西国街道11 神辺宿→尾道宿
本格的に街道を歩きはじめて3年目、夏は歩く時間がまとまって取れるので、ぐいぐいと街道を進む事が出来ます。1年目は中山道、2年目は北国街道・三国街道、3年目に選んだ道は西国街道。
真夏の京都から下関まで約570km、猛暑との共存も年々コツを得てきましたが、身体と会話しながら西を目指します。
2023.08.24
1.スタート地点まで
羽田空港モノレール改札横に、その場でオレンジを絞る、オレンジジュース自販機発見、1杯500円也。
西国街道の地図は、"日本の街道地図走り歩き旅"からダウンロードし、1日毎に製本して持ち歩きます。
全都道府県の、小さな街道まで網羅されてますので本当に便利です。
飛行機は太平洋上ではなく、日本列島の真上を横断するので、珍しく都心上空を通過。富士山は左に見えます。
歩いてきた西国街道上空を、一瞬にして通過し、広島空港に到着。
ここからは、スタート地点の神辺駅(かんなべえき)にむけて、高速バスと徒歩と鉄道を駆使した最短ルートで向かいます。
只今の時刻10:17、5つの乗物を乗継いて6時間の移動を終え、いよいよ歩き始めます。
早朝に日の出と共に歩き始める場合は、その日の最低気温の時間帯から歩き始めて、時間と共に気温が上昇するので肉体が順応するのですが、スタート地点まで時間がかかる今日の様な日は、気合で乗り越えるしかありません。
2.神辺宿
前回歩いた際の、矢掛宿で夕飯がお好み焼、帰りに広島空港に行く前に食べた夕飯もお好み焼、この先どのくらいお好み焼屋さんが多いか、定線観測をしてみます。
地図上では溜め池があるはずの場所にゴルフ練習場が????
地図を何度も見返してもここは溜め池のはず。もしやと期待を膨らませ、脇道から入り込むと、期待通りの光景が。
溜め池が多い瀬戸内地方では珍しくない光景の様で、検索しますといろいろと出てきました。回収しやすい様に水に浮く軽めのボールを使用するなど、運営上の工夫をしています。
鶴ヶ橋 。
おそらく車で渡ると狭くて運転士ずらいと思われますが、時速4kmで眺めながら渡ると、見ごたえ十分な橋です。
1936年竣工で、近代土木遺産Cランクに登録されていました。
この道は狭い割に交通量が多く、車がビュンビュンと阿吽の呼吸ですれ違い、ただでさえ歩きずらいのに、横の水路に落ちない様に細心の注意を払いながら進む事になります。
離合困難。
関東地方に育った私には初めて目にする四字熟語。
意味は理解できないですが、時速4kmで歩いていると理解できます。離合とはすれ違いを意味し、道が狭いのですれ違いが困難ですよ、と4文字で一発で伝える言葉の様です。
ホロコースト記念館。
京都ご出身の理事長 大塚信さんが、1971年にアンネフランクの父オットー・フランクさんとの出会いがきっかけで、その後牧師として福山で過ごした際に設立をした記念館。夏休みの平日でしたが大型バスが2台も停まっていました。
一石二鳥の畑、電気も耕す時代ですね。
3.芦田川
ヤマカガシ。
生まれ育った茨城県の自宅の庭にもいました。ヤマカガシの毒はマムシやハブの数倍もあると言われていますが、臆病でそもそも人に寄って来ないのと、噛まれても毒牙が奥歯にあるので人体内に入りずらい為に、死亡事例が殆ど無く、あまり騒がれていません。
4.山手一里塚
塀鬼瓦。
私が勝手につけた名称で、瓦屋根付きの家の塀の角にある縁起物付き鬼瓦。西国街道で播磨國に入ると目につき始めました。
鷹・波・七福神が主流で、ご当地物では明石の蛸・岡山の桃がありました。
上記画像の七福神の福禄寿は初のケースです。
サトイモを水田の様にして育てています。
珍しいですね、どんな味になるのでしょう。
西国街道では、一里塚が木を植えられてそれらしく残っている場所が今まで殆どありませんでした。ようやく現れた感じです。
旧山陽道。
西国街道は江戸時代以降に、参勤交代に西国大名使用して整備された街道の呼称。旧山陽道はそれよりも前の道で、西国街道とは一致しません。
今回の街道歩きでは、ところどころ混在してしてわからない場所がありますが、拘り過ぎずに西に向かう事にします。
弘法大師が岩を打ち砕き、湧き出したと言われる”弘法水”を汲める場所。
熱い中歩いていると、常温の水が一番身体になじむので汲みに行きたいところですが、1km以上も街道からそれるので断念。
ちょうど今から一年前の今日、8月24日に夫婦で北国街道を歩いた際に、関山宿の大田切という、渓谷を抜ける難所で遭遇した湧き水の看板に、次の様な言葉が記されておりました。
”参勤交代の人々ののどをうるおした湧水”
時空を超えても湧き続ける水を、一年前に飲んだ時の幸せは、今でも忘れられません。詳しくは次の画像をご覧ください。
もっと詳しくは↓
5.貯水槽
イチジクを大切に育てています。産地なのかもしれません。
かなり古いタイプの貯水槽です。
降水量が少ない瀬戸内地方と横断する西国街道沿道には、多くの溜め池がありますが、貯水槽も多く見受けられます。
店の名前は”あまんじゃく”。
”あまのじゃく”の方言で、尾道ラーメンを売りにするともっとお客様が増えるらしいのですが、メニューには尾道ラーメンを出さないという、いいこだわりと”あまのじゃく”っぽさを持つ店主さんでした。
6.石垣
石垣のある家がたくさんあります。
脇道の奥の方を覗き込んでも石垣のある家が続いています。石の産地が近くないと出来ない芸当ですね。
またもや使い慣れない日本語を用いた標識。
金比羅山信仰。
往時の人々は船で瀬戸内海を渡って、金比羅参りをされていたのですね。
備後國の神辺宿付近に入ると、大きな石灯籠や常夜灯が道端に佇んでいます。
大きさに加えて自然石を美しく積み重ねた姿が、周囲の里山風景に自然に溶け込んでおり、ついつい足をとめて眺めている事が何度かありました。
道場と接骨院が一緒になっている。
説得力があり過ぎる組合せでした。お菓子屋さんと歯医者さんが一緒になっている様な感じですかね・・・・。
7.今津宿
西国街道の七日市宿に、彫刻家平櫛田中の記念館がありました。この地にも住んでいたのですね。
今津宿本陣跡。
本陣跡は一般開放をしているかの様な雰囲気で、中に入ろうとしたところ、庭の奥の母屋では住人が暮らしている様です。
普通でしたら立入禁止などの表示を出したくなるところですが、偉いと思うと共に、代々受け継がれてきた懐の深さを伺い知ることが出来ました。
おそらく昔は海岸にあった神社だと思われます。
池が広々としていて、海とつながっているのかもしれません。不思議な感じの境内でした。
伊勢音頭。
坊地くだれば鶴亀山よ 清き泉の恋の水
と刻まれています。
伊勢音頭は、”荷物にならない伊勢土産”として全国に広がり、様々な曲に編曲されています。この石碑の唄もそのひとつだったのでしょう。
リスク回避社会となり、公園の遊具からスリリングなものが排除されて寂しさを感じます。街道を歩いていて、時々公園で遊具の使用禁止の張り紙を見ると悲しくなってきます。
この大新北児童公園には、いい遊具が揃っていました。
8.従是西 藝州領
インターチェンジを歩いて抜けるのは一苦労。
自動車の為に造られているので歩行者に人権はありません。大回りをさせられるのは腹が立ちますがまだ良い方で、車に轢かれそうな道は最悪です。
上の画像はインターチェンジの下を潜るように通過する場所。
坂と曲線とトンネルが重なり、歩道が無い最悪条件の道。時々自動車が通過しますので、轢かれないようなポジションを取り慎重に歩きます。
こんなところで轢かれたら悔やんでも悔やみきれないですし、もし轢いてしまったらドライバーさんも気の毒です。
安芸國に入りました。
山城→摂津→播磨→備前→備中→備後→安芸、7つめの國。
その先は、周防→長門の順で9つの國を通り下関に着きます。
9.尾道宿
街道から少し離れていますが、風格のある校舎が目に飛び込んできました。久保小学校の旧校舎、取り壊されてしまうのでしょうか?
校舎に見惚れて、街道から外れて散策していたら道に迷いました。
再び西国街道に戻ります。
本日はここまで。
商店街の飲食店が殆ど空いていないので、夕飯を調達し階段を300段くらい昇り、宿泊先の古民家に向かいます。
宿泊先は築100年”みはらし亭”。
かつて尾道では”茶園”と呼ばれる別荘を見晴らしの良い場所に建てるのがステータスでした。
みはらし亭を運営されている方に、ここまでに至るお話しを聞いたところ、建物自体は茶園から旅館へと活用の道を変え、閉館した後に尾道市の空き家バンクに登録。
宿泊施設としての再生に手をあげ、大改修工事や登録文化財認定など、運営者の並々ならぬ努力の結果現在に至っています。
この場所に来る方法は階段しかありませんので、資材の運搬など手作業となるのです。そんな努力をかみしめながら宿泊しました。
宿泊者は眺望の良い喫茶スペースをお借りできるので、広島風お好み焼きを持ち込んで食べながら、ちびちび晩酌をして終了。
5組くらいが宿泊しており、私と女子旅の2組が日本人、残りの3組くらいがフランス人と思われる家族などでした。しまなみ海道を自転車で旅するフランス人や台湾人が、尾道に立ち寄るそうです。
外国人観光客が宿泊しているということは、洗濯機の争奪戦を避ける事が出来ません。私は18:30頃にチェックインしたので完全に争奪戦に出遅れ、最終的に眠れたのは午前3時。今朝は朝4時に起きたので長い一日となってしまいました。
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