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[エッセイ]本・読書・蔵書について思うこと

 大阪の池田に住んでいたころ, 電車と地下鉄を乗り継いで東大阪にある司馬遼太郎記念館を訪ねたことがある. 今から3~4年前の頃だったと思う. 

 私にとって初めての司馬作品は『燃えよ剣』だった. 司馬の作品は, まるでその目で見てきたかのような細かい描写, それでいて読者にずんずん次のページへ読み進めさせてしまう文章の面白さに親しみを感じていた. そして何より主人公・新撰組副長 土方歳三の威風堂々としたカッコよさが初めて作品を読んだ中学時代の私に強く印象に残っていたのだ. そして, 文庫本を閉じようと後ろのページに目をやると「『司馬遼太郎記念館』のご案内」が書かれていた. 「こんなにも面白い歴史小説を多数世に残した司馬の記念館にいつか行ってみたい」と当時から思っていたのを覚えている.

 司馬遼太郎記念館は司馬が晩年過ごした住まいの横に司馬が執筆の際に集めた資料や生原稿を一般公開した施設である. 敷地内を入ると, まずは住まいの庭の小径を横切ることになる. 小径の途中には, 外から司馬の書斎を覗くことができ, ロッキングチェアの周り三方に本棚がずらっと並んでいた. 没後20年以上経っているとはいえ, 生前の彼の息吹を今も充分に感じることができた. 
 小径を抜け, 記念館を入ると, 私は息をのんだ. そこには地下一階から吹き抜けで地上二階まで夥しい数の本が所狭しに鎮座してあったのだから. (確か, 一般客の大書架の撮影はNGだったはずであるからご自身の目で確かめてみてほしい)

 公共の図書館ならまだしも, 個人の蔵書として一生涯の内にこれほどの数の本を集め, 読み, 作品のエッセンスになったのだと思うと度肝を抜かれたのだ. と同時に, これほどの数の本に囲まれた司馬は幸せだったろうなと純粋な感慨に充たされて, 私は記念館を後にした. 

 逸話によると, 司馬は作品の執筆にあたって神保町中の古本屋の本を一度この住まいに持ってこさせ, 作品のために要する古書を一冊一冊精査し, 買い集めたと聞く. (その間, 神保町の古本屋はすっからかんになったのだとか) この逸話が本当かどうか今となってはあずかり知れぬが, こうした逸話が残っても不思議ではないほど, 彼の作品は文章一つ一つに深く透徹された生命を感じる. 

 司馬のように, 生涯のうちにたくさんの本を集め, 知的生産の礎とした人物の一人に渡部昇一がいる. 彼もかねてから本を集め, 晩年には私財を投じて都内の自宅に開架式の書庫を設けたと聞く. この書庫は一般公開されていないはずだが, その一部を渡部の著書で垣間見ることができる. 

 渡部は自らの著書の中で, 19世紀イギリスの小説家ギッシングを例に, その日の全財産を投じて古書を買い, 質素なご飯を食べながら買ったばかりのその本を読む彼を指して, 「貧乏してでも本を買え」と説いている. 

 司馬や渡部が私はうらやましい. 
 かく言う私は本を読むことが好きだが, 幼いころからいかんせん本を読むのが遅い. 

 小学の頃, こんなことがあった. 当時の私は, 学校の図書館で児童書のダレン・シャンシリーズ(一冊300ページ近くある計12~13巻のシリーズもの)を一冊ずつ借りては読み, 借りては読み, を繰り返していた. 6~7巻まで読み進めていたころ, 同級生が同じ児童書のシリーズを1巻から読み始めていた. 始めは, そんなことを気にすることなく今借りている中盤の巻を読んでいた. が, 次第にその同級生が日をまたぐごとに次の巻, 次の巻を読み始め, ついに私が今読んでいる巻まで追いついてしまった. 彼は私が読み終えるまで続きを読むことができない. 仕方なく私は読みかけの本をいったん返却し, 彼が読み終えるのを待って借り直すことになった. その時の屈辱と言ったら, もう...!

 それ以来, 私は本読みの遅さがコンプレックスである. 世の中には"速読術"なるものがあるそうだが, 私は一言一句理解しながら読まないと気が済まない. 私が読み落としてしまった文字の中に著者が心血を注いだ言葉が埋まっているのではないかと思うと, みすみす読み飛ばしていられないのだ.

 私が尊敬する師の一人に, 「青年期に本を一千冊読め. 一千冊読んだ者は教養人になれる.」と説かれたことがある. しかし, 倦まず弛まずチマチマと本を読み続けている私は, 一千冊には程遠い. 本棚に植わっている本の数がそれを物語っている. それゆえに, 生涯を通して本を読み続け, アウトプットとして己が仕事の推進力とした司馬や渡部がうらやましいのだ. 

 書店へ脚を運べば, 私の胸を躍らせる本が多数にある. 私にはまだまだ未知の読みたい本がいっぱいあるのだ. まだ誰のものでもない新人面の本を, いつか私が買い, なめるように時間をかけて読み切る日を夢見て, 今日も私は読みかけの本を読むのである. 

 この一文, 一段落, 一章, 一冊が私の心を震わせ, この先の方途となることを信じて.

2022.2.22

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