なぜ蜘蛛の糸は切れたのか?あの世の理から読み解く「蜘蛛の糸」

芥川龍之介の名作「蜘蛛の糸」

 芥川龍之介の名作である蜘蛛の糸を読んだことのある方は多いと思います。極楽浄土にいらっしゃるお釈迦様が蓮の池を覗いて遙か下にある地獄を見た時に、地獄の責め苦に疲れ果て、血の池に浮かんでいる大泥棒のカンダタに気がつくところから始まります。
 カンダタは地獄に落ちるほどの悪さをした悪党でしたが、ある時小さな蜘蛛を踏み潰そうとしたのを自ら思い直し、蜘蛛の小さな命を大切に感じて逃がしてやったことがありました。お釈迦様は小さな蜘蛛の命を救ったカンダタの良い行いに免じて、地獄から救ってあげようと蓮池にいた蜘蛛の糸を地獄のカンダタのもとへと垂らしてあげるのです。
 真っ暗な地獄の闇に銀に光る糸がきらめくのを見つけたカンダタはこの糸を上っていけば地獄を抜け出すことができると思い、糸を必死に上っていく。有名なお話ですのでこの後の結末もご存じですよね。

 地獄と極楽には遙かな隔たりがあり、上っても上ってもたどり着かない。疲れたカンダタが上るのを止めて下を覗いてみると地獄にいた他のたくさんの人たちもカンダタと同じように地獄から抜け出そうと銀の糸にしがみついて上ってくるのが見え、カンダタはこのままでは糸が切れてしまうと焦り、下に向かってこの糸は自分の物だ、降りろと叫びます。
 そうすると糸はぷっつりと切れてしまい、カンダタは血の池へと落ちて元の地獄に戻っていまいます。極楽浄土の蓮池からその様子を眺めていたお釈迦様は悲しい顔をしてそこを去り、蓮池の散歩を再開するという結末です。

 この蜘蛛の糸の短いお話にはいくつかの学びが込められていることに気づいていると思います。
例えば、
・地獄に落ちるほどの悪業を重ねた者にも仏の慈悲は与えられること。
・小さな命を救ったことで徳を積んだこと。
・自分だけという独り占めの狭い心によって罰が当たったということ。
 しかし、お釈迦様は蜘蛛の糸を切ってはいません。風が吹いたり、地獄の鬼が切ったわけでもありません。物語を読めば分かりますが、お釈迦様は蜘蛛の糸による救いをカンダタに与えましたが、傲慢なカンダタに罰を与えてはおらず、ただ一部始終を眺めていただけです。
 ここから先は私がシャーマンとして霊的視点であの世の理を含めての解説となります。こんな読み解きもできるのだなぐらいの気持ちで楽しんでいただけたらと思います。

この世とあの世の違い

 蜘蛛の糸が突然切れた理由には、カンダタがいた地獄の血の池とお釈迦様がいらっしゃる極楽浄土がどちらもあの世であることが関係しています。この世は物質としての肉体を纏った人間が暮らす世界ですが、あの世は肉体の死を迎えた者が霊として暮らす物資のない意識の世界です。
  この世である物質世界にある蜘蛛の糸は人間の力よりは弱く、ロープの様に上っていくのには適しません。(現在では人工蜘蛛の糸によるスーパー繊維もありますが自然界にはないので除外します)木と木の間にかかった蜘蛛の巣や糸に気づかず、蜘蛛の糸が顔や体に引っかかったりして、手で払ったりした経験が誰にでも一度くらいはありますよね?蜘蛛の糸は小さく軽い虫を捕まえるには適していますが、大きな人間の男性を支えられるほどの強靱さはありません。この世であればカンダタが握って引っ張れば蜘蛛の糸はちぎれてしまったでしょう。しかし、地獄に垂らされた蜘蛛の糸はカンダタが上ってきてもすぐには切れませんでした。

蜘蛛の糸には二つの意味がある

 この蜘蛛の糸はお釈迦様がカンダタの救いのために垂らしてあげたものです。この糸を辿れば地獄にいるカンダタが極楽浄土にいるお釈迦様の元へたどり着くことができます。お釈迦様が蓮池で巣を作ろうと糸を吐いていた蜘蛛の糸をカンダタを救うという意図を持って手にした瞬間、蜘蛛の糸は私たちがこの世で知っている柔らかな脆い糸ではなく、カンダタを落とすことのない霊的に頑丈な糸となりました。
  また、地獄と極楽浄土をつなぐ一本の蜘蛛の糸は無知のまま、欲望のままに地獄に生きる者を悟りへと導く、改心と信仰の道でもありました。お釈迦様は地獄の暗闇に生きるカンダタの魂の記憶にカンダタが生前に小さな蜘蛛の命を粗末に扱わないことで積んだ徳が煌めいているのに気が付きました。もしかしたらカンダタは改心し、霊的に成長するために努力できるかもしれないとお釈迦様は思ったのかもしれません。しかし、カンダタは自分がなぜ地獄に落ちたのかをまだ深く理解できておらず、辛くて苦しい地獄を脱出するために素晴らしい物を見つけたと思ったぐらいで、それがお釈迦様からの助けであり、まさか悪党の自分に慈悲が与えられるとは思ってもみなかったのでしょう。

地獄という修行場所

 もし、カンダタが地獄に落ちたことを反省し、自分が誰かに与えてきた苦しみを理解できるほど改心していたら、この物語の結末は変わっていたでしょう。しかし、カンダタはまだまだ生前と同じく自分の欲望に忠実で傲慢な人間のままでした。大泥棒だったカンダタは奪われる側の苦しみよりも自分の快楽や欲望を優先する人間だったでしょう。暴行や略奪は当たり前、自分よりも弱い相手から奪い、苦しみを与えることに何の後ろめたさも感じない。
  物質のないあの世は地獄も極楽浄土も心象の世界です。カンダタの心の闇そのものがまさにカンダタのいる地獄であり、お釈迦様の清らかで慈悲に溢れた心は極楽浄土そのもの。そして生前苦しみを与えた分だけ、自分も地獄の拷問を受け、命や大切なものを奪われる側の苦しみを体験しながら学ぶのが地獄という修行の場なのです。

お釈迦様の想いと極楽浄土への道のり

 まだまだ地獄での修行が足りないカンダタでしたが、そんな悪党のカンダタをお釈迦様は救おうとなさいました。ひどい悪党であっても小さな蜘蛛の命を大切に思うことができたのなら、改心して慈悲の心を育てたり、良い人間に変わろうと修行することが出来るからです。もし、カンダタがお釈迦様の意図には気づかなくても、地獄から逃げたいという一心だったとしても、下を振り返ることなく上を目指し続けていたら、蜘蛛の糸を上るうちに心の闇が少しずつ薄まり、いつかは悟りを得て、極楽浄土にいらっしゃるお釈迦様の元へとたどり着いたでしょう。
 しかし、カンダタは上ることに疲れてしまいました。闇にきらめく銀の糸を見つけた時、カンダタの心には確かにその糸を辿って地獄を抜け出し、もう拷問に苦しむことのない自分を描いたはずです。しかし、極楽浄土へ至る道というのは大変な道のりです。地獄に落ちていない人でも、悟りを得て、お釈迦様のおそばに行けるほどに修行をするというのは大変なことです。カンダタは極楽浄土から最も遠い地獄にいるのですからなおさらでした。糸を上れば簡単に抜け出せると思っていたカンダタは出口の見えない闇の中で疲れ、上るのを止めて下を振り返ってしまいました。
   下に広がる地獄はカンダタの心象世界です。カンダタが見た地獄を抜け出そうと無数に糸に群がる地獄の人々の姿はカンダタが心に抱えていた闇であり、そこに潜む不安や恐怖など負の感情が作り出した幻想でもありました。
 下を見たカンダタは一瞬にして自分の心の闇に囚われ、上を目指していた意識は地獄へ注がれてしまいました。

強く描いたものが現実となる

  地獄にいる無数の人々が蜘蛛の糸を上ろうと押し寄せているのを見たカンダタの心は一瞬で強い恐怖や不安、怒りで満ちました。カンダタは自分の重みでは切れなかった糸もたくさんの人間がぶら下がれば切れてしまう!と不安になり、あっという間に地獄に戻されしまうことを恐怖に感じたことでしょう。
  そして、一番最初にこの糸を見つけて上った自分だけがこの糸を上る権利があると怒りを爆発させながら主張しました。すると糸は突然ぷつりと切れてしまいました。
    カンダタが蜘蛛の糸を見つけた時、カンダタの心には苦しい地獄を抜け出して安堵する姿が描かれ、カンダタは希望と喜びを感じていました。しかし、その希望と喜びはカンダタの心の闇に潜んでいた負の感情によって一瞬で恐怖と怒りで塗り替えられ、無数の人間の重みに耐えきれず糸が切れて血の池に落ちる自分を描き、カンダタに恐ろしい恐怖を与えたのです。
  そして、カンダタが心に描いた最悪のイメージは現実となり、蜘蛛の糸はカンダタの心が望んだように切れました。

カンダタはなぜ地獄を抜け出せなかったのか

 あの世は意識の世界ですからこの世のように物理法則が厳格に成り立つ世界ではありません。強く心に描いたこと、信じていることが心象として現れる思い込みのイマジネーションの世界です。 
  それならば、蜘蛛の糸を見つけた時、この糸を上れば地獄を脱出できるとカンダタは喜び、心にその姿を描いたのにそれはすぐに現実にならなかったのは何故だろう?と疑問に思う人もいるでしょう。確かにカンダタは喜びと希望を持って心に自分が望む地獄を抜け出した自分を描きました。しかし、カンダタは100%それを実行できると自分を信じてはいませんでした。頼りなさげな蜘蛛の糸を見て、いつ切れるか分からないという不安も抱えていたはずです。現象を作り出すには強い感情が必要ですが、カンダタには現象を瞬時に変えるほどの強い喜びや希望はまだ育っておらず、またそれを引っ張る不安も存在してきました。

カンダタの心の闇

  もし、カンダタが蜘蛛の糸の先にある蓮池から覗き込むお釈迦様の姿を見ることができたら、不安などなく安心して蜘蛛の糸を上り続けられたかもしれません。
  しかし、カンダタの心は生前一つの徳を積んだとはいえ、闇が広がり濁っていました。カンダタのを取り巻く世界は暗く光は閉ざされ、蓮池を覗き込むお釈迦様の輝くお顔も慈悲深い眼差しも知ることは出来ませんでした。
   カンダタの心には自分が地獄を脱出できる希望や喜びよりもカンダタを良くない方向へと貶めてきた強い感情が巣食っていました。それは悪党として生き、地獄に落ちた自分が悪党以外になれるわけがない、救われる訳がない、悪党という底辺の人間は底辺がお似合いだ、といったような自己卑下です。自己卑下は間違った思い込みでしかありませんが、自己卑下した自分を正当化し、無知のまま欲望のままに生きる事を正当化させ、試練を乗り越えて成長する可能性を潰します。
  努力する前に諦める。努力を始めてすぐに諦める。やっぱり自分にその価値はない、やっぱり自分には無理だと心の闇は潜在意識から囁き続け、洗脳します。そうして自分を自己卑下し、自分の未来を変えられることを信じるのは馬鹿げたことだと、信じることや勇気を持つことを忘れるのです。
  心の闇はカンダタの成長を望んでいません。もしカンダタが地獄を抜け出す希望や喜びとひとつになり、地獄を抜け出して極楽浄土にたどり着いてしまったら、お釈迦様の慈悲深い眼差しや温かな光にカンダタが触れてしまったら、カンダタの心にある悪党だった頃の濁りはたちまち消え、心の闇はあたかたもなく消滅してしまいます。
  だから、心の闇は一生懸命に上へ上へと上っていくカンダタの心の中でカンダタが下を振り返る瞬間をじっと待っていました。カンダタが下を振り返り、カンダタの後を追って無数の人間が蜘蛛の糸を上ってくるのが見えて不安と恐れを感じた瞬間に心を真っ暗に多い、希望も喜びも消してやろうと狙っていたのです。
  そして心の闇が狙った通り、自分と同じように糸を上ってくる人々を見たカンダタは糸が切れる不安から怒りを爆発させました。カンダタの心の闇は一瞬にしてカンダタの心を不安と恐れと怒りで塗りつぶし、カンダタにとって一番恐れていた最悪の瞬間をリアルに心に描かせたのです。カンダタの中にあった強力な負の感情の力はカンダタの描いたイメージ、ぷつりと蜘蛛の糸が切れた恐怖の瞬間を瞬時に現実とさせました。

影の自分とカンダタのその後

  シャーマンがあの世の理から読み解く「蜘蛛の糸」、お楽しみいただけましたでしょうか? 蜘蛛の糸の主人公カンダタは誰の心にも潜む、自分を100%信じていない自分、自分をひ弱でダメだと思い込んでいるもう一人の自分です。
   私たちが何かを願う時、そこには何らかの感情が付随しています。例えば痩せたいと願う時、ある人は医師に痩せないと病気になって深刻な状況に陥ると宣告されて死や病気の恐れから痩せたいと願う人もいれば、痩せて綺麗になれば自分に自信が持てる、認めてもらいたい人に自分の価値を評価してもらえると思ってたり、あるいは単純に新しいワンサイズ上の洋服を買いたくないから無駄遣いしないためにこれ以上太りたくないと思ってるなんてこともあるでしょう。私たちの行動の元となる思考は無意識に感情や欲望とワンセットになっていることがほとんどで人間の数だけ理由も様々。
   私たちは自分の意思で自分の人生を生きているつもりですが、実はカンダタのように心の中に自分の成長や可能性を阻む闇を抱えていて、これは影の自分として巧妙に私たちの足を引っ張っています。私たちが無意識から目覚めるのを恐れ、本当に望む良い結果を得ないように様々な欲望や負の感情による攻撃や誘惑を私たち気づかないように与え続けています。
  この影の自分の事をエソテリック・ティーチング(内なる教え)ではエゴイズムと呼びます。エゴイズムは私たちが人生を生きる中で強い負の感情によって作り出してきた思考の想念の集合体であり、思い込みによって生まれた影です。私たちの意識はまだまだ眠っているので、お釈迦様のように極楽浄土を作り出せるほど心は澄んでおらず、感情が一度暴れれば泥が掻き回されて意識は濁った泥水のようになり、智慧の光を遮断して心が曇ってしまいます。心を明るく澄んだ状態に保ち続けることはとても努力のいることです。

  さて、血の池に再び戻ってしまったカンダタはこの後どうなったでしょうか?生きる気力(すでに死んでますが)を失って、地獄で力なく生きていると思いますか?それとも糸が切れたことの腹いせに自分よりも弱い相手を見つけて暴力を振るったりしているでしょうか?
 私はカンダタは諦めない男だと思ってます。確かにカンダタの心には闇があり、カンダタを絶望に落としました。しかし、大盗賊であったカンダタは盗むというスリルと冒険が好きだったはずです。そのスリルと快感を良い事、正しい事として囁くのも私たちの影であるエゴイズムの働きでもあります。時間が経てば、どうにかして地獄を脱出する方法はないだろうか?と地獄の責め苦に耐えながらカンダタは考えているのではないでしょうか?こうして、本来の救いからどんどん遠ざかり、地獄での苦しい修行がなかなか終わらないのでは?と思います。心から改心したり、心から仏様や神様の救いを信じたりというのはエゴイズムが邪魔をしますから、純粋に信仰を保ち続けて魂を成長させていくことは本当に大変な道のりです。少しずつ成長することを何度も生まれ変わって繰り返す。この悟りに至るまで気の遠くなるような長い年月にわたる輪廻転生をお釈迦様は見守ってくれているのです。

意識は変化自在。望む未来を描こう。

  私たちも自分の影の声に唆されて、自分を成長させる道からそれないように気をつけなければなりません。自己卑下したり、嘆いてる時、それは本当にあなたが望んでそうしているのでしょうか?私たちは重い物質の体を纏っていますが、私たちの本体は霊であり、意識です。意識は変化自在、物的制限はありません。あなたがこの人生で望む生き方、望む未来を心に描く勇気を持たない限り、私たちの人生は心の闇の望む生き方のままです。
  自分が本当に得たい喜び、本当に体験したいことを知っていますか?あなたは自分の人生で一番大切なものをちゃんと分かっていますか?そして、その大切なものを守っているでしょうか?
  自分を知るのは簡単なことではありません。間違っても神様は怒りません。失敗したり、間違えたりも大切なプロセスです。
   大事なことはあなたが自分の意思で考えて、答えを見つけて、行動すること。
あなたの人生はあなたにしか変えられないのです。
  カンダタのように自分の欲望のまま、感情のままに生きると、腕力や財力や権力と言った強くて価値のあるものを高めることが自分の価値を高めていると勘違いします。私たちにとって一番価値のあることは本当の自分の姿を知り、悟りを経て輪廻転生を卒業することです。そのためには、自分の弱さを認め、今の自分よりも成長することを決心して一歩でも前へ進むことです。そして、そんな私たちの姿を神様はいつも見守ってます。私たちが努力を放棄したり、全然ダメな時も変わらず見守って、私たちが気づいて動き出すのを辛抱強く待ってくれています。親の心子知らず、神の心子知らず。カンダタと同じように私たちが気づきを得るのも簡単ではないですね。

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