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健康的な「推し活」のために

※頭に思い浮かんだことをそのまま書き起こしたので、無駄に長くなってしまいました。「目次の少し下にある結論まで」と「最後に」の部分だけで、大体の内容は伝わるかと思います。もしお時間があれば、軽く飛ばしながらでも読んでいただけると嬉しいです。

 「理性なき愛執は悪」という言葉を聞いてから、節度あるファンでいられるように心がけている。

 先日、とある芸人さんのファン(以下Sさんとする)によるnoteが話題になっていた。軽く内容を紹介すると、

 「ある芸人さんにガチ恋していたが、彼らについて独善的な批判投稿を繰り返したことで、本人や他のファンから嫌われてしまった。また限定コミュニティで推しへの愛を語っていたところ、フォロワーにセクハラとして告発され、推しからSNSをブロックされてライブも出禁になりかけた。」

 というものだった。noteを読んだ私は、率直に、怖いと思った。一人のお笑いファンとして憤りすら感じた。最近、お笑いファンの中で「ファンの在り方」が問われていたタイミングでもあったため、リアルな問題として受け取ってしまったのかもしれない。

 この件について、同じお笑いファンとして思うことを整理しようとしていたところ、文芸評論家の三宅香帆さんが書いたnoteを見かけて読んでみることにした。三宅さんは、Sさんの背景・心情に寄り添った上で、推し活と人間関係についての考えを述べられていた。私はその考え方に感心し、「たしかにSさんへの配慮が足りていなかったかもしれない」と反省した。しかし、「じゃあSさんは、何が良くなかったのだろう?どうすればよかったのだろう?」というモヤモヤは晴れないまま、その日は眠りについた。

この件の論点について

 一晩経って、「この件は、複数の論点が切り分けられずに議論されているから、Sさんの何が良くなかったのかが不明瞭になっているんじゃないか?」と思うようになった。そこで、自分なりにこの件の論点を以下のように切り分けてみた。もし別の意見があればぜひ教えてほしい。

①お笑いネタへの批評
②あるべき理想像の押しつけ
③リアコ/ガチ恋
④(限定コミュニティでの)セクハラ投稿
⑤限定された投稿の告発
⑥独善的な考えに基づく言動/行動

 それぞれについて詳しく書くが、結論としては、
・②⑥はSさんが良くなかった
・④⑤は件のnoteだけでは判断が難しい
・①③はそれ単体では問題ない

と思っている。

①お笑いネタへの批評

 私個人の意見としては、お笑いネタに限らずエンタメの作品・芸事への批評はあって良いと思っている。代表的なところだと、映画。Firmarksのようなレビューサイトで日夜映画好きが作品の評価を投稿していたり、映画をレビューするYouTuberがいたりする。他にも、漫画や小説のレビューサイトもあるし、ゲームにだってある。エンタメではないが、食べログだって料理人でもない客が評価をつける。全ての消費者が盲目になって作品・芸事を全肯定するようになると、エンタメは衰退する可能性もあると思う。

 ここで気をつけなければならないのは、「レビューサイトとSNSは違う」ということ、そして「作品・芸事の批評はしても、作者の批評は避けるべき」ということだ。レビューサイトの場合、他のユーザーもレビューを見に来ているわけで、そこに賛否両論あるのは見る側も納得済みである。しかし、SNSは違う。純粋に作品のことが好きなファンが、たまたま目にした作品の批判ポストに心を痛めることもあるかもしれない。いまやかつてのプライベートなTwitterはなく、パブリックなXに成り代わってしまった。自分のポストが、知らない誰かも見ているかもしれないと気を配らなければならない(めんどくさいならXをやめよう)。

 もう一つ、作者の人格否定に繋がるのは良くないという話。これは、特に芸人さんについては気をつけた方がいいと思う。例えば、映画の場合は「〇〇という映画がつまらなかった!」と言っても、それは人格否定にはならない。しかし、お笑いの場合は個人単位で活動することが多く、かつ(特に漫才は)作者と作品・芸事の“距離が近い”ため、「〇〇のネタがつまらなかった!」と言うのは「〇〇という人がつまらなかった!」というニュアンスを含んでしまう。私は、ネタを見ておもしろかった時は「おもしろかった!」と投稿し、おもしろくなかった時は何も言わない方針にしている。もし仮にSさんの状況で投稿するのであれば、「〇〇さんの今日のネタは、私の好みには合わなかったなぁ……」のような内容にするだろう。

②あるべき理想像の押しつけ

 ①の批評と違い、「〇〇にはこういう人であってほしい」「こういう活動をしてほしい/してほしくない」と言うことは、ファンとしては越権行為だと思っている。言いたくなる気持ちはわかる。わかるからこそ、グッとこらえてほしい。ここは理性を発動すべきところだ。「コントではなく漫才をやってほしい。」とか、「このネタはこうした方がいい。」とか、思ってしまうのはわかるが、心にしまっていた方がいい。

 こういったことは、お笑い界隈ではよく起こる。少し前に、M-1王者の令和ロマンさんがYouTuberのヘラヘラ三銃士さんとYouTubeでコラボした際、令和ロマンファン(お笑いファン)の一部がこのコラボをかなりの勢いで批判した。「この動画はおもしろくなかった」という批判ではなく、「YouTuberとなんかコラボせずにテレビに出てほしい」という批判だった。霜降り明星の粗品さんは、こうしたファンの言動について「ファンハラスメント」という造語でネタにしている。ファンは消費者であって、消費の仕方を選んだり、消費した作品・芸事についてコメントすることはあっても、供給についてまで自身の思い通りにできると勘違いしてはいけないと、私は自分にも言い聞かせている。

 余談だが、私もエンタメの制作に携わる仕事をしているが、消費者からはおもしろかった/おもしろくなかったの批評だけでなく、「こうあるべき」「なぜこんなことをしたのか」というお気持ち表明のコメントもよく届く。しかし大抵の場合、それらの考えは一度議論した上で消費者の思いもよらないデメリットがあったり、制作側の意図としてやりたくない理由があったりして、結果的に却下された選択肢だったりする。それくらい、制作者が時間をかけて、人生をかけて作っている作品に、1人の消費者の思いつき・エゴが当たり前のように反映されるなんて、思わない方がいい。

③リアコ/ガチ恋

 リアコやガチ恋、顔ファンというのは、お笑いのみならずスポーツ選手やアーティストのファンの中にもいるだろう。これ自体は悪いことではないと思うし、恋なんてのは自然としてしまうものなのなので、「思うな」とまではなかなか言えない。しかし、リアコやガチ恋は「用意された楽しみ方」ではないことを自覚しなければならないと思っている。「用意された楽しみ方」ではないため、作者や周りのファンはそれを望んでいなかったり、場合によっては迷惑になることもある。エンタメの消費の仕方は自由だが、それは他人に迷惑をかけないことが前提の話である。

 これも、お笑い界隈とは関係が深い問題だ。例えば、吉本の劇場で行われる寄席(複数の芸人さんが順に1ネタずつやる公演)において、特定の芸人さんの熱烈なファンが、彼ら/彼女らのネタが終わると公演中でも帰ったりすることがある(そしてその芸人さんの次の現場に向かうのだ)。特にいわゆるイケメン芸人さんの出番だと、最前列からごっそり人がいなくなる時もある。後の出番の芸人さんからしたら、客入りが悪いように見えるし、ウケも少なくなってしまう。他の客からしても、公演中何度も出入りされるのは迷惑である。また、コロナ以降減ってはいるが、劇場の出入り口での悪質な入り待ち/出待ちも問題視されている。特に女性芸人さんからしたら、身の危険を感じることもあるだろう。リアコ/ガチ恋になることそれそのものは心情の話なのでいいと思うが、それに起因する迷惑行為やストーカー行為、悪質なDMなどは、距離感を図り間違えたハラスメントになると思う。

 少し話は変わるが、Sさんはnoteの中でアイドルのリアコについても同じようなことだろうと言及していたが、ことアイドルについては少し話が変わってくるので、分けて考えた方がいいと思う。アイドルは恋愛禁止のルールがあったり、(本人というより運営が)疑似恋愛を供給している側面があるため、作品・芸事だけでなく個人崇拝が生まれるような構造になっている。リアコ/ガチ恋が生まれるのも当然と言えば当然。その考え方・文化が他の界隈に流れてくることで、話がややこしくなっている気がする(アイドルについても思うところがあるので、また別でまとめたい)。またアイドル以外でも、リアコ/ガチ恋を望んでいる、生ませるような芸人さんやアーティストもいたりするので、正直そこはケースバイケース。「嫌がってる人に嫌がる行為をしない」に尽きる。

④(限定コミュニティでの)セクハラ投稿

 今回の件については、Sさんが実際にどのような投稿をしていたかわからないため是非を判断するのは難しいが、基本的には限定コミュニティでも節度を守った投稿をしなければならず、かつ本人に届かないように注意を払うべきだとは思う。

 三宅さんのnoteにあった、学校の例を借りる。中学生や高校生の頃、仲良い人同士や限られたコミュニティでしかできない会話というのは誰しも経験があるだろう。内容は、先生の悪口かもしれないし、しょうもない下ネタかもしれないし、クラスの美男美女についての妄想かもしれない。学校では「陰口をしてはいけません!」と言われて育ったが、本人に届かないヒソヒソ話を取り締まるほど、私はキレイな人間ではない。しかし、例えば1人の男子生徒が、クラスのある女子生徒について「無理矢理でもいいから体に触りたい!」なんて言っていたら、女子生徒本人が聞いていなくても「さすがにそれはヤバいんじゃない?」と思う。はじめは淡い妄想話に付き合っていた周りの生徒たちも、行きすぎた欲望に危機感を覚え、止めようと動いたとしても不思議ではない(もちろんまずは本人に忠告すべきだとは思うが)。これは、たとえ表に立つ人間とファンの関係であっても、人対人なのだから、基本的な配慮は同じであるべきだと思う。

 では、どこまでがセーフでどこまでがアウトかという線引きは、なかなか難しい。当人同士の関係性にもよるし、話し方や場所、文脈にもよるところがある。「あの男子カッコいいよね」だけでセクハラ判定されると流石に辛いと思ってしまうが、状況次第では相手を傷つけてしまう可能性もある。ベースとなるのは相手方への配慮で、ここでも理性が問われることになる。

⑤限定された投稿の告発

 これについても、Sさんが実際にどのような投稿をしていたかわからないため是非を判断するのは難しい。サークルの投稿は鍵垢みたいなものなので、嫌がらせでスクショを撮って外に見せるのは良くないと思う。が、事件に繋がる危険性を感じたのであれば、止めに入るのもやむなしというところ。ここについては、対推しというより、対フォロワーとの関係性に問題があったようにも思う。

 SNS上で形成されるファンダムや、そこでできた推し友は、推しという共通言語のおかげでコミュニケーションはスムーズに進む。ともすれば、現実の隣人よりも速いスピード仲良くなれることもある。しかし、個人的には、芯から信用するのは難しいなと思っている。場合によっては顔が見えない、年齢もわからない、投稿が本心から来るものかもわからない、目的もわからない、というのが推し友である。怖い言い方かもしれないが、これくらいの心づもりでいないと、予想だにしない仕打ちを食らう可能性もある。実際、チケット詐欺やグッズ交換トラブルなんてのはよく聞くし、誘拐なんかが起きてもおかしくない。マジックテープのように、すぐにくっつく繋がりは、簡単に剥がれるのだ。

 なので、クラスの友達とヒソヒソ話をするのと、リア友ではないサークルでの投稿とはわけが違ってくる。クラスだと、秘密を裏切った側もそれなりに非があると捉えられるが、ネットでの裏切りは裏切られた側の不用意でしかない。

⑥独善的な考えに基づく言動/行動

 これは他の項目(特に①②④)とも関係してくる内容だが、Sさんのnoteの節々に透けて見える「自分勝手さ」に、文章の内容以上に恐怖感や嫌悪感を抱いた人がいたのだろうと思う。やっていることだけだとたまに見かけるガチ恋ファンだが、それを正当化しているかのようなスタンスが、ここまでの過剰な反応を呼び拡散された要因だと思っている(加えて、その内容・スタンスにも関わらず文章は明瞭で読みやすかったこと、新幹線などのパンチラインが豊富だったこともバズった要因)。

 ここについては、後にSさんご本人が訂正・反省しているnoteを投稿されているので、これ以上の追及はしない。

「推し活」そのものについて

 アイドル以外の表舞台に立つ人については、基本的に提供しているのは作品・芸事であって、個人ではない。リアコ/ガチ恋でなくても、個人崇拝は「用意された楽しみ方」ではないと思う。

 私は、エンタメへの愛着について、下記の3パターンがあると思っている。

❶個人が好き。作品・芸事は個人のために見る
❷作品・芸事が好き。個人も作り手として好き
❸作品・芸事が好き。個人には興味がない

 世間的には❶と❷を合わせて「推し活」と呼ばれているが、❶が最近増えてきた「個人崇拝としての推し活」であって、❶と❷には大きな違いがあると思う。Sさんはnoteの中で、ファンには「好きな人に対して、好きすぎて狂信的になり、全肯定人間になる人」「好きすぎて、愛を拗らせて文句ばかり言ってしまう人」の2種類がいると説明していた。この2つは、両方❶の「個人崇拝としての推し活」にあたる。

 私は、お笑いに関して自分は❷のファンだと思っている。私は霜降り明星さんやラランドさん、ダウ90000さんが好きだが、彼ら/彼女らのネタ・番組・トーク・YouTubeなどがおもしろいから好きなのであって、個人が先に立つものではない。もちろんファンと言うからには個人も好きではあるけれど、それはひとえに彼ら/彼女らが新たに生み出すお笑いへの期待心というのが本質だ。実際、以前は好きだった芸人さんでも、あまりネタをやらなくなったり、おもしろいと感じなくなったりして、積極的に見ることはなくなったこともある。彼らが何をしてても全肯定するわけでもないし、反対に理想を押し付けることもしない。❶と❷の大きな違いである。

 ❶を全て否定するわけではない。「推し活」全般に言えることだが、先に少し述べたように、現代における優秀なコミュニケーションの手段としての側面もある。一方、❶で気をつけなければいけないのは、「この人を推すと決めた自分」から逃れられないという、アイデンティティの呪縛に囚われることである。推しを定めることで、自分自身の軸を他者に委ねてしまって、自分で自分の舵を取れない依存状態に陥る。それゆえに、推しを自分と同一視して全肯定する(ことで自己肯定感を高める)か、推しが推し始めた時と違う行動や意にそぐわない行動を取った時に、推しの軌道修正を図るようになってしまう。まさに、「好きな人に対して、好きすぎて狂信的になり、全肯定人間になる人」と「好きすぎて、愛を拗らせて文句ばかり言ってしまう人」。カルト的な新興宗教の悪い面にも似ている気がする。

最後に

 「推し活」をするなとは言わない。個人に対する愛執を抱くこともある。私もオタク気質だし、気持ちは理解できるし、推しを持つ当事者でもある。が、そこに理性は並々ならぬ理性が必要。常に推しとの境界を意識し、勘違いしないように己を律し、周りに迷惑をかけていないか確認し。理性を持ってして自立することが、「推し活」には求められる。

 「自立とは依存先を増やすことである。」というのは、東京大学先端科学技術研究センター准教授の熊谷晋一郎さんの言葉だ。文脈は違うが、「推し活」にもこれは当てはまると思う。自分の感性や哲学を一人の推しに委ねることは依存だが、複数の依存先があることでそれらが自分の中で混ざり、距離を取り、自己の確立ができるようになる。

 理性を持ち、一人の推しに依存しないようにする。自分よし、推しよし、他のファンよし。三方よしとなる、健康的な「推し活」を、誰しもが送れるように。



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