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課題整理ソリューションの終焉。潜在価値ハンティングの黎明。(と、ちょっとした決意表明)

 情報の検索や調べ物を得意として、コンサル的な仕事をしばらくやってきた私が、ここ数年「コンサルってこの先、息できる?」みたいな気がしてならない。自分の身の回りで感じたことをつらつらと述べつつ、そのもやもやを言葉にしてみようと思う。

情報の波を乗りこなす「事情通」という仕事

 ネットサーフィンという言葉はいつから死語になったのだろう。気づけば自分が目にする情報は、自分の趣味や嗜好に沿ったもの、自分の考えに近かったり気の合う人達の意見ばかりだ。ネットという膨大な情報の荒波に立ち向かいサーフィンするはずが、自らの取捨選択とキュレーション・レコメンデーションの最適化により、いつの間にか勝手知ったる情報の「流れるプールの波」で身を浮かべるだけになっていやしまいか。
 最近は、フィルターバブルで囲われた穏やかなプールから情報発信している自分の承認欲求や探究心が、随分と小さな範囲で満たされているのではないかと不安になることがある。

 さらに、若い頃から浅く広い知識を売りにしてきた「情報屋」みたいな自分は、次第にネットという集合知の知識量とアクセスの容易性に勝てなくなり、気づけば「浅い・広い」+「手っ取り早い」という優位性で生きて行こうとしてしまっている。広くアンテナを張り巡らせて、手早く信頼できそうな情報を見つけ、専門知識のさわりを早く飲み込み、ポイントを読み解くことに注力して"分析"や"構想"めいたモノを手に入れることに終始してしまっている。それでも、そんな「浅い・広い・早い」が役に立つことはある。どんな分野でも規模の大小はあれ、課題の構造は往々にして似ているからだ。困ってることのタイプは限られているので、整理して指摘することに特化することは簡単だ。
 こういう人たちを昔は「事情通」と呼んでいたように思う。熟練した技術や長年の経験、蓄積された知識に裏打ちされた見識を述べる専門家ではなく、「モノの本質」とやらを端的な言葉でわかりやすく伝える人々。

「事情通」が導く「課題整理」の限界

 ではその「事情通」たちが見出した(ように見える)課題はどうやって解決すれば良いのだろう。
 ここで重要なのは、課題を洗い出して整理することは救いの手ではないということだ。問題解決に本当に必要なのは、その場にいる人や組織や環境や資源などのポテンシャル(=伸びしろ)を正しく見出し伸ばす工夫だ。物事の良さを見つけて伸ばすことは「浅い・広い・早い」では難しい。ヒトやモノの価値や資質を見極めて、良さを育て上げるには、経験に基づく深い洞察が必要になるからだ。
 一方で、依然として課題を共通化して解決を目指すことは一見意味があるように見える。俯瞰的に物事を見られるので新たな視座が得られるようにも思える。でも実際の解決策は千差万別だ。何より厄介なのは、「困っていること」は共通認識として賛同を得られやすいが、「伸ばせること」は人によって見方が違うので賛同を得にくいし、実現可能性を否定するような反論を受けやすい。行政主導の課題解決が多くの場面で苦労しているのは、ここに原因があると思う。

「課題整理」と「潜在価値発掘」の違い

 さらに、課題整理と潜在価値発掘は全く対称的なアプローチだ。多くの課題は顕在化しているので、見えるもの聞こえるものを拾い集めて整理すればいい。でも価値は潜在していることが多い。当事者ですら気づいていない伸びしろを見出すにはセンスがいるし、その伸びしろを時間をかけて磨いていくには継続的な努力と花開かせる覚悟が必要だ。

 では、課題整理アプローチと潜在価値発掘アプローチ、世の中に貢献してるのはどちらだろうか?課題整理の仕事に長年いた私からすれば、圧倒的に後者だと私は思う。

「課題整理」アプローチの限界

 課題整理は第1ステップとしては有効だ。複合的に絡み合った課題を系統立てて紐解き、手をつける順番くらいまでは示すことができる。
 だから、モノわかりのよい事情通は、課題整理して帰納的に共通項を見出し、多くの人や組織の合意や賛同や信頼を得て、解決の一歩手前まで導いた気にさせるのが得意だ。
 課題が浮き彫りになった後、人や組織はどうするか。まず良い解決事例を求める。他の場所や他の人達で同じような課題や事情を抱えつつ上手く解決した事例に学ぼうとする。だから「事情通」は「ここにもあそこにも同じような課題を持っていたところがあるけれど、うまく行った例がありますよ」と演繹的に多様な解決策を提示したようなテイを装う。それは、温故知新的な学びを提供するのではなく、よその知恵を軽率に拝借してぴったりとはまる鍵はないかと手当たり次第に探し始められるよう、事例が羅列されたカタログを提示するようなものだ。

 SDGsという言葉が流行っているが、千差万別な社会課題を万国共通のカテゴリに当てはめるThe「課題整理」アプローチだと個人的には思う。もしくは、特定企業側からすれば、「我々の活動は、このカテゴリに良い影響をもたらすような活動ですよ」という企業アピールのタグ付け程度に使われてるのではないか。流行り言葉になりつつあるが、世界共通理解の第一歩としては少しは役に立つのかもしれないが実効性は疑問だ。

 さらに、こうした課題整理→優良事例を真似るアプローチではほとんどの課題は解決しない。なぜなら、目に見える課題は似ていても、解決に至った経緯はそこにいた人や組織風土や環境資源、原動力のあるビジョンなど、固有の特徴あるポテンシャルが不断の努力で発揮できたからであって、課題が似てるからといって、まるっと取り入れられるようなパッケージ化できる答えではないからだ。

「潜在価値発掘」アプローチの有効性

 だから、企業や地域・行政などの課題に、実効性のある答えを持っているのは、人や組織の壁に阻まれながら、資源の可能性を信じて小さな一歩を踏み出して価値を地道に創造している実践者たちだ。
 話を少し具体化して、まちづくり・コミュニティ形成に絞ってみようと思う。
 例えば、豊島区の南池袋エリアをこの7年ほどで本当に様変わりさせた実践者がいる。流動人口の多い池袋の中でも寂しい地域だったあのエリアに、NYのセントラルパークのような都市型公園と賑わいの場を思い描き、公園や大通りで定期的にマルシェを企画して、日頃の生活のちょっと先の非日常空間を演出し、エリア全体の価値を一気に引き上げている。まちづくりの仕掛け人と言われているが、ビジョンを現実化するために地道な努力を続けていたファシリテーターとしての役目こそが人の多く集まる潜在価値の創造につながったと見ている。

 実践者のもう一つの例として、シェアビレッジの活動を紹介しよう。様々な地域に点在するポテンシャルのある共有資源を集め、ファンを「村民」として日本中から集めてローカルかつバーチャルなコミュニティをつくり、村民同士の絆や支援の気持ち(バイブス)はコミュニティコインを介して循環させる新たな村のプラットフォーム。物理的距離に縛られない村民を含む村コミュニティの拡張と、投資・流通利便性と少し距離を置いたコミュニティコインの使い方。そして、プラットフォームに参加するコミュニティをむやみに拡大して域内経済活動を活発化させることを目的とせず、この枠組みのビジョンに共感できる人々と手触り感のある範囲で絆を深め、着実に主客一体な村民プラットフォーム(コモンズ)を生み出していく。

コンサルティングやソリューションサービスは実践者になれるか?

 こうした手法は、コンサルやソリューションを謳う「事情通」を集めた頭脳集団が得意とする分析屋のやり口の延長で描かれた絵空事では作れないものだ。地域資源の原石を見つけ出して丁寧に磨き、情熱によってビジョンを生み出し、汗をかいて現実のものにする「実践者」にしか辿り着けない答えだ。「事情通」は課題はわかっていても本当の解決方法を見極める眼力も体力も投資の覚悟もないからだ。
 つまり、コンサル業が実のある解決策として社会実装に着手するためには、全く違う業態転換として臨まないと機能しないのではないか。
 課題を抱える組織やコミュニティに貢献したければ、覚悟を決めて小さな実践者になるべきだし、時代はそういう人たちが社会の原動力になる転換期に来ていると感じている。

 と、ここまでの文章を書いたのは実は3年前の話。結語が見出だせず、お蔵入りにしていた。この3年で生成AIが発達し、「事情通」業はますます岐路に立たされている。課題整理とその構造化がAIで瞬殺される時代が目の前に来ている。
 一方で「実践者」たちの潜在価値発掘アプローチがAIに奪われる時代はまだまだ先の話だろう。先にも書いた、地域資源の原石を見つけ出して丁寧に磨き、情熱によってビジョンを生み出し、汗をかいて現実のものにする、これはどの過程でも生成AIに取って代わられにくい仕事だ。

 先に紹介した南池袋エリアの7年間の軌跡を、まとめた記事が先日公開された。改めてこの地域の成功は、地域資源の原石を見つけ出して丁寧に磨き、情熱によってビジョンを生み出し、汗をかいて現実のものにするということを、官と民が歯車を嚙み合わせつつ成り立たせた結果であると思う。

 気づけば私も40歳。「事情通」屋さんで一生食べていくのは限界にきている気がする。これまで培ってきた経験はあまり通用しないかもしれないが、これからは「実践者」として小さく動き出すことを始めたい。それは、生業を大きく変えることになるかもしれないが、この先10年くらいかけて新たな生業への足場づくりとしたいと思う。



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