呼吸のはじまりと終わり

毎日、何かしらのタイミングで『今』の呼吸に意識がむくことはセルフケアの1番良きことかも♬と、思います。簡単だし、準備とか道具も要らないし、誰でもできる。喘息や側湾症、家族問題など色々と病んでいた私は、アーユルヴェーダのオイルケアやキッチンファーマシー、ヨーガに瞑想など沢山のメンテナンス法を取り入れてきました。でも、最近思うことは『誰でも、どこででも出来ること』を丁寧に行う。物凄いシンプルな方法だけで、最大の効果が出せることを共有していきたいということ。

道具や何かを準備しなくては出来ないことは、効果が高くても、ちょっと面倒くさい。面倒くさいことは続かない。続けないと意味がない。となると、なんだかせっかくの知識がもったいない。世界中どこに行っても、年齢や性別も場所も関係なく、よほどの事情がない限りは誰にでもできる。寝たきりでも意識があればできる。教えるのも、伝えるのも簡単。例えばとても効果が高く、自分の病が必ず良くなるものがあるとします。でも、それは自分の国では法律や様々な事情が邪魔して手に入らない。あれがあれば、すぐに治るのに・・・と思うことはとても残念だし、もう治らないのではと気力もなくなります。お金があれば、その国へ行くこともできる。でも、誰もがそうではない。公平で、言葉の壁も乗り越えていけるようなものってないのかなぁと思うようになりました。

そんなときに、ふと、呼吸について今までにない感覚が現れました。産まれてから死ぬまで続く呼吸。普段は自動運転ですが、コントロールすることも可能ですね。「吸う」を「呼ぶ」と書くのも面白い。ヨーガの呼吸法にも「吐く」ほうに意識を丁寧に向けて、「吸う」ほうは自然に任せるという方法があります。しっかりと吐くことができれば、無理しなくても入ってくるんですね。

この、吸うと吐くをしっかりわけて行うことに違和感を感じたのです。

そこで「吐いてるときはすでに吸う準備を感じる、吸っているときは吐く準備を感じる」ということをやってみました。

すると、はじまりと終わりの境界線が曖昧になり、さらに、もっと繊細で微細な身体の動き・変化も感じ取れるようになってきました。それから、すーっと世界が静かになったのです。これは、感覚を研ぎ澄ましていかないと、わからないことに意識を向けるようになったからでした。肺の動きはもちろん、身体はつながっていますからアチコチが連動して動きます。プラーナヤーマを呼吸法と訳すことがありますが、プラーナヤーマはプラーナヤーマだ!というのも納得がいくようになります。呼吸は単に酸素が入って、二酸化炭素が出ていくという機能的なことだけではなく、もっと多くのことが起きているんですよね。自動的に続く「呼吸」に、コントロールという意識を加えればそれは呼吸以上のものになるということなんだなぁと。

チャネリングやハイヤーセルフとつながるといったことは、この感覚に近いものがあります。日常的にも他者の機嫌を感じ取ったり、直感や閃きといったものをいちいちスピリチャルだ〜とは思わないですよね。でも、その自動運転を意識化するといわゆるスピリチュアル的なものと解釈されます。その精度や信頼度などは人によって違いますが、こちらも練習していけば、つながるもの、受け取るものが変わっていきます。

教わった通りのことと、自分自身で気づき得たものは理解度が格段に違いますよね。この世界には言葉では絶対に伝えられないことが山程あります。学ぶ側と教える側には段階がある。学ぶ側は少しでも教えることに長けた人を探しがちですが、実はまだほんの数分聞いただけの素人から学んだほうが実りが多いときもあるというもの。産まれてはじめて聞いたからこその発見や感動は、どんなものよりも価値があるというもの。私が何かを教えたり、伝えたりすることを始められたのは、この言葉があったからでした。教わったことを、間違えないようにしようと努力することも大切です。でも、それと同時に多くのヒントを得るために、学び続けながらも、そこから経験し、新しい発見をし、確信を得ていき続けることも大切にしようと思いました。

毎日、毎瞬間、新鮮な感覚で世界を楽しみたいですよね。

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