この春から、無所属、新人。

5歳次男が、先月ようちえんを辞めた。
本来ならば今月から年長さんだけど、どこにも通わずに家にいる。

長男(現在小3)は近くの町にある森のようちえんに3年間通った。
野外保育に魅力を感じていた私は、毎朝お弁当を作って、赤ちゃんだった次男も連れて片道20km離れた園まで送迎し、泥々の服を毎晩洗濯した。
村の保育園が嫌だった訳ではなくて、そういう子育てがしたかったから。

登園拒否があったり、苦しい時期もあった。
その3年間でたくさんのことを感じて、私は自分の内側に矢印を向けるようになっていった。
それまで何かと相手のせい、社会のせい、自分のせいにしていた。誰のせいでもない事に気が付いた。

それから次男は山梨県北杜市にある別の森のようちえんに入園した。
今度は片道40km。
長男の園が嫌になったのとは違う。自分がどういう子育てをしたいのか、自分がどう在りたいのか、だった。

入園してみたら、思ったとおりの場所だった。
「こたえは森の中」。
良いも悪いもない世界。闇も光も存在する世界。
自分が見ているものは自分が創り出している。
あるようでない場所。ないようである場所。

それまでずっと一人で思い抱えてきたものを、集団で見ている。そんな世界がそこにはあって、感激して震えた。
今まで人前で泣くことができなかった私が、年少の1年間は心が震えっぱなしで泣いてばかりいた。

山奥の静かな鏡池のような場所で、自分の姿がよく映って見えた。

わざわざ通うのは、そんな世界観の中で子どもが群れで育つことに意義があると思っていた。

園の運営を保護者が行うことにも大きな意義があると感じていた。
卒園まで運営の仕事をガッツリやるのだと思っていた。

ところが…次男は年中の後半、もう行かないことに決めた。もうこの群れの中に居たくない、と言った。
手を尽くしたり考えを巡らせたりしたけど、私にはもうお手上げだった。
結局私が、群れ、集団といったものを手放した。

どんどんシンプルになるしかなかった。

もう自分は何も持っていない気がした。

身と心ひとつ。

それさえあれば。どこに通おうが、通わなかろうが、大した問題ではなくて、どっちでもよくなった。

やめてもいいか。辞める決心がついた。

それから1ヶ月経った。

やめるとき、スタッフの1人が「自分で生きていくって事だね」と言葉をくれた。
それがジワジワきた。
多分、もうどこにも依存していないのだと思う。
とても孤独なのだけど、不思議と心地好い孤独感。
自分で生きていくんだけど、誰にでも頼れる。
所属がなくなったけど、逆にどんな境界線も無くなったようなワンネスも感じる。

そもそも私は、普通に普通に子育てをしたかったんだと思う。

誰にも支配されず、意図に連れまわされず、まったくの自由に動き回る心。自由な心が、確かに存在しているということ。

お金をかけて、時間をかけて、ガソリンをかけて、どこかに通わなくても、特別な場所に行かなくても、特別なことをやっている園に行かなくても、自分も子どもも幸せである。

幸せはどこかからやってくるものではなくて、自分の中にある。
ただ子どもと家にいるだけで、幸せがある。
そんな日常が、そんな子育てがしたかったった。

ちょうどこのところ、ウクライナで戦争もあったことで気付いた。
平和は作るものではなくて、願うものでもないって。平和は自分の中に感じるものなのかもしれないって思った。

平和も幸せも、自分の中にあるんだって。

そんな子育てがしたかった。
次男はそれを運んできてくれた。
子どもはいつだって私の想像外のものを持ってきてくれる。
私1人の頭じゃあ、どの園にも通わないなんて発想なかったよ。

もちろん2つの園に通ったからこそ気付いた。
どちらの園にもありがたい気持ちでいっぱい。
どちらの園のみんなの幸せも願っているよ。

さて、小学校までの1年、次男とどんな1年間になるかな。ワクワクしかないな〜。

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