで自己理解についての不平不満をたらたら言ってきたけど、別に自己理解不能論を唱えるつもりはさらさらない。むしろ自己理解は人生で最も大切なことの一つだと私は思っている。

ただ自己理解は一生をかけてするもので、死ぬ間際に自分ってこんな人間だったんだな…、って思えたらマシな方。だいたい死ぬまで自分はどんな人間なのか自分ではわかるはずもない。だからたかだか20年弱生きてきた子どもたちが自己理解をしきっちゃったら変な話になる。

進路指導における自己理解は基本的に職業人生を通した自己理解であるべきだと思う。アルバイトをしている生徒ならば効果的に自己理解できるかもしれない。もっともそれは自己理解から始まる進路指導というより仕事理解から始まる進路指導かもしれないけれども。

ということで軽々しく自己理解を促す進路指導はやめにしませんか?私たち先生は心理の専門家でもないので、自己理解を少しだけ支援するのは出来たとしても自己理解を完成させるなんて烏滸がましい限りですよ(そういえばアメリカではスクールカウンセラーがキャリアガイダンスをするのが一般的だと聞いたことがある…)。

こんな話を現場でしてもあんまり相手にされないのは、昔からの夢を叶えて学校の先生になったって人が多いからでしょうか。キャリアコンサルタント兼高校進路指導部の独り言でした。

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