姿勢は正さないで、ゆだねるのが◎

小学生のころに側湾症と診断されました。喘息がひどくて、年の半分は寝てるような状態。運動もほとんど出来なくて、体育はほぼ見学。今日は調子がいいぞ〜と、校庭出たのも束の間、最初のランニングで「ぜぇーぜぇー」(*´ω`*)

そんな状態でしたので、基礎体力・基礎運動能力をつける1番大切な時期に身体を丸めて過ごしていました。苦しいので身体は丸まり、そのまま横になるので背骨はグニャグニャと曲がってしまいます。側湾症は猫背と違って正面からレントゲンをとると“S”の字のようになってしまいます。すごく複雑な曲がり方なんですね。どこからズレはじめたのかもわからないので、変に姿勢をよくしようとすると変なところを痛めるという悪循環。中学にあがったとき、そろそろ成長期も終わるのでこのタイミングでコルセット(矯正器具)を作りましょうとなりました。これが・・・・。本当に苦しくて。ベタベタと自分の型をとって作ってもらうんですけど、マリーアントワネットの時代?あの後ろでぎゅーぎゅー縛るドレス。苦しかっただろうなぁ。。。運動してないので姿勢を保つ筋力がないんですよね。そのサポートとしては楽なんですが、小児喘息で終わらずに発作がおさまってなかったのでそんな苦しいものつけてられません。結局、ほとんど装着しないまま、タンスの奥にしまい込んでしまいました。

そのまま、ずーっと側湾症とお付き合い。肩こり腰痛は酷すぎて、指先のほうまで痛みが降りてきてしまうまでに悪化したことも。整体なども通ったりしましたが、根本的な解決には至らず。大抵の人が「一生つきあっていくしかないね。治らないからね」と。ここで「治らない」というインプットで呪いがかかります(*´Д`*)

言葉の魔力は偉大です。言霊というと良きイメージも多いかと思いますが、エネルギーが強く働くということは悪いほうにも同じこと。治らないという呪いのせいで、治るという選択を潜在意識で諦めてしまうんですよね。この呪いがふと解けたのはセラピーやヒーリングといった世界に飛び込んでからでした。

解放のきっかけはオステホパシーをベースにしたセラピーとの出会い。セラピストとして学びながら、サロンにも通っていました。あっという間に身体がウネウネと動くようになり、固まっていた何かが溶けていくのがわかりました。オステホパシーは“結果”を治そうとするのではなく“原因”にアプローチするというのが最大の特徴。自然治癒力がバンッとすごい力で発揮するようなインパクトがありました(あくまでも個人的感想ですが)。痛いところを揉んだりするわけではないので、整体など直接的なアプローチしか知らなかった私には衝撃でした。

優しい施術なのに、身体は確実に反応している。身体が柔らかくなるにつれて、緊張や強張りもゆるんでいきました。そのおかげで、最初はびっくりするほどの激痛と冷や汗でしたが子宮筋腫が悪化していたことも発見。婦人科のお医者さんにはめちゃめちゃ怒られました。「こんなに筋腫が大きいのに痛みが無いわけない!」って、すごい勢いで。でも、本当にお腹って様々な感情に反応する場所なんですよね。色々我慢して、感情に鈍感になってないと辛いことが沢山あって。少しづつ、少しづつ鈍らせてきたので痛みとかなかったんです。鈍感力なんて言葉が流行ったりもしましたが、自分に正直でいるということは何も大袈裟なことではなく、知らないうちに無理をしないことも含まれるのだなぁと感じました。気にしない力も大切です。でも、ちょっとした違いを認め合えれば、相手にも自分にも不快な気持ちにさせることなく済むと思うんですよね。

それからは、心にも身体にも余裕がでてきました。スピリチュアルな講座などでよく登場する「天から光のシャワーを浴びるイメージ」をしましょう。という方法。想像するだけなのですが、これに委ねることでも背骨はスーッと強張りがとけていきます。

最近での気づきは「肉体は私ではない」というラマナ・マハルシなどの覚者たちの言葉から得たこと。宇宙との一体感を垣間見たあと(ミニと呼ばれる悟り体験の一種)、私では無い肉体をコントロールしようとするから、肉体に不調が現れるという言葉を思い出しました。自分の内側に神を見るように、誰のなかにも、どんな物のなかにも、神は見える。だとしたら、この肉体に対する「わたし」という所有を放棄してみようと思ったのです。すると、ブルーライトで痛かった目や、iPadで描き疲れた首や肩の緊張がサーっとどこかへ消えてしまうのを感じました。

私達は、何故か長生きをしたいと望み、健康でいなくてはと食事や運動などに気をつかいます。時々は、そんなこと何も考えずに暴飲暴食を繰り返すこともありますが。そんな熱心に健康でいたい、幸せでいたい、長生きしたいと何故思うのか?長い間謎だったのですが「あぁ。神様にかりた肉体だとちゃんと魂が知っているのだな」と、なんか凄い簡単な気の抜けた答えを実感しました。そう。気が抜けたんです。学生時代ピアスをあけたとき「親からもらった身体になんてことを!」という考えもまだまだ多かった頃でした。「もらったのなら、もう、私のものじゃん」と、だからってこんな小さな穴くらいと思いました。スピリチュアルな世界でも肉体は借り物だという言い方をします。この感覚が全然理解できなかったのですが、ようやく、本当だとわかりました。わかったというか実感したというほうがシックリです。

神様から借りたものを大切にしなくては!という意識があるのは当然のこと。生命を体験するのも奇跡。でも、これらの感覚を私はなかなか味わうことが出来なかったのです。嬉しい、幸せな気づきでした。

あれこれ、頭で知識を総動員して動くよりも、身体に委ねてみてください。そのとき、髪の毛の先端からの小さな掠れ声まで聞くくらいの静けさに入ること。そうして聞こえた何かにただ従ってみてください。1ミリ以下の小さな動きだとしても、身体中に安らぎを響かせてくれたりしますよ(*´꒳`*)

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