珈琲の大霊師176
一時間ほど人に揉まれながら、上層を回っていると、ふと甘い香りが漂った。
「ふはぁ、良い匂いがしますね~。お腹すいてきました……」
ぐるるるるきゅーと、モカナの腹が鳴る。それに苦笑して、ジョージはその香りのする店に入る事にした。
幅広な南国の植物の葉が床一面に敷き詰められた、露店風の内装。甘い果物の香りと、鼻をくすぐる香辛料の香り。
モカナの勘を打ち鳴らす何かがあった。ここの料理は、絶対に美味い。
どばっと唾液が出てきて、モカナは慌ててずずっと唾液を飲み下した。
「いらっしゃい。何名?」
隠したい場所だけ布を巻き付けましたというような、無防備な格好の浅黒い女が、ジョージを出迎える。髪の毛を塔のように上に束ねて高くしているのは、この地方の民族的な格好だろう。シオリが目を輝かせて、まじまじとそれを見つめていた。
「4人だ。座れるかい?」
「見ての通り、まだ昼には早いからね。奥の方にどうぞ、眺めの良い席だよ」
案内された先は、一段上がった角の席。大きく開かれた窓からは、広大な内海と、そこを行き来する無数の船が見下ろせた。
そこで、モカナとルビーは子供のように目を輝かせて、はしゃぐのだった。
元々、子供のようなものだったが。
漣と潮風に耳を傾けながらの、エキゾチックな食事は、一行を満足させたと言えた。
「はふぅ。もう食べられないです」
ぱんぱんに膨れた腹をだらしなく投げ出してモカナがつぶやく。口元は、鳥の油でてかっていた。
「おいモカナ、お前腹ん中に子供がいるんじゃないか?」
「子供じゃありません。鳥さんです」
ゆったりと、まどろむような目で珍しくジョージをいなすモカナ。それをジョージは片眉を上げて見下ろす。
「むっ、言うようになったなコイツめ」
と、ほっぺたを引っ張る。
「むひひひひむぅ、まへへふははい」
緩慢に抗議の声は上がるが、その手は見事に膨らんだ腹の上からぴくりとも動かなかった。
「あたいはまだ食えるさ?」
「いや、ルビーちゃんももうやめときなさいって。本当に妊婦さんみたいになってるから」
と、一人だけ常識的な量で胸いっぱいになってしまったシオリが嗜めた。
鳥を焼き、香葉とスパイス、岩塩で味付けしたシンプルな料理を大きな南国の葉に包んだ食べ物。それが、この店の看板メニューだった。
「いや、しっかしモカナが夢中になるもの無理はねえ。何より火加減がすげえ。外はパリッと、中は肉汁が抜けない程度にじっくり火が通ってやがる。もう少し固い方が好みだが、これはこれですげえうめえ」
「ふふ、ありがとねおにーさん。でも、こんなに食べて、お勘定大丈夫?」
ジョージ達を迎えた給仕の女が、ちろっとジョージの上から下までと、後ろの女子供に目をやる。とても金持ちには見えないのだろう。
「そいつは心配いらんよ。ほいっ」
と、ジョージは親指でピンと何かを弾く。宙に舞ったそれは、スポッと女の胸の谷間に収まった。
女が目を丸くする。それは、新品のサラク金貨で、価値も上から二番目に高いものだったからだ。それ一つで、これだけ食べた物の数十倍の価値で取引される。しかも、サラクは長い混迷から不死鳥のように蘇り、それまでの低迷が嘘のように以前にも増した興隆を始めているのだ。
上り調子の通貨は、挙って値上がりするのが常だ。つまり、つい最近上り調子になったサラクの通貨はこれから価値がどんどん上がって新たな金を生み出す、金の卵のようなものなのだ。
「支払いはまた別に、この席と美味い食事を食わせてくれた礼だ。とっといてくれ」
「わはっ。ほんとぉ!?やだ、おにーさんどっかの放蕩貴族かい!?」
と、言いながら大事そうに金貨を懐にしまう。取り出す時、一瞬胸元が大きく開いて、そこから見える光景でなんとなくジョージは胸の大きさを測っていた。どうでもいい男の習性であった。
「そんな大層なもんじゃない。まあ、この程度はいずれはした金になるだろうけどな……」
ジョージは、サラクで始動しているであろうカフェに思いを馳せる。間違いなく、世界を席巻する事になる、飲食業の革命。どんな家庭の隅々まで及ぶ、新しい日用消耗品だ。
別に、金には興味は無かったが、その光景は見てみたいと。そう思っていた。カフェは、その起爆剤だ。
この美味い店にも、いつかサービスで珈琲が出る。このスパイシーな空間に、あの苦くて香ばしい香りが混ざる。
それを想像するだけで、ジョージの胸には熱い何かがこみ上げてくるのだった。
(俺は、本当に珈琲気違いにでもなっちまったみたいだなぁ)
そんな自分を客観的に見ながら、ジョージは幸せそうに腹をさするモカナの顔と、まだ旺盛に食事を続けるルビーを視界の端に収めて、風と潮騒の音に耳を済ませた。
南国の昼は長い。
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